第14話 そんなはず、ないじゃない!

 あのお教室の部屋だった。

 両親を、つまりお父さんと野入のいり先生をおいてきていいのかと思ったけれど、菜穂なほが泣きやまない。このままでは披露宴というのが続けられないと思ったからだろう。多祢子たねこ先生が千花名ちかな

「お教室に行っておいて」

と小さい声で言ったのだ。

 それで、体の大きい千花名が菜穂を寄りかからせて、二階のこの部屋まで戻って来た。

 「ごめんね。千花名」

 それからもしばらく泣きつづけて、最初に絞り出すように菜穂が言ったのがそのことばだった。

 声は掠れていた。

 こういうときに、謝ることなんか何もないよ、と言えないのが、千花名だ。

 少なくとも正令せいれいに入ってからの千花名だ。

 「何が?」

 「音楽室で、あんたに当たっちゃったりして。わけわからなかったでしょ? ごめんね」

 「ああ」

 こういうときに、やっぱり「そんなことないよ」とは言えない。

 そんなことは、いっぱいあるのだから。

 「いや。だから、さっき入って来たとき、お父さんと先生の結婚、ぶちこわそうとして来たのかと思った」

 菜穂が相手なら、こう言っていいと思う。

 菜穂は、笑った。

 その顔がいつもの菜穂に戻っていると思った。

 でも、なぜ?

 何が「いつもの菜穂」? いつもの菜穂の顔?

 それはすぐにわかった。でも。

 なぜ戻った?

 泣いて涙を流したからなのか。

 あ、いや!

 そうじゃなくてっ。

 このずん胴の白い服に顔こすりつけたからだ!

 もーうっ!

 菜穂の顔のお化粧は流れて、もとの、赤いぽつぽつのある白い頬に戻っている。

 でも、それでこそ菜穂だ。

 いつもの菜穂。

 ほっとする。

 それに、どっちにしてもこの服を洗うのは多祢子先生だ。

 十字架は、さっき、菜穂が泣いているあいだにはずしてしまった。

 「そんなはず、ないじゃない!」

 涙声に戻りかけながら、でも、菜穂は活発に、はっきりと言った。

 あの、小さくても一つひとつの音がはっきりと何かを言おうとしているような、あのピアノの音のように。

 「でも、あのときのやりとりだったら、千花名はそう思ったよね?」

 「うん」

 当然のことのように、言う。

 無愛想に。

 「でもさ、自分のお父さんを、いい人、っていうのもへんだけどさぁ」

 菜穂は説明した。

 「でも、お父さんと出会って、これから苦労するよ、野入先生、っていうか、もうお母さんだけど」

 「はぁ」

 野入先生が菜穂のお母さんになったのはわかる。

 でも、どうして苦労するのだろう? お父さんはいい人だと言ったじゃないか。

 「いや、菜穂のお父さんだったら、先生を」

 千花名まで野入先生を「お母さん」と呼ぶような心の準備は、まだない。

 「……その、先生を、苦労させたりしないと思うんだけど。だって、そうじゃないと結婚した意味ないじゃない」

 「いや、お父さんは、そうなんだけどね……」

 菜穂は、千花名の隣の椅子で、ふうっと息をついた。

 千花名は、ふと、テーブルに置いてあったお菓子に手を伸ばした。

 一つずつ包装してある、その袋を破って、ぽいっと自分の口にほうりこむ。

 そろそろ夕食の時間だ。お菓子は、レモン味のチョコレートでコーティングした、硬く焼いたスポンジケーキみたいなお菓子で、思ったよりおいしかった。

 菜穂は、背をかがめたまま、もぐもぐと口を動かす千花名の顔を見上げて、何をやっているんだろう、という顔をした。

 「両方の家族が反対でさぁ」

 そうだった。

 「ああっ!」

 声を出したとたんに、お菓子をもぐもぐしていたのだと思い出した。

 お行儀が悪い。

 「それ、きいたよ」

 言って、もう冷め切ったミルクティーを飲む。自分だけ飲んで菜穂に悪いと思ったけれど、いまはしかたがない。お菓子を流しこまないと、先がしゃべれない。

 「いや、野入先生の、っていうか、いまのお母さんのほうの家族は、最初はそうでもなかったんだけどね。バツイチでも、その、香菜子かなこ先生をたいせつにしてくれるなら、って、最初は賛成だったんだ」

 「うん……」

 「ところがさ、お母さん……って、前のお母さんの一族が、みんな反対でさ」

 「いや、っていうか」

 だいじな点、確認ね。

 「菜穂のお父さんとお母さんって離婚してるんだ?」

 「ああ……」

 菜穂は答えるのをためらった。でもいまさらためらってもしようがないだろう。

 「うん」

 菜穂は認めた。

 「だから、前に、千花名に、お母さんにも会いたいって言われたときに、笑ってごまかしたでしょ?」

 いや、あれは笑ってごまかした、というのとは、ちょっと違った。

 千花名は違うと受け取っていた。

 「で、その、前のお母さんのことなんだけどさ」

 その事情を少しずつ話してくれた。

 やっぱり、一つひとつの音が軽く切れて、それぞれの音が何かを伝えようとしている、菜穂のピアノのように。

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