第5話
一度メールが開通すると気楽になって、仕事の合間を縫って電波を飛ばし、今日の待ち合わせを乗り換え駅にして、時間も決めた。夏休みで授業がない分時間のコントロールは容易なので、私は五分前に約束の場所に立った。
「野城先生」
彼も五分前に来た。創作イタリアンの「かもめ」と言うちょっと裏路地に入ったところにある店に案内された。テーブル間の距離が十分にあってプライバシーが保たれる、落ち着いた、少しだけおどけた雰囲気の店内。
「素敵ですね」
「とっておきです」
通された席からは小さな庭がガラス越しに見える。妖精が顔を覗かせそうな庭。
「野城先生はお酒は飲めますか?」
「すごく弱いです」
「奇遇ですね、僕も雑魚レベルなんです。遺伝子に文句言ってもしょうがないですけど、もう少し飲めたら楽しいのかなって思います」
「お酒だけが楽しさじゃないですよ」
ニッコリと笑えば、彼はそれに応じてくれる。私の気持ちに行動に、言い訳はいらない。
「お勧めは『かもめサラダ』と『ボンゴレビアンコ』です」
注文を済ませて飲み物が来るまでは黙っていた。緊密な視線の往復だけが二人の全てで、もう分かってしまった。彼は私と同じだけ、恋をしている。つぼみが綻ぶ、後は進むだけ。それは金色の風の中、銀の草原を走る二人、遠くまで澄んだ空、他に何もなくたって満たされている。私達は満たされている。
ソフトドリンクで乾杯することすら、私達らしい行為になってゆく。前哨戦は終わって、歴史の本編が始まる。
「『さかなの歌』は今もよく弾くのですか?」
「ええ。続きも書きましたよ。でも第一楽章ほどの煌めきはないかも」
「今日は持っているんですか?」
「ありますよ。聴きますか?」
「是非」
いつかと同じようにイヤホンを彼に渡す。私はまた彼をじっと見て、彼は音楽のために目を閉じた。私には店のBGMが聞こえている。穏やかなクラシックだ。環境に音が流れているのに、それを遮って私の音楽を聴いてくれる。他の誰でもない私を選択してくれた。
彼がイヤホンを外す。
「いいですね。でも先生の言う通り、第一楽章が抜群です」
「どこまで曲が育つかは、長さも深さも、これから次第です」
この恋がどう育つか次第。
「僕には恋の歌に聴こえます。こういった作曲って、実際に恋をしながらするんですか?」
当たり前だ。曲を創る要請があって書いてる訳じゃない。そしてそれはあなたに対しての恋だって、気付いているでしょう?
沈黙した私の顔を覗いて、彼は待つ。私の口から言わせたいのかな。そうなのかな。
私は小さく溜め息を
「もちろんそうです」
「僕も恋をしたら音楽が生まれるのでしょうか」
「それは音楽を自分の表現の媒体にしてなければ、違うと思います」
「じゃあ、僕は走る」
「走っていますか?」
「最近、前よりも走ります」
「誰のために、走っていますか?」
彼は少しだけ考えて、ゆっくりと瞬きをして、私の目を見る。
「野城先生のために、走っています」
花が咲く。胸が甘く、鼓動が踊って、頭に向けて波動になる。私が咲く。
テーブルの上に置いてある彼の手を私は握る。ゴツゴツして皮の硬い手。ぎゅっと握る。彼の目を見返す。
「『さかなの歌』は、垂石先生のための歌です」
彼が手を裏返して、二人の掌を合わせて、握り返す。
「最初から気付いていました」
「そうだったんですね」
「先生と恋人同士になりたい、そう思ったのはずいぶん前です。荷物を運んだときの恩の話は嘘ではないけど、僕が先生に触れたかったからしたことです」
視界に入るもの全てが魔法の金粉をまぶしたみたいにキラキラと煌めいて、それなのにこの世界にあるのが彼だけみたい。私は彼と言う人の中に閉じ込められて、そのぬくもりも、呼吸も、全部を感じながら溶けてゆく。さようなら、現世の全て。私は咲き誇る花。彼と私、それで全部。十分。
「私もその頃から、垂石先生のことを想うようになりました」
彼が手に力を込める。
「でも一つ、障壁があります」
「越えられます」
「野城先生に娘さんがいるように、僕にも妻子があります」
「余裕です。奥さんと是非別れて下さい」
「息子は?」
「一緒に育てましょう。それくらいは問題じゃありません」
彼は目を若干細めて、手を握り直す。
「僕は野城先生に恋をしています。付き合いたいとも思います。でも、家庭を失いたくもないのです」
奏恵のことを想うと、家族を大事にするのは当然だ。そして恋をすることも何もおかしくない。私だって家族があって恋をしている。夫はいないけど。……別れろと言うのは言い過ぎだった。もし私を独占するのならそのときには別れて貰えばいい。それがバランスだ。いや違う。今彼は私を独占しようとしている。恋をしあうってそう言うことだ。彼は歪んだことを言っているのだろうか。どうもそう思えない。逆の立場だったら同じことを彼に私は言うだろうし、この条件を呑んでくれと迫るだろう。それが心地よいものの範囲ならそれでもいいのではないか。
