おかしな猫と、雨の君

たれねこ

おかしな猫と、雨の君

 朝。目が覚め、意識がはっきりとしていくにつれ、窓に当たる雨の音がクリアになっていく。静かに降り続き、たまに強く窓を叩く梅雨の雨。

 俺は雨の日は嫌いじゃない。きっかけは思い出せないが、物心ついたときから雨の日が好きで、特に梅雨の雨が好きだった。だから、雨が降るといつもより早くに家を出て、少しだけ遠回りをして学校に行くことにしていた。


「いってきます」


 誰に言うわけでなく口にして、玄関の戸を開けた。

 足元には水たまりができていて歩くのに気を遣うが、それでも傘や道路に当たる雨の音は心地よい。通り過ぎる車が水をねながら進む音さえも楽しく思える。湿気で髪や肌がじっとりするけれど、道路脇の家の塀から顔をのぞかせるクチナシなどの花の香りが立つので悪いことばかりじゃない。

 高校に向かう道筋かられ、足は公園へと向かう。辺り一面に緑が広がり、広い公園をぐるりとまわるように舗装ほそうされた園内歩道は、晴れた日の同じ時間帯ならランニングや犬の散歩をしている人を見かけるが、雨の日は人気が急になくなり、今日は傘を差して合羽かっぱ姿の小型犬を散歩させている人とすれ違ったくらいだった。それは、目的地の園内にある東屋あずまやも同じようで人の影はなかった。

 東屋に入り傘を閉じ、設置されているベンチに腰掛け、そこから見える景色をぼんやりと眺める。

 空は灰色の雲に覆われ、遠くに見えるビル群はもやがかかっている。きっとどこにでもある梅雨時の街の遠景。

 体を反転させ歩道とは逆側に目を向ける。東屋の裏には紫陽花が綺麗な赤紫の花を咲かせていた。しかし、東屋の立地か角度の関係か、歩道からは紫陽花は見えにくいので、東屋を利用したことがないと分からない季節限定の隠れスポットになっている。

 東屋の軒下にはツバメの巣があり、今年も戻ってきたようでツバメのひなの鳴き声が聞こえる。それだけでなく、どこかの樹の葉のかげで名前も姿も知らない鳥の鳴く声も響いている。

 目を閉じれば、草木が近いので緑の匂いが、雨や東屋独特の木の匂いに混じっていることにも気付ける。

 そうやって、ぼんやりと様々な匂いや音にゆっくりと身をひたすこの時間が好きで、雨の日にここに寄り道するのを止めれない。

 しばらく、そうやってまどろんでいると、


 ミィ……、ミィ……


 そんな弱々しい鳴き声のようなものが聞こえてきた。

 目を開けて、鳴き声をたよりに紫陽花に近寄ると葉の下に雨に濡れて震える小猫がいた。俺と目が合うと鳴き声は激しくなり、助けてと言われてる気がした。猫を抱え上げ東屋に戻り、鞄からこの時期に常備しているタオルを取り出し、猫を包み込むようにしながらできるだけ優しくいた。猫は目を閉じて体を時折ねじるように動いていたが、基本はされるがままで大人しく、フワフワした本来の毛並みに戻っていった。

 猫を拭きながら、十年くらい前にも同じようなことがあったなとふいに思い出した。あのときも雨の日に濡れた少し変わった模様の猫をここで見つけ、同じように拭いてあげて――その先を思い出そうと思ったら、指に感じた柔らかな痛みで現実に意識が戻された。感じた痛みは猫が手首あたりを前足でつかんで指先を甘噛みしていたものだった。甘噛みしてめて、自分の口元をペロペロとしていて、ずっと見てられるかわいさだが、猫はしばらくするとすっと顔を上げて何かを伝えるようにまた鳴き始めた。

 なんとなく今度はお腹が空いたと言われてる気がして、鞄の中に目をやる。昼は購買か学食なので弁当はないし、お菓子も持ち歩かないので食べ物の気配はなかった。しかし、今日は普段は鞄に入っていない紙パックの牛乳があった。母親に今朝届いた牛乳に試供しきょう品が付いていたと渡され、寄り道がてらここで飲もうと思っていたものだった。

 猫にあげれそうなものがあることにホッとしたのもつかの間、以前テレビか何かで猫に牛乳をあげるのはよくないと目にしたことを思い出した。

 牛乳を手に持ったまま、猫に牛乳をあげていいものか、近くのコンビニに猫用ミルクを買いに走るか、だけど猫は放置できないしとぐるぐると悩んでしまう。


「もしかして、猫に牛乳あげるか悩んでる?」

「えっ? はい」


 突然後ろから声をけられ、つい返事をしてしまう。猫に意識が集中しすぎるあまり、人の近づく気配に気付けなかった。声の方に顔を向けると肩越しに猫をのぞき込んでいる女性の顔が間近にあって驚いてしまう。動揺を悟られないように顔を覗き見ると、少し年上でかわいいというより綺麗という言葉の似合う印象の女性だった。


「猫用のミルクの方がいいけど、常温の牛乳を少し飲ませるくらいなら大丈夫だと思うよ」

「そうなんですか?」

「まあ、それでも様子を見ながらだけどね」


 そのまま女性は隣に腰かけ、猫の世話を手伝ってくれた。猫の体をタオルでくるんで固定し、女性が猫の口を開き、そこにストローの先から牛乳をらして舐めるのをうながした。そして、そのまま少しずつ飲ませては様子を見るを繰り返しながら飲ませていたら、女性に「もうやめとこう」と止められた。牛乳を飲み過ぎてお腹壊しちゃうかもしれないからね、と続けられては従うしかなかった。

