第15話 そんなことになったら、わたしが守るから
お父さんはこの担任の先生に三年生から卒業まで担任してもらい、その後もいろいろと世話になったらしかった。そして、菜穂のお父さんがなかなか結婚せず、何回かお見合いしてうまく行かなかったあと、その先生は自分の娘と結婚しないかと言ってきた。断れなかった。
菜穂の産みのお母さんも、そんなに悪い人ではなかった。
でも、菜穂のお父さんとは合わなかった。それに菜穂とも合わなかった。
家族でどこかに出かけたときも、この産みのお母さんという人は、菜穂のお父さんも菜穂も置いたまま、自分の行きたいところへ一人で行ってしまう。とくに、菜穂は子どもで、速く歩けないのに、それに合わせるということをしなかった。どこへでも自分でさっさと行ってしまい、あとからお父さんが菜穂を連れて追いついた。家のなかのことも、晩ご飯を何にするか、いつお風呂に入るかということから、どこの部屋をだれの部屋にするか、休みの日の予定まで一人で決めてしまう。
それで、菜穂が小学校四年生だったころ、お父さんが
「そんなに自分のことばっかりじゃなくて、菜穂のことも考えて」
と言うと、
「何、菜穂菜穂って。菜穂は自分一人のものみたいな言いかたをして!」
と言い返したという。そして、それにつづけて
「菜穂は半分はわたしのものよ!」
と言ったらしい。しかも、それを菜穂の前で。
それで、自分が半分ずつ分けられかけていることに気づいた菜穂とお母さんのあいだにもしだいに溝が広がって行った。
そして、菜穂が小学校の五年生だったある日、菜穂のお母さんは突然いなくなってしまった。自分の生まれた家に帰ったのだ。
そして菜穂のお父さんは
菜穂のお父さんはわりと早くにその気もちを菜穂に打ち明けていた。ただし、自分の娘の部活の顧問の先生と結婚するというのはよくないので、菜穂が高校を卒業したら結婚しよう、ということに決めていたという。
「ところがさ、それが、お母さん、っていうか、わたしを産んでくれたお母さんの家のほうに伝わってしまったんだ」
その説明をするときには、もう菜穂は泣きやんでいた。泣きやんでいたどころか、後輩に楽譜の説明をしているときのように落ちついていた。
「で、その、お母さんのお父さん? まあおじいちゃんってことになるんだよね。そのおじいちゃんはさ、わたしの子育ての手間もかからなくなったから、そろそろお母さんをうちに戻そうと思う、とか言ってたらしくてさ」
「はあ?」
よくわからない。菜穂は笑った。
「そうそう。そう思うよね」
そしてまたひとしきり笑う。
「わたしも思ったよ。自分のことだ、っていうのをおいても、たぶんそう思う」
「うん」
千花名は子どもだからよくわからない。
そうだ。よくわからない。
でも、子どもを育てるのに手間がかかるからこそ、両親はいっしょにいるのではないのだろうか?
たとえそうでないとしても、その手間がかからなくなったから、お母さんを家に戻らせる、という発想が、よくわからない。
いや。よくわかる。
そのおじいちゃんというのが、菜穂を、じゃまもの、お荷物としか考えてなかったということだ。
「それがわかったから、お父さんも野入先生との結婚を急ぐことにしたらしいんだ。ところがさ、それから、お父さんの仕事が急にうまく行かなくなって」
「はあ……」
「調べてみるとさ、そのお母さんのお父さんっていうのが、お父さんの会社とか、会社の取引先とかぜんぶ調べ上げて、お父さんの悪口を言って、その会社は、とか、担当のその人は信用できないから、って話を流してたことがわかって」
うわ、ひどいことするな、と千花名は思う。そして思い当たった。
「ああ」
「だからさ。大人って、ほんときたないことするんだな、って思った」
「それで!」
わかった。
「大人になりな」というのは、大人のそういうところを見てしまった菜穂には、とても受け入れられない言いかただったわけだ。
「うん」
菜穂はあいまいに笑う。
「ごめんね」
「あ、いや」
菜穂が怒ったのは当然だ。
後輩はともかく、菜穂とのつきあいの長い、あんなに音楽をぴったり合わせられる千花名が、いちいち菜穂が気にしていることを口にしたので、それで怒ったのだ。
でも、千花名が悪いわけでもない。
「だから、新しいお母さん、って、
菜穂は名まえのほうで呼ぶことにしたらしい。
「香菜子先生の家族もさ、そんなのだから、苦労するに決まってる、って反対に回っちゃったし。わたしも微妙だったよ。ずっとお父さんと香菜子先生を応援してたけどさ、今日って日が近づいてみるとさ、二人とも、いや、わたしも含めていやな目に遭う、ってわかってたからさ」
菜穂は軽く首を傾げた。
「やっぱり、いざとなってみると、自分がいやな目に遭うっていうのが、いちばん怖かったかな。それも自分を産んでくれたお母さんから、っていうの。ふふっ」
小さく笑う。
「けっきょく、そうなんだよね」
「いや」
千花名はいつもの無愛想な言いかたで言った。
「そんなことになったら、わたしが守るから」
言ってしまうと、引っ込みはつかなくなる。
「わたしだけじゃなくて、あの、さっきの後輩連中もいっしょになって守るから。菜穂だけじゃなくて、菜穂のお父さんも、野入先生も」
千花名はまだ野入先生と呼んでもいいだろう。
言ってみると、千花名は頬に笑みが浮かんだ。もともと無表情の不機嫌な顔に浮かんだ笑みだから、「不敵な笑み」というのになっているだろうな、と思う。
「こっちはオーケストラだよ。百人からの団員がいるんだよ。その親とかもいるんだよ」
いや、たしか、音楽部は室内楽まで合わせても、いま百人はいないんだったな。
でも、そういうことには触れないでおく。
「ありがと。千花名」
菜穂は言った。
肘を膝について、そこから千花名を見上げている。
吹っ切れた……かな?
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