第16話 それで、頼みがあるんだけど
「それで、頼みがあるんだけど、
その頼みとは、ずっと味方でいてほしい、とか、
「うん」
「もう一回、千花名に抱きつかせて」
いたずらそうな笑顔で、あの赤いぽつぽつのある白い頬を赤く染めて、菜穂は言う。
「はあ……」
「だって、さっきはどさくさ紛れだったし」
それはそうだ。
で?
「やっぱり、ここはちゃんと千花名に感謝を伝えたいから」
「えっ……いや、あの」
感謝は感謝でいいから、どうしてそれが……?
すーっ、と、菜穂の上半身が近寄ってくる。
いや、その前に椅子を千花名の近くに引き寄せていた。
逃げられない!
「あっ、いや……あのっ!」
「ありがとう千花名っ!」
がばっ。
今度は、もう泣いてない。
それでも、菜穂は千花名の胸に顔を埋めてくる。埋めて頬を右左に振る。
「あっ、いや……その……くすぐったいんだけど」
それも、頬が触れているところだけではない。頬をすりつけたまま激しく振るので、じかに菜穂が触れていないところの千花名の肌までがあちこちで擦りあい、くっつきあい……。
菜穂は頬をすりつけながら笑っている。声は立てないけれど、とても幸せそうに笑っているのがわかる。
そうやって首を振るので、少し癖のある菜穂の髪が千花名の頬をちくちくしたし、シャンプーの香りにまじって、たぶん千花名の髪本来の、すこし
しようがないな……。
長く息をついて、千花名も、がばっ、と菜穂を抱く。菜穂の背中に手を回す。
そうすると、菜穂の、早くて大きい息づかいが、千花名の大きい腕を通して伝わってきた。
目は閉じない。
だから、制服のシャツの下で、やっぱり白い肌が上下しているのが、襟のすき間からわかる。
千花名の、菜穂を抱く腕にいっそう力がこもった。
がたっ、と音がして、扉が開いた。
「えっ?」
扉の向こうには、花嫁さんと花婿さん、つまり
きっと、何が起こっているかすら、最初はわからなかったのだろう。
「い……」
多祢子先生が声を立てかけて、そのまま何も言えなくなった。
菜穂のお父さんも凍りつき、野入先生だけは、また、困った子たちだという顔で苦笑している。
いつもの野入先生にちょっと戻ったようで、ほっとする。
ほっとはするのだけど。
菜穂は、それでも、胸に頬をすりつけたまま動こうとしない。
「ちょっと菜穂?」
千花名は自分が菜穂の背中に回していた手をそっとほどいた。
目立たないように。
「うーぅんっ?」
寝ぼけたような、甘えたような声だ。
ああ、こいつ子ども、と千花名は思う。
でも、それでいいんだ。たぶん。
「みんな見てるんだけど」
無愛想に言う。
「みんなってだれぇ?」なんて言ったら、がばっと肩を突き放して、がっと首を捻ってやり、「自分で見なっ!」と言ってやるところだ。
「あーっ。うーん」
緊張感のない声を立てて、菜穂は……。
顔を千花名の胸にすりつけたまま、深呼吸した。
その息が、あの白い服を通して、またふーっと千花名の胸に吹き渡り、それでは足りず、そこからさらに分かれて千花名のあちこちの表面を通って行く。
かいていた汗がひやっとした。
それから、菜穂は身を起こし、自分を見ている、自分の父親と、菜穂の言う香菜子先生と、それから教会の多祢子先生を、時間をかけて順繰りに見た。
と思ったら、すーっと千花名のほうに顔を戻す。
軽くピアノの鍵盤を叩くしなやかさで、菜穂は右手でぽんっと千花名の胸を叩いた。
「あっ」
「ふふっ」
菜穂は笑った。
「千花名って、胸、けっこう大きい!」
「……」
一瞬、沈黙が支配した。そこで千花名が「そんなこというもんじゃないでしょ?」と言おうとしたとき……。
菜穂のお父さんと、野入先生と、多祢子先生はいっせいに吹き出した。笑い出した。
大笑いした。とくに、多祢子先生は、何がおかしいのか、身をくねらせ、大声を立てて笑っている。
もちろん菜穂も笑っている。
みんなで笑っている。
千花名一人を別にして。
雨降って地固まるとはこういうことか……。
「いや……いやっ……あのっ……」
千花名は最後まで笑わなかった。けっして笑わなかった。
口をぎゅっと結んで、目を細くして、顔に力を入れて、こらえた。
でも、それって笑ってるみたいに見えるだろうな、とも、千花名は思った。
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