 猫はとりあえずの空腹から解放されたのか俺のひざの上で満足そうにのどを鳴らしていて、女性は隣から慣れた手つきで猫をで始める。猫は目を細めて気持ちよさそうにしていて、なんだか幸せな気分になる。

 雨が降り続くなか、東屋には俺と猫と女性だけのゆっくりと穏やかな時間が流れていた。

 ふと時間が気になりスマホの時計で確認すると、そろそろ出発しないと遅刻しそうな頃合いだった。しかし、今は学校よりもこの時間の方が大切に思えたが、わざと遅刻をするという度胸は俺にはなかった。

 そんなわずかな焦燥感しょうそうかんが伝わったのか、猫は顔を上げ、女性も隣から同様に顔を見つめてくる。


「あの、俺。そろそろ学校に……」

「そっか。猫の面倒は私が見るから、安心して学校に行きなよ」

「ありがとうございます」


 女性は猫を抱き上げ、そのまま東屋から俺のことを手をひらひらさせながら見送ってくれた。俺は雨の中を音や匂いを楽しむ余裕もないまま学校への道を急いだ。


 無事、遅刻はまぬかれたが、その日は一日落ち着かなかった。早く授業が終われと願うも、思いの強さに反比例したかのように時間の進みは遅かった。

 放課後になる頃には、空には晴れ間が見えていて、急いで公園の東屋に向かった。

 しかし、当たり前ながら朝の女性も猫も東屋にはおらず、フラフラと園内を歩いたが姿はなかった。あのままこの時間まで待ってくれてるはずがないことは、少し考えれば分かることだった。さらに約束もしてなければ、連絡先も知らないので会える道理がなかった。

 だから、そのままもやもやとした気持ちのまま家に帰るしかなかった。


 *


 夜からまた降りだした雨は朝になっても止む気配はなく、今日もいつものように早くに家を出て、東屋に向かう。しかし、足取りは重たかった。

 東屋でぼんやりと雨宿りをしていると、遠くに人影が見えた。傘で顔は分からないが真っ直ぐに東屋に向かってくる姿に昨日の女性だと不思議と確信し、先ほどまで空模様と同じようにどんよりしていた俺の心に陽が射した。


「やあ、昨日ぶり」


 女性は肩から大きな鞄を提げていて、東屋に入るなり隣に腰かけた。


「なんだか雨のこの時間なら君にまた会える気がしてね、この子を連れてきてよかったよ」


 女性は鞄の中からタオルにくるまり大人しくしている猫をそっと抱えて膝に乗せる。そして、昨日別れた後に猫を病院に連れていき、他にも保健所などで手続きをしたと話してくれる。


「それで猫はどうする? うちは元々飼ってるから、このまま一匹増えても問題はないのだけど」

「お願いしてもいいですか? うちは母が猫アレルギーで飼いたくてもきっと無理なので」

「そういうことなら。そうそう君のタオルなんだけどさ、見ての通り気に入ってるみたいで離そうとしないんだ。だから、もらってもいいかな?」


 猫はタオルに頬を寄せて、体に巻き込むように器用に丸くなっている。そうまでしてくれるなら猫にゆずる以外の選択肢はなかった。それから猫の世話をお願いして、連絡先を交換した。


 *


 週末。猫に会いに来ないかと誘われ、東屋で待ち合わせ、女性の家を訪ねた。

 玄関に入るなり一匹の風格のある黒ブチの猫に出迎えられた。女性はただいまと猫に言いながら抱き上げる。その猫の背中の模様は見覚えがあった。うずのような独特の模様は、小学校一年生の梅雨の日にあの東屋で拾った猫だった。そして、同じように声を掛けてきた年上のランドセル姿のお姉さんと一緒に病院に連れていき、そのままお姉さんが引き取ると約束してくれた。ただ名前は俺が決めてと言われて、模様の印象から、


「チョコミルク」


 そんな名前を付けた猫。


「なんでチョコの正式名称知ってるの? って、もしかして君があのときの――」

「こんな偶然あるんですね」

「じゃあ、あの子の名前も君に決めてもらわないとね」


 女性は笑顔で猫がいる部屋に通してくれる。猫は相変わらずタオルの上で横になっていて、顔だけをこちらに向けて様子を見ているようだった。

 猫は茶ブチで体と尻尾に特徴的な太いしま模様があった。


「クリームモナカ」


 見たままの印象を口にすると、女性は腹を抱えて笑い出した。


「なんか分かる名前だけど、相変わらずのネーミングセンスだね」


 そして、女性は「キミは今日から、もなかだ」と笑いながら抱っこする。猫もかわいいが、それ以上に猫を愛でる女性の笑顔もかわいく見えた。

 梅雨の雨の日に猫を通じて知り合った人と、同じきっかけで再会する。こういう偶然は運命と呼んでいいのだろうか?

 なんだか顔や体が火照ほてるように熱い。思わず手で顔をあおいでいると、


「モナカアイスでも買いに行く?」


 と、楽しそうな声が聞こえ、それを自分の名前とすでに認識したのか、もなかが俺の代わりにニャーと返事をした。

 これが運命ならば次の一歩は、一緒にコンビニに行くところから始めてみようか――。

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