ブラック企業勤めに疲れたアラサーおっさん、自分を「ご主人様」と呼ぶ小学生美少女に慕われ奉仕される

佐藤山猫

第1話

 悪い夢を見ていた。

 熱があったり、体調が悪いと──つまりここ数年毎日のように──見る夢だ。

 ほんのワンシーン。

 大勢の人間に囲まれて、何か強い力と強い光に呑まれ、自分の背中が叩きつけられる、そんな夢だった。


 通勤電車の席で思わず眠ってしまい、そんな夢を見て跳ね起きた。冷房の効いた車内なのに、とても嫌な汗をかいていた。




 就業時間は9時から6時。うち一時間の休みあり。

 それが分からなくなるくらいに残業が多いのはどうしてだろうか。

 それが分からなくなるくらいに始業が早いのはどうしてだろうか。


 世間的にはそこそこ名の知れた企業勤め。

 知り合い以上友人未満の社外の人間は「いいところに勤めているじゃん」と笑って肩を叩いてくれる。多少の尊敬、羨望、嫉妬も織り交ぜて。

 いまはもう、友人はおろか知り合いすら疎遠で、一年に一度、生声を聞ければ良い方だ。


 就職活動からやり直すべきか。セカンドキャリアを模索すべきか。

 そんなことを考えていた時期もあったと思う。しかし、だ。日記代わりに更新していたSNSは更新頻度がどんどんと落ち込んでいき、比例するように前向きな気持ちもまた、半年、一年、二年……と過ごしていくうちに減衰していき、とうとう万事どうでも良くなっていった。

 

 洒落た言い回しをするなら、心が摩耗してきた。あるいは、情熱の灯がいまにも消えそうに揺れている──って、これはクサすぎるか。そろそろ体臭に気を遣わねばいけない年齢だ。

 さすがに人もまばらな電車に揺られながら、俺は寝ているように俯いてそんな自嘲──それとも回想──に耽った。

 今日も仕事だ。

 最後の休日はいつだったか。毎夜帰宅できているだけ救いがあるのかもしれない。晩飯やシャワーもそこそこに万年床に倒れこむような日々でも。


「おい戸塚とつか! ちょっとこっち来い!」

「はい」


 小さなビルのワンフロアを占める事業所に、俺を呼ぶ支社長の怒鳴り声が響く。昔格闘技か何かをしていたらしく体格の良い支社長の怒声は胴に入っている。

 同僚は何も反応しない。彼らも俺と同じく心が死に態なのだ。俺だってその立場なら無反応でいるだろう。


「……数字が……気合を……成績が……」

「はい……はい……」


 支社長の脂ぎった顔を死んだような目で見下ろして、俺はありがたいお説教の断片だけを拾っていく。

 この事業所は近隣の事業所と成績争いをしていて、その成績如何によって本社からの評価も変わっていくらしい。

 そして本事業所はここ数年──俺が新卒で配属されてからだから四捨五入して切り上げて十年になるか──近隣の事業所に負け続きで、良くて真ん中くらいの順位。支社長は本社からその能力を疑われているらしい。

 昔は敏腕営業として鳴らした人らしい。上昇志向が強く、金銭欲も強く、数字を取ることに熱心になれる。そんな人だったと小耳にはさんだ時は信じられないという思いで一杯だったが、まあ、管理職に求められる能力と一兵卒に求められる能力は違うということなのだろう。

 或いは、それが関係しているのだろうか、と目をやった先、支社長のデスクの上の写真の中では恐らく娘と思われる少女が満面の笑みをたたえていた。支社長は結婚指輪をしていないが、まあ娘がいてもおかしくない年齢だ。


香坂こうさか! てめえ数字が出てないぞ!? どういうことだ!!」


 バンッ、とデスクを叩く音がして、弾かれたように同僚が支社長の元に馳せ参じる。どうやら、俺の話は終わったようだ。


「くっそクズの戸塚でも今月こんだけは出してんだよッ!! まだ俺の全盛期の2……いや1割も無いけどなッ!! それがなんだお前は!? 舐めてんのか!? あぁ!? なんとか返事しろよこのヒョロガリがよぉッ!!!」

「……す、すいません」

「すいませんで済むと思ってんのか!? あぁ!? 目標は必達! どうすりゃいいんだ言ってみろ!」

「……が、頑張ります……」

「聞こえねーなぁ」

「……頑張ります!」

「あぁ? 頑張る? 何をどう頑張るっていうんだおい! 支社の仲間に申し訳ないとか思わねぇのかおいッ」


 支社長が胸ぐらを掴んだ。

 若い女性事務──美人では無いが、愛嬌と色気がある──が慣れた様子で止めに入る。

 支社長は目尻を下げて猿のような表情に変わって、そして香坂を離した。

 ゲホゲホ咽せながら席に戻る香坂。少し涙目だ。先輩として少しフォローしてやるべきだろう。俺が標的とされなければ。或いは俺に業務量の余裕が生まれたら。


「──酷すぎないか?」


 何故か、珍しく定時で帰らされた日の帰り道、学生時代の友人とばったり再会してそのまま向かった小料理屋という名の居酒屋で、俺は酔っぱらってジョッキをガンッと机に叩きつけた。


