第6話

 奏恵のいない家と職場を往復して、職員室での彼との合図はもっと実のあるものになって、でも隠し事のように口を噤んで、やっと金曜日が来た。

『前と同じ場所で待ち合わせましょう』

 今回は私がお勧めの店に連れて行く。こういう小さな遊びが恋らしくて、ずっと重ねて行けたらと思う。遊べるのなら倦怠期なんて来ない。

 こころの半分が輝こうとして、もう半分が沈み込もうとしている。二つが別々の方向に進もうとするから、私の胸は引き裂かれそう。こんなぐずぐずの私で、彼と会ってもいいのだろうか。

「響子さん、お待たせ」

 呼ばれて顔を上げて彼の顔を見た。こころを分断していたものが、その奥にある心臓の甘い拍動に押し流されてゆく。

「緑さん」

 乙女のように私の顔が恋に染め上げられて行くのが分かる。

 大切なものは全部ここにある。

 タイ料理店の「ナンプラ」は家族では来たことのない店だ。私のどこかが混交を嫌っている。

 時間はキラキラして、彼とが一番で、話題は尽きずに二軒目はこの前のバーに行った。こんなところじゃなくてホテルに連れて行ってくれればいいのに。思っても言えない。彼は彼なりの間合いを考えている。刹那に思っても、すぐに彼の波に流される、話よりも彼に夢中になる。

「響子さん、そろそろ帰らなくちゃ」

「もう少しだけ」

 彼が困った顔をするから、私の悪魔が産声をあげる。

「でも、時間が」

「家族に取られるのは、辛いです」

 彼は万力で潰されるような顔、何も言わない。多分、言えない。いや、彼だって私の家族のことは言える。だけど言わない、それは優しさじゃないし合理性でもない、彼は拳を握る。その手の力を認めて私は継ぐ。

「意地悪でした。お互い様です。恋にいっときの別れは必要なものです。ごめんなさい」

「響子さん」

「……はい」

「二人にとって快適な形に、きっといずれなります。それまで、色々やりましょう」

「それはどれくらい掛かるの?」

 彼が拳をグッと握る。

「分かりません」

 彼のこめかみに汗が一筋垂れたから、ここまでにしよう。彼を苦しませたいなんて私の何が訴えたのだ。

「今日はここまでにしましょう。さ、行きましょう」

 別れて電車に乗って家に帰って、また同じ闇を抱えている。いや、同じじゃない、ずっと大きく育っている。私の欲動が脈を打つ。彼とずっと一緒にいたい。


 水曜日は雨。バーベキューは出来るからと、それでもダムに行った。

 夏休み期間とは言え平日の昼間は空いていて、屋根の下で肉を焼き、野菜を焼いて食べた。別に何でもいいのだ。彼とであることだけが意味の全てだから、私は彼の前でだけは逼塞する暗黒のことをすっかり忘れて、肉をいい仕上がりにしたことを褒められては喜び、野菜を焼きそばに混ぜたことに驚かれては舞い上がった。

 お腹がいっぱいになったから散策へ行く。

 前にも後ろにも誰もいないことを確かめて、傘を差しながらで不恰好だけど、手を繋いで歩いた。手だけが触れているのに、全身の全てがそこを通じて彼に伝わるようで、同じに彼の全てが流れ込んで来るようで。いつもよく喋る二人なのに、その間だけは沈黙した。

 ダムの近く、空は広く、だけど雲だけで、細かな雨が霧と見紛う程の粒でダムも周りの森も覆っている。私達の他には誰もいない。雨の降る柔らかな音だけが聞こえる。

 柵の向こう側の水の量を見ていたら、私の命なんてこの水に比べたら微々たるものだ、飲み込まれそう。

 彼の手をぎゅっと握る。

 途端に、彼が手だけになって、私はダムと取り残された。怖くない。だけど、胸の底の方から黒い種、いや種はもう黒い花を咲かせている。誰が水をやった、ダムなのか、それともいつかの悪魔なのか。

