第7話 ドーナツの穴を食べられるのはドーナツを作った人だけ

 寝室から降りてきた私を見て、05ゼロゴーは呆気にとられる。


「君……熱でもあるのか」


 私の名前は川本里子。科学者だ。そして目の前にいるのは私が造ったAIロボット、05。AIとして5番目の人格、という意味で05と彼自身が名乗った。私の夫である川本ゆたかの記憶と思考パターンをインストールされているが、決して川本裕としては振る舞わないという強い意志を持っている。


 問題ないわ、と私は荒い息を吐く。「そんな事よりも、今日は大事な学会が」と痛む頭を押さえた。

「学会より命の方が大事だぞ」

「……あなたがそれを言うの」

「俺だから言うんだと思わない?」

 彼のモデルとなった私の夫は病死している。元々体の強い人ではなかったけれど、亡くなる前は傍から見ても相当無理をしていた。


「兎に角、私は行かないと。お世話になっている教授に迷惑をかけてしまう」

「行っても迷惑だろう、そんな顔をして」

「あなたは……裕くんは、どんな無理しても顔に出なかったものね」


 汗を拭う。ちょっと視界が狭まったような気がした。「熱は?」と尋ねられ、私は首を横に振る。

「計らない限り熱はあるともいえるし、ないともいえる。私は学会に行けるという訳よ」

「何を言っているのかわからない。シュレディンガーの猫のつもりか? ただのパンデミックなんだが」

 05の手を振りほどこうとして、私は大きく体勢を崩した。それを支えようとした05を巻き込んで、一緒に倒れこむ。「許すまじ軽量化!」と05は嘆いた。その声をぼんやり聞いたのを最後に、私の意識は途絶えた。



 静かに目を開く。隣に、05が座っていた。

「欠席の連絡は入れておいたぞ」

「……ありがとう」

 確認するまでもなく、ここは寝室のベッドの上だ。そこまでの力があるわけではない05が私をここまで運んでくるのは大変だっただろう。

「やっぱり熱があったじゃないか」

「病院に行きたくない」

「子どもか?」

「だってどこの病院も、結局あなたを放り出したもの」

「……川本裕が家に帰りたいと言ったんだろう。君には迷惑をかけたと思っているよ」

 瞬きをして、私は05から目をそらした。


「夢を見たわ。夢の中で私、本当にあなた達に申し訳ないことをしたって思ったの」

「俺、達?」

「あなたと、前のAIの人格たち」

「……いつになく弱気だなぁ」


 困ったような顔をした05が、「そうだ」と人差し指を立てる。

「君の最初に造ったAIは、『川本裕の死亡時の記憶』までインストールしたらバグった、と言っていたな。それからどんなに改良を重ねても、記憶メモリが上手く定着しないとも」

「……あなたもご存じの通り」

「そして俺は前に、『AIに心はいらないし、それに類する感情も必要ない』と言ったろ」

「そうね」

「じゃあ、AIに必要のない感情の最たるは何だと思う?」

 私は目をこすりながら、考えているふりをしてただ彼を見ていた。05は目を細めて、「恐怖だ」と答える。

「恐怖とは、強く生存欲求に基づいた感情だ。種の存続を考えてはならない機械が持つことはない。川本裕は……死ぬ前には少なからず恐怖しただろう。それをAIとしては受け入れられずに一度バグった。それ以外の記憶の中にも多少は恐怖という感情が生まれていたから、上手く定着しない。これは仕方のないことかもな」


 恐怖?

 あの人、怖かったのかしら。死ぬ時。当然だとは思うけれど、ピンとこない。あの人ずっと笑っていたから。

「裕くん、怯えていたのかしら。いつもと変わらなかった」

「格好つけていたんだろう……君の前では」

 もはやこの世で誰よりも川本裕に近い05が言うのだから、そうなのかもしれない。

「じゃあ、あなたは恐怖を感じない?」

「当然だ」

 きっぱりとそう言った05は、「何か食べられるものを用意しようか?」と立ち上がった。私は小さく頷いて、彼の背中を見送る。


 寝室の窓が開いていた。カーテンがなびく。

「あ……桜」

 私は体を起こして、窓の外を見た。05を造って1年。ああ、もうすぐ裕くんが死んで4年だ。

 窓の縁を掴んで、私は身を乗り出した。


「君……何をしているんだ」


 振り返ると、05が立っていた。私は不思議と清々しい気持ちで笑いながら、口を開く。


「私も恐怖を感じなければ、機械になれるかしら」


 ゆっくりと後ろから倒れていく。作り物みたいな青空と、薄紅の花びらが舞っていた。


 裕くん。もうこの世界のどこにもいない裕くん。いつかまたあなたに会えると思ってた。会いたかった。

 桜が綺麗。はっきりとした青空に負けそうな弱々しい花弁の色が可愛い。

 何も怖くなかった。春だから怖くない。春は大好き。あなたと出会ったのも春だったし、あなたが映画に誘ってくれたのも春だった。だから大丈夫。誰も私のことを探さないで。


「馬鹿ッ、なれるわけないだろ……っ」


 強く手を引かれて、私はベッドの上に倒れこんでいた。

 私は05の腕の中にいる。どうしてだろう、とぼんやり思った。製作者である私が知っている。彼に、私の体重を支える程の力はない。なぜ私を掴んで引っ張り込めたのか、わからない。