「相変わらず理屈っぽい奴だ。見た目は痩せたが、中身は変わんねえな。いい大人なんだから、整髪料ワックスとか……無精ひげくらい整えろよ」


 ベルトの上に乗った腹回りの肉が注ぎすぎたビールの泡のようにも見える友人はそう言って笑った。顔が赤い。随分と酔っているようだった。

 相変わらず楽天的な奴だ。学生時代と変わらぬ気楽な会話に、疲労が浅ければ心も多少軽くなったろうし、疲労の度が濃ければ激しい怒りを覚えていただろうし、そして現在の俺にとっては全く心に響かなかった。


「しっかし典型的なパワハラだな。お前のとこの製品買いたく無くなるわ」

「いや、それは買ってガンガン使ってくれ。そして壊して修理やクレーム以外で時間とお金を使ってくれ」

「……賞与に反映されるからな」


 苦笑する友人に俺は同じく苦笑いを返した。


「……! おいまさか、賞与に反映されないのか?」

「……ははは」

「…………まっ、そっ、そうは言っても残業代は出るんだろ?」

「ザンギョウダイ」


 焼き魚の切り身を啄ばんで俺は首を捻った。

 少なくとも基本給を下回るような、不当で法に触れそうな仕打ちはされていない。

 逆に言えば基本給におまけがついたほどしか毎月頂いていない。


「ま、まじかよ……」


 友人は顔を引き攣らせた。

 そこからの会話は全く弾まなかった。

 心なしか友人が多めに会計をして、まだ中学生でも補導はされないような、そんな早い時間に俺たちは別れた。


 遅れて惨めな思いが湧きあがってきた。

 同級生だった、対等な立場の友人に憐れまれて会計を持たれるとは……。


 久々の酒のせいか、興奮が醒めない。

 いつもより顎を上げて帰路についていると、賃貸の古いマンションのエントランスの、リサイクルショップで叩き売りされていたのであろう年季の入ったソファに、ちょこんと小学生くらいの女の子が座っていた。


 ちらりと見て、頭のよさそうな子だな、と思った。

 雰囲気がそう思わせる。

 ショートに切り揃えられた黒髪は傷んでおらず、良いシャンプーを使っているのか、指通りの良さそうな素直そうな髪がとても綺麗だった。鼻筋がシュッとしていて、少し垂れた目をしていた。

 服装は見覚えのない真っ白なワイシャツに膝上までの濃紺のパンツで、皺ひとつ寄っていない。アイロンがきれいにかけられている。


 どこの子だろう。


 そう思いながら俺は、美容室やらデリバリーやらの広告で一杯になった郵便受けを開けて、ゴミを無造作に鞄に放り込んだ。


「あの、すいません」


 話しかけられたことに最初は気付かなかった。


「……何か?」


 ゆっくりと振り返った俺の目を、の少女が真っ直ぐに見つめていた。

 全体的に見ると童顔なのに、どこか聡明さや切れ味の良さが感じられた。

 柔和で抱擁感のある大人びた印象を与える顔立ちで、真っ赤なランドセルを背負っている──小学生なのかなと思ったが、実際にそうなのだろう──のがアンバランスだった。

 最近の子どもは成長が早いな、と素直に感心した。


「…………やっぱりそうです……」


 形の良い薄い唇から、落ち着いたソプラノボイスで呟きが零れた。


「……ずっとお探ししておりました……。ご主人様……!」


 え?


 目を見張る。凝視。

 沈黙は五秒。踵を返すのに一秒。歩き出すのにもう二秒。


「……待ってください!! ご主人様!」


 さすがにスルーするのは無理だったようだ。

 大股で立ち去る俺。後ろからパタパタと足音がする。

 俺のヨレヨレのジャケットの裾が引かれかけた。指が引っ掛かったのだろう。


「ヒッ」


 情けない悲鳴が漏れ出た。

 振り払い、全力で階段を駆け上がる。絶対にまともな相手じゃない。

 というか相手が正気であれば却ってなお怖い。傍から見ればアラサーの男性が美少女にご主人様と呼ばせている構図。俺がさながらイカレた変態に見えて、俺の社会生活も詰むじゃないか。

 久しぶりに息が切れるほど走った。

 一足跳びに三階廊下突き当りの自室に飛び込み後ろ手に扉の鍵を閉める。


 普段なら事務所でパソコンと向き合っている時間だ。

 何故か今日は追い出されたが。

 折角早く帰ることができたのに、散々だ。


 俺は真っ暗な自室の天井を仰いだ。



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