 私だ。

 彼のいない時間の全てが水やりになっていた、そうだ。

 恋の花と同じ高さで黒い花が咲く。最後のひと押しにダムの水が流れ込んで来て、彼の手は千切れて、広い広い水の上に私は彼の手だけを左手に持って、立つ。太陽は雲の上で光を垂らしているけど、分厚い雲海の下には届かない。霧雨が渦を巻いて私の周囲に風紋を波打たせ、それは渦になって私の全てを逆立てる。渦は強く、徐々に強く、私はこのままでは粉々になる。いや、二つの花が私の胸から天に伸びる。

 違う。

 花は二つじゃない。

 一つだ。

 花は雲を突き抜けて、太陽に直に触れる。

 その太陽は、彼。

「響子さん!」

「緑さん」

「大丈夫?」

 手を見ると、彼の手が収まっている。千切れてはいない。

「私、分かったんです」

「何をです?」

 私はその手を離す。二歩後ろに退がって、「緑さん」と呼ぶ。

「はい」

 二人の間にも霧の雨は吹き込む。でも声はそこだけ抜き取ったみたいにちゃんと届く。

「もしよかったら、私と心中しませんか?」

 彼は黙って、今まで見たことのない凍りついた顔。花の明暗両方を満たすには、それしかない。私達はそれぞれの家族を壊せない。手許に残った自由は私と彼の処遇だけ、そうでしょ?

 彼の動かなさに悟ってしまいそうだけど、私の思い込みで結論を出せない。

 私は彼が好き。誰よりも好き。

 私は右手をゆっくりと差し出す。雨に濡れるその手を甲から返して、彼はそこに視線を集中させる。

 そのまま、待つ。

 彼の覚悟が決まるまで、永年待とう。

 彼は手から、私の顔に視線を移す。その顔は引き攣っている。だから、私は、微笑む。

 大丈夫、二人なら、ね。

 もう一度彼が私の右手を見る。そして顔を見る。

 バチンと合った眼、彼が傘を投げ捨てる。

 何かに耐えるように立ち、その底から苦渋が、違う、恐怖が彼の顔を染める。

 崩れるように膝を折り、膝立ちのまま私を見上げる。

 首を振って、両手を地面に付ける。

「僕は、死ねない。死にたくない。心中なんて出来ない」

 私は右手を掲げたまま彼の側に一歩一歩踏み寄る。すぐに取れる近さの手。

「だったら、私と、生きて」

 私の手を無視して、彼は私の目をじっと、でもそこには恋の色はもうない、自らを捕食しようとする怪物から視線を移せないだけの、震えに支配された色が満ちている。

 雨が弱まって、風は凪いだまま、時間が止まる。

 私は彼がこの手を掴むことを待って、彼は多分違うことを待っている。でも私は諦めない。

 彼が覚悟をしてくれる。

 だってそうでしょ、二人は恋仲なのだから。一緒に死なないなら、一緒に生きる、他に何があるの。

 何かの重みに負けて、彼はぬか付く。

「ごめんなさい」

 土下座した? どうして?

「僕はこの恋に命まで懸けられません」

 私にひびが入る。破けたところから勢いよく漏れ出す。

「どうして? お互いに恋をしているでしょ?」

 私の声に彼がビクッと体を硬直させる。あなたを脅かしたい訳じゃないのに。

「許して下さい。僕は楽しい時間を過ごせればと思ったんです。響子さんのように、全霊ではないんです」

「じゃあ一緒に楽しみましょう」

 彼は顔を上げる。そこには追い詰められた小動物、命を守るためならどんなことでもする、だけど目の前の圧力によってそれが出来ない。それでも、彼は放った。彼の考えられる最善の手の筈だ。

「僕には響子さんが恐ろしい。共に秘密を抱えて恋をしていく相手には、もう思えない。僕は遠からずあなたに殺されるでしょう。だから今、別れて下さい」

 私達はまだ始まったばかりだ。

 手を繋いだだけの関係だ。

 いや、恋は相乗的に高め合って、私を昇らせた。

 なのに、別れる?