「垂石先生は、この恋の形に違和感とか、罪悪感は、ありますか?」
「秘密にはしなきゃならないとは思います。でも違和感も罪悪感もありません。恋は恋です」
「じゃあ、恋は進めましょう。私は捻れを感じます。でもそれは乗り越えられる捻れだと思います。ただ、すぐには答えが出ません。少し時間を下さい。恋は恋で進めましょう」
彼は手を離して居住まいを正す。
私の目に、そこから彼の全てが注入されるような光を射して、大きく息を吸う。
「僕は野城先生が好きです」
もう一度私に喜びの波が走る。家庭の有無なんて瑣末なこと。彼は私を求めて、私は彼を。
「私は垂石先生が好き。野城
「響子さん。僕は
「緑さん」
呼び掛けられたときよりも、彼の名前を呼ぶときの方が感じる。私の花が大輪になっていること、恋がここにあること、彼が共にいること。目に入る全ての輝き、食べるものすら驚く程美味しくて、彼と分け合っている空気の中に恋の精が満ちている。世界をどのように切ったとしても彼と私は同じ部分に入るだろう。もう隔てることは出来ない。私達は今、カップルになった。
彼が、もしよかったら、と始める。
「娘さんがいない間に、平日に有給を取って、日帰りの旅行に行きませんか?」
「行きます」
「ダム湖の散策とバーベキューってのはどうでしょう?」
エロティックな状態には決してならない旅行。いや、そう言う性的なことは別個でこれからすればいい。私はいつそれが来てもいいようにちゃんとした下着を着けて、薄いリップを塗る。もう恋人になったんだ、もし彼がずっとそう言うことをしないなら、私から誘ってもいい。それがはしたないことだなんて少しも感じない。
「行きます」
彼の半生と私の半生、好きなことや苦手なこと、話すべきことはたくさんあって、「かもめ」を出た後にバー「
今夜はどこまで行くのか期待したのに、彼は九時には帰ると言う。
「まだもう少し一緒にいたい」
「僕もそうですけど、明日の仕事を考えるともう帰らなくちゃ」
「息子さんにもギリギリ会えるし?」
「うん。それもあります」
「素直な人」
私が笑ったから彼はほっとした顔をして、準備を始める。私も残されてもつまらないから一緒に支度をしてバーを出た。駅まではすぐで、彼の背中を見送って、自分の電車に乗り込む。
輝いていた筈なのに、息子に横取りされたと思ったら、急に景色が暗転して、深海の中を電車で泳いでいる。彼さえいればいいのに、その彼が囚われる。私はこれからずっとこの気持ちと一緒に生きなくてはならないのだろうか。それとも、彼と過ごせればこの暗澹も次第に溶けてゆくのだろうか。私にだって奏恵がいる。大切な人が複数いることは矛盾しない形を持つ筈だ。だけど、彼を取られた。もしかしたら息子さんにじゃなくて、奥さんに取られたのかも知れない。それは嫌だ。形式的なものとして奥さんが残存していたとしても、彼の本当の隣が私じゃないのは耐えられない。
腹の底に今までに感知したことのないドス黒い種が、発生した。
一人の家は空虚な退屈さがあって、予定にはなかったけど奏恵とパパのところに電話を掛ける。
『ママ、どうしたの? 寂しくなっちゃった?』
「その通りよ。奏恵は元気?」
『元気、元気。今日はね、虫取りに行ったんだよ」
「おじいちゃんと?」
『うんん、近所の子。去年友達になったんだ。私のことちゃんと覚えていてくれたよ』
「へぇ、いいわね」
『おじいちゃんに代わるね』
電話を切って、やっぱり奏恵が大事だ、彼にとっても家族は大事、何よりも理解出来るのに、何よりも納得出来ない。彼は私だけのものでいて欲しい。
携帯にメール。
『次は金曜日に会えます? 日帰りは決めた通り来週の水曜日に行きましょう』
私の体が毎日空いていても、彼のはそうではない。毎日一緒に過ごしてもいいのを妨害するのは彼の家族だ。でも、わがままは言えない。彼の家族との関係が壊れるようなことをしたら、彼すらいなくなってしまう。
「ちょっと待って。……彼の家族がいなくなれば、恋に集中出来る」
一人きりの空間に放り投げた自分の言葉が、部屋の中を回る毎にその意味を具体的にしてゆき、私の元に返って来たときには
そんな猟奇的なこと出来ない。世界側はもう固まっている、与えられた自由は僅かにしかなく、その世界を破壊することは自らを滅ぼすことに等しい。だったら、その僅かな自由を行使すればいい。
「それはそれで愚かだと思う。でも」
打ち消して、彼に返信を送る。
『金曜日に。日帰りも楽しみにしてます』
ずっとキラキラしていたいのに。きっと胸踊るやり取りの筈なのに。静かな家が私を非難する。
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