 不意に、私の頬が濡れた。涙だ。私のものではない。彼の、涙。

 泣いている。機械である彼が、子どものように泣きじゃくっている。


「もう許してくれ。俺を許してくれよ、里子」

「許す?」

「君はずっと俺を責めている。君を残して死んだからだ」


 そう、なの。

 そうなの、あなた、そんな風に泣く人だったの。


 私は彼が泣く所を、見たことがなかった。まさかこんなにわんわん泣くのだとは、夢にも。

「そうかもしれない。私は、あなたを責めていたのかも」

「今もだ。ずっと君は俺を責めている」

 泣く彼を抱きしめた。肩が震えている。つられて、私の目からも涙が溢れた。同じようにわんわんと泣いてしまった。


 不安だった。彼が死んでからずっと、どこへ行っていいのかわからなくて不安だった。その過程で私は確かに、彼のことを責めたのかもしれなかった。


 今度は05が私の頭を抱いて、髪を撫でた。子供をあやすように、背中をさする。

「どうして死んでしまったの、裕くん」

 ずっとそう言いたかった。どうして、と。それが彼のせいでないことを知っていったが、それでも『どうして』とずっと思っていた。


 05は私の涙を拭いながら、「もう川本裕のことは忘れればいい」と言った。

「そうだ、忘れよう。それがいい。時間旅行なんかよりも簡単に実現できそうだ」

「裕くんを……忘れる……」

 私はほとんど過呼吸を起こしながら、「そんなことできない。私から裕くんを奪わないで」と懇願する。「やめて。もう私から、ひとかけらも裕くんを奪わないで……」と彼の胸に顔をうずめる。彼は困惑しながら私を抱きしめていた。


「あなたのことを忘れたら、私じゃなくなってしまうわ」

「それが本来の君だったかもしれない」

「本来の私なんていない。今の私がいるだけよ」


 彼は閉口する。しばらく沈黙が続いた。彼がぽつりと「俺には力がない。何もない」と呟く。静寂に痛みが増した。

 そのうちに私は少しずつ落ち着いて、本当に馬鹿なことをしたと思い始めていた。

「……ごめんなさい。もう二度とこんなことしない」

 私を強く抱きしめながら彼が「なあ、いつから君の人生の主役は川本裕になってしまったんだ」と言う。私は鼻をすすりながら、「私たち二人の人生だったのよ」と話した。

「それがいきなりあなただけ舞台を下りてしまって、私だけが残された。こんなひどい話はないわ。私に一人芝居は無理よ」

「ああ、そうだ。俺が君を独りにしたんだ。だから、もう、君だけの人生だ。川本裕はいない。君はもう、川本裕のために何もする必要はない。一人芝居が無理なら、ふさわしい相手役を見つけるといい。とにかく、君の夫は死んだんだ」

 また涙が溢れてきた。「ひどい。いやだ。やめてよ」と繰り返す。彼は私の涙を拭いながら、「全部全部俺のせいだ。君には何の非もない。君が人生をかけて俺に寄り添うことを決めてくれたのに、俺がそれをめちゃくちゃにしてしまった。だから、もういいんだよ。君は自由に生きていいんだ」と言い聞かせるように囁いた。

「それならやっぱり、死んでしまいたい」

「それは君が川本裕との人生しか知らないからだ。いくつもの生き方がある中の、たったひとつ頓挫しただけじゃないか。他にいくらでも生き方はある。試してみるんだ。まだまだ君は君の幸せを見つけられるはずだ」


 私は思わず顔を上げて、彼を睨んだ。「私が死んでも、あなたはそう思えるのね」と言ってしまう。こんなことを言いたいわけではないのに。


 彼はただ私の頬を撫でて、「わかってる。わかっているよ、里子」と唇を動かす。

「だけど、それでも、お願いだ。死ぬくらいなら生きてくれ。俺の全てを踏みにじってくれて構わないから。上手くいかないことは全て俺のせいにして、君の都合で俺を忘れて、それで構わないから。死ぬまで幸せに生きてくれ。死なないでくれ」


 どうして、と尋ねる。彼は叱られた子どものようにうつむいて、「惚れた女が俺のせいで死ぬんなら、俺は生まれてこない方がよかったじゃないか」と呟く。私も彼も、静かにぽたぽたと涙をこぼしていた。


 私はぽつりと「およそ科学者とは思えない説得だった」と呟く。彼はきょとんとして、それから恥ずかしそうに苦笑した。私もちょっと笑う。

「あなたは『恐怖などない』と言っていたけれど、すごく怯えた顔をしていた」

「こわかった、すごく」

「私の気持ちが少しはおわかりに?」

「意地の悪いことを言うなよ」

「……ごめんなさい」

「下でミルク粥が沸騰してるぞ」

「降りるわ。もうふらつかないから」

「そうしてくれると助かる。1階なら飛び降りる危険がない」


 どちらからともなく笑い出した。「あーあ」と呟く。「あーあ、まったく仕方がないな」と。

 ああ、どうして今更になって。

 こんな世界が愛おしく思えてしまったのだろう。


「なぜ俺に涙を流す機能なんてつけたんだ。無駄じゃないか」と05は涙を拭った。

「それは冷却に使った水を外に出しているだけよ。どこから排出させるか迷ったけど、目が一番いいだろうと思って」

 05は一瞬だけ黙って、「まあ目でよかったな。それはそうだ」としみじみ言った。私は可笑しくなって、もう一度彼を抱きしめる。


「これからもお仕事は手伝ってくれるんでしょう、05」

「博士の命令なら従わないわけにはいかない」


 限界を超えて出力された彼の力を、“心”であると彼は認めないだろう。だけど他でもない私が知っている。彼は昔から何も変わらず、意地っ張りで優しい心の持ち主だ。たとえそれが間違った観測ドーナツの穴だとしても。

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ドーナツ日和 hibana @hibana

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