 別れるの?

「嘘でしょ?」

 雨が止んだ。私達をくるむものはもう何もない。裸の言葉だけが二人の間を行き来する。

「本気です。もう、僕は響子さんに恋を出来ない」

「私の気持ちはどうなるの?」

「あなたの気持ちは強過ぎます。僕には受け止め切れない」

「どうしても?」

「……どうしてもです。明日からはまた普通の同僚に戻って下さい」

 彼はもう一度頭を下げる。下げる直前の顔が私の中に残って、それは余りに酷くて、とても恋をしている相手に見せるそれではなくて、私がどれだけ恋しくても一人でするならそれは妄想でしかなくて、逃げようとする彼に、もうそんな状態なら引き留めても無駄なんだって直観してしまった。

「この通りです。身勝手なことを言います。許して下さい」

 私の恋した人が土下座をしている。

 その様が哀しい。

 その理由が悲しい。

 止められない。だって彼は私の大切な人。

「緑さん」

「はい」

「顔を上げて」

 出て来た顔はさっきよりもどこか覚悟が決まっていた。でもきっとそれは私と生きる覚悟ではなくて、どうにかしてこの場を逃げ切る覚悟だ。私はその目をじっとじっと見詰める。

「緑さん、気持ちは分かりました。別れましょう。明日からは普通の同僚です。でも、一つだけわがままをきいて下さい」

「……分かりました。ありがとうございます」

「一度だけ、口付けをして、別れたい。それくらいは、いいでしょう?」

 彼は立ち上がる。顔はガチガチだが、瞳には火が消えていない。

「分かりました」

 私は傘を置く。彼が私の両肩を持つ。

 びしょびしょの彼の顔が近付いて、そっと唇を重ねる。

 胸の中はキラキラに跳ねるのに、最後だって理解しているから同じ胸の中が空洞になる。

 この瞬間で全部が終わりならいいのに。

 でも、彼は離れた。

「ありがとう」

 そんな胸中なのに、感謝の言葉が飛び出したから、私は不思議で、でも十分と思わなくちゃいけない。

 彼は私の言葉を待つ、犬のように待っている。もう彼を解放しないと。約束だから。

「さようなら」

 私の掛けた声に、彼は一礼して、傘を拾ってダムの出口に歩き始めた。すぐに止まって、振り返る。

「ありがとう。さようなら」

 彼の声は真っ直ぐ届く。彼は遠くなって消えた。それまでの間は一度も振り向かなかった。

 雲が希釈されるみたいに晴れて、太陽が大きな水溜りを照らす。眩しさに目を細めて、反対側を見たら虹が架かっていた。私の花が枯れるにはまだかかるだろう。彼のそれは蒸発してしまった。空と森と水が生む空気で、胸に残る彼の香りを洗って、どうしてこんなことしなくちゃいけないのだろう、洗うごとに涙が湧き出て来て、ダムの中にその涙が一滴落ちた。ダムはだから私の涙を含んだ水で出来ている。それは川になり、海になり、また空に上って雲になる。いつか彼にこの涙が生んだ雨が、降る。


 奏恵が帰って来た。空港で私を見るや、「ママ、修羅場潜った顔してる」と驚くから、「奏恵のいない日々は、修羅場よ、それはもう」と笑って見せた。

 家に戻り、私は「さかなの歌」を弾く。

 恋の第一楽章。

 焦れる第二楽章。

 そして、失恋の第三楽章。

 彼との恋は全てこの曲に入っている。奏恵は第三楽章が一番好きだと言う。私は曲にして保存するから、彼とまた同僚になれると思うし、今度こそ新しい恋を実らせることが出来ると信じられる。

 弾き終えて窓の外が急に雨になる。

 この雨にも、私の涙が含まれている。

 もしかしたら彼の涙も。


(了)

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さかなの歌 真花 @kawapsyc

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