第13話 菜穂の息づかいが漏れてくる

 自分のお父さんと、部活の顧問の先生が結婚する。

 菜穂なほが曲の練習に身が入らなかったのも、そのせいだろう。身が入らないというより、練習する時間そのものがなかったのかも知れない。

 いろいろききたいことはあるけれど、千花名ちかなは演奏に集中することにした。

 菜穂のピアノは、音の一つひとつが軽く切れているようで、流れるように、という印象とは違う。けれど、小さい声でもはっきりと声を切って話を伝えようとしている話しかたのようだ。

 そこが菜穂らしい。

 その菜穂の演奏に、息を乱さないで、流れるように伸びる音を載せていくのが自分の役割だと千花名は思う。

 ピアノの音がフルートに寄り添い、フルートがピアノに寄り添い、ときにはピアノがフルートをリードし、ときにはフルートがピアノをリードし……。

 最後に、フルートが伴奏に回ってピアノがメロディーを弾くところがあって。

 フルートの伸ばした音にピアノが結びの部分を弾いて、ピアノ奏者とフルート奏者は上気した顔を見合わせ、曲は終わった。

 しん、とする。

 しばらくして、最初に拍手したのは多祢子たねこ先生だった。

 それは広間の全部の席に広がる。みんな立ち上がって拍手していた。

 菜穂のお父さんも立ってひかえめに拍手している。

 野入のいり先生はぼろぼろと涙を流していた。拍手しようと手を上げても、拍手する前に目のところに手が行く。流れてくる涙を左右に拭っている。

 その野入先生を、花婿の菜穂のお父さんが後ろから抱き、その肩を強く揺すぶった。うつむいている。菜穂のお父さんも泣きそうなのだ。

 それで、野入先生はふふっと笑い声を漏らし、笑顔をつくり、そして前にもまして涙をぼろぼろこぼす。お父さんに肩を抱かれているので、もう涙はぬぐえない。

 野入先生は、すぐ近くの菜穂のお父さんの顔を見上げる。菜穂のお父さんも野入先生の顔を見下ろしたので、二人は見つめ合うことになり……。

 そして、どちらからともなく目を閉じると、唇を合わせた。

 軽く。

 菜穂は、その二人の様子を、立ち上がってじっと見ていた。

 どうするつもりだろう。

 さっきの音楽室での様子だと、菜穂は、この二人の結婚を喜んではいないようだった。でも、まさか、いまの曲を弾いておいて、どちらかをひっぱたく、なんてことはしないだろう。

 菜穂は、動いた。

 どうするつもりだろう。

 千花名は、フルートをおなかの前あたりまで下げて、見守る。

 菜穂が震えているのがわかった。さっきのあのチェロの子よりも激しく、でももっと細かく。

 声を出そうとする。声が出ない。それをまた絞りだそうとする。

 菜穂は、新しく「お母さん」になるらしい野入先生を見、自分のお父さんを見て、そして、千花名のほうを向いた。

 「はいっ?」

 「千花名あっ!」

 がばあっ!

 「あ、ちょっと、菜穂、あの、フル……フルート……」

 千花名のおなかのところのフルートを押しつぶすくらいの勢いで、菜穂は千花名に抱きついた。

 これは楽器にとってはよくない。キーが壊れるかもしれないし、ゆがんでちゃんと音が出なくなるかもしれない。

 「あ、あの……あっ、あのねっ……」

 千花名のほうが背が高い。菜穂は両手で千花名の首に抱きつき、千花名の胸に顔を埋めて泣いていた。

 あの十字架のあたりで。

 その服を通り抜けて、菜穂の息づかいが漏れてくる。

 あのずん胴の服を。

 「千花名……千花名っ……」

 「いっ、いやっ、そのっ、そっ、あ、あのねっ……」

 いや、ここで自分に抱きつくというのは、違うんじゃないか?

 せっかく、自分の親の結婚式だというのに。

 千花名は菜穂の抱きつきから、自分の手とフルートをようやく抜き取った。

 「あ……ああ……はいはい……」

 そんな、どうにもこの場に不似合いなしらけた声といっしょに、両手と左手に持ったフルートとで菜穂の背中を抱いた。

 さっきの香水の香りと、髪の毛に残るシャンプーの香りが、ふわっと上がって来る。

 千花名も、自分よりも背の低い菜穂の肩に、自分の頬を埋めたのだった。

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