第12話 菜穂……
これが、小さい、つつましい披露宴というものなのだろう。
広間の前のほうに、ちょうどさっきのお教室にあったのと同じような大きいテーブルが二つで、そのまわりを、それぞれ五人くらいずつのお客が囲んでいる。披露宴というのだからもう少しドラマチックな演出があるのかと思ったら、部屋の電灯はつけっぱなしで、花嫁と花婿が壇の上にいるわけでもなく、普通に、前のほうの横長の机に並んで座っているだけだ。テーブルには、白い大きいテーブルクロスは掛けてあるが、それはお教室のパーティーのときもそうだった。
その花嫁花婿の両側に座っているのは、たぶん
あれ?
えっ、と声を立てそうになる。頭のなかに、いちどにいろんなものが湧き出してきて、頭のなかがぐちゃぐちゃになりそうになる。
それを、さも驚いていないような無表情で押し通すことを、
花嫁さんが驚いたからだろう。花婿さんもじっと千花名を見ているようだ。でも、千花名は、花婿さんのほうは見ないことにし、花嫁さんからも顔を逸らした。
ピアノが置いてある位置は、昔、ここでパーティーをしたときと同じで、広間の奥のほうだ。つまり、花嫁さんと花婿さんの長机の横だ。
べつにピアノを使うわけではないけれど、音楽を演奏するのだから、その近くで吹くいたほうがいいだろう。もともとだれかがこのピアノを弾くはずで、その代理だ、ということも思い出した。
花嫁がじっと自分を見ているのがわかる。
この人のために……。
「愛のあいさつ」なのか……。
ため息をつきそうになる。
それは、あまりにおかしかったからか、それとも、思いもかけず、さっき後輩に出されたばかりの問いに答えが出てしまったからか。
あとでダメ出しをいっぱいもらいそうだからか。
そのため息の息が出るところにフルートの吹き口を持っていって、千花名は演奏を始めた。
自分の決めたテンポで、自分で拍の長さを整えながら。
音は狂っていなかった。いままで吹いたどの演奏よりもきれいにできていると思う。
あの地区選考会のときよりも。
音も滑らかに出て行く。一本のフルートだけで「愛のあいさつ」を奏でる。
千花名のフルートだけが「愛」を支えているのだ。
だれの?
花嫁が、その千花名の「愛のあいさつ」を、眉を寄せて、口をとがらせて、つまり、お祝いを受ける花嫁としてはとても不似合いな顔で見ているのがわかった。
だから、千花名は顔をそむけて、遠く、自分が入って来た入り口のほうに目を向ける。
その、千花名を見つめている、そして、いま千花名の演奏でその結婚をお祝いされている花嫁というのは。
「先生ってまだ独身ですよね?」
「結婚の話とかないのかな?」
「きっとすごいいい男の人とめぐりあって、結婚するんだよね」
ついさっき、夢多い教え子の中等部の二年生にそんな噂をされていた、正令女子の音楽部の顧問、
最初のほうの一段が終わって、千花名は十分に音を伸ばす。
伴奏がついていないから、ここで曲が終わるかと思われてしまうくらいに伸ばしてみたい。
それで、花嫁で音楽部の顧問の先生が、あれ、ここで終わるつもり、なんて思ってくれたら、おもしろい。
しかし、あとでどんな指摘を受けることか。
でも、その音を伸ばしていたのに答えるように動いたのは、花嫁でも花婿でもなかった。
千花名がやはり少しだけ開けてきた扉が開いた。
そこからだれかが入ってくる。
とん、とん、とんと聞き慣れた足音だ。
それに、背は低くないけどきゃしゃな体つき、そして、後ろにまとめた、少し癖のある髪……。
黒のジャンパースカートに、校章のブローチと組み合わされた赤いリボン……。
電気は明るくついているので、いまはお化粧して赤いぽつぽつを隠しているらしい白い頬もはっきり見える。
花婿の男の人が
「
と小さく声を漏らす。きいたことのある声だった。もちろん会ったこともある。少しだけだけど。
野入先生は、さっきの苦笑混じりの困った顔ではなくて、はっきりと困り果てた顔で、近づいてくる菜穂を見ていた。
牧師さん夫妻も、よくわからないままに、だろう。入って来た菜穂にじっと目をやっている。
菜穂が、花嫁花婿に何かしようとするなら、止めなければ、と思う。
そう思いながら、苦しい息を伸ばしてフルートの音をなんとか途切れさせずにいる自分は、偉いと思う。
「千花名、もっかい最初から行こう」
菜穂は小さい声で言った。
「うん」
菜穂は、最初からそうすることが決まっていたように、この広間のピアノの前の椅子に座り、蓋を開け、鍵盤の上に置いてあったフェルトを取った。
いや、最初からそうすることが決まっていたのだ。
ただ、最初は、フルートとの二重奏ではなく、ピアノだけで弾くことになっていたのだろう。「愛のあいさつ」はピアノ一台でも弾けるし、オーケストラでも演奏できる曲だ。
だから、菜穂は、千花名のフルート独奏の伴奏に切り替えなければいけない。
さっき、フルートソナタのピアノのパートに苦労していた菜穂に、できるだろうか。
菜穂は、千花名の余韻を引き継ぐように、最初の導入部の伴奏を入れる。そのあいだに千花名は限界まで吹き出してしまった息を吸い、呼吸を整える。
千花名は、菜穂のリードに従って、もういちど、この曲の最初から演奏を始めた。
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