第2話
あの頭のおかしな小学生は、追ってくる素振りを見せなかった。
扉を閉めて、体重で開かないように塞いでいたが、ドアノブが回ることも扉がノックされることもなく、何なら廊下を叩く足音もしなかった。
そうして、ひとつ安心した俺は、また普段通り、機械のように決まり切った動作でシャワーと食事をこなして、そして電池切れのように万年床に身を横たえた。
折角早く帰ることができたのに、とそう思っていたが、早く帰ったところで何かしたいことも無かった。
目覚めは、鳥の鳴き声が聞こえるのと同じか、それよりも少し早い時間だった。
朝、習慣的に早く起きて、習慣的にスーツに袖を通した。
朝食を食べなくなって久しい。
粉を洗っていないマグカップに目分量で突っ込み、電気ケトルに水道水を入れる。そういえば、と沸騰を待つ間に脳裏をよぎるのは、電気料金と水道代を確認しなければいけない、ということだった。雑に冷蔵庫に貼られた明細を見る。適当に貼られた明細を見ていくうちに再認識する。殆ど部屋にいないのに、ここ半年、支払う額が多くなった気がする。気がするが、気にはしなかった。
お湯が沸いた。カップに注ぐ。こうして作ったコーヒーを流し込んで、その喉元に来る熱と臓腑に浸みるカフェインで身体を覚醒させたところで、携帯電話のバイブが鳴った。メールだ。そこで携帯を点けて初めて、今日が土曜日であることに気付いた。
「今日は来なくていい」
支社長からの端的なメッセージに、俺は思わず首を捻った。
休日なんて概念も無くなるほど、毎日出社していたからだ。
槍でも降るのかと思った。
久しぶりに家にいることになる。文字通りの休日だ。休日という二文字が名ばかりではない。
そうは言っても、だ。
「やることがない」
呟きが散らかった部屋に響いた。
モノは少ないはずだが、とにかくゴミや衣服や万年床のせいで雑然とした印象を受ける。
「……片づけるか」
そう思っていたが、気付くと部屋の真ん中に座って、ぼんやりとテレビを眺めていた。
朝日が差していたはずの窓から、夕日が差してきている。電気を煌々とつけているのにカーテンも引いていないから、きっと外から丸見えだったことだろう。だから何だ、という話ではあるが。
「……もう夕方か」
本当に朝から何をしていたのだろう。
目の前にデリバリーのピザの残骸。少し食べかけで、四割くらい残っていて、油が容器に浸みこみ見た目は明らかに冷めきって、食指を全くそそられない。
こんなものを頼んだ記憶もない。
上はスーツを着かけたワイシャツのまま、下は寝間着のジャージのままというチグハグな格好で、一日中何をしていたのだろうか。
長いまどろみの中にいるようだった。
コンコン。
不意に部屋の扉がノックされる。俺はまた意識を覚醒させ、ノロノロと立ち上がって扉を開けた。
「ご主人様」
昨日の少女だった。
今日もまた、ランドセルを背負っている。
格好は昨日と同じだ。白のワイシャツに濃紺のハーフパンツ。糊が効いていて、そして帽子は被っていない。
察するに制服なのだろう。
最近の子どもは休みの日も制服を着て、ランドセルまで背負っているのか。
「いえ、今日は土曜授業でしたので」
「え?」
心が読めるのか?
「いえ、呟きが口から洩れておりました」
本当に?
無言を意識して、ついでに表情もなるべく一定に保つ。
「本当でございます、ご主人様」
この度は確実に黙っていた。
やっぱり読心されているに違いない。
俺は訝しんだ。
「……ああ、やはりご主人様はわたくしをお忘れになってしまったのですね」
お忘れも何も、こんな少女は知らない。
姪も甥もいない。親戚縁者とはすっかり疎遠だ。実の両親とすら、年単位で顔を合わせていない。
「……ご主人様は、それでもご主人様でございます」
「……」
俺は黙って扉を閉めようとした。
「お待ちください」
「……は?」
自分の目が信じられなかった。
俺は確かに扉を閉めようと、ノブを掴んで引っ張った。
そのはずが、扉は途中で何かに引っかかったように止まり、いくら力を込めて引いてももう反応もしなくなっていた。
「話を聴いてくださいまし」
少女は平然としている。
その大きな目に見つめられ、俺はたじろいだ。
「……話を」
「…………」
「ご主人様」
小学生くらいの少女の言葉なのに、ひとつひとつがとてつもなく重たい。
その圧力に逆らえず、俺は心の中で「もうどうとでもなれ」と思ってしまった。
「……ご主人様、よろしいでしょうか」
「……ああ」
不承不承の頷きに、少女の顔は華やいだ。
あまりの明るさに、眩しくて目を潰しそうになった。
「失礼いたします」
部屋に滑るように入ってくる。
その動きに合わせて、びくともしなかった扉がなめらかに動く。まるで扉が、少女の背中に介添えして玄関に誘導したようだった。
超能力だ、そう思った。
「造作もないことでございます」
三和土に散らばった靴が手で触れられることもなく揃えて並べられていく。
そうして現れた小スペースで少女が靴を脱げば、それもまた整えられる。その間、少女は中空に浮いていた。
失礼します、と脚を動かすこともなく浮遊して部屋に上がり込んでくる少女に、俺は自分が警察やそれに準ずる機関に検挙されないかと不安に駆られずにはいられなかった。
「ご心配には及びません」
すっかり心が読まれるのにも慣れてしまった。
まともに会話をしてから五分と経っていないのに、だ。或いは普段の社畜生活のせいで、理不尽な事象に対する感受性が下がっているのかもしれない。
「いえ、呟きが漏れておりますので」
「嘘を吐くな」
クスクスと笑って言われたら誰だって嘘だと分かる。
品のある、嫌みの無い無邪気な笑い方だったが、ただ煙に巻かれているようで気に食わなかった。
「ラウティンゾッラ」
「は?」
「ラウティンゾッラ、或いはアモニラントセ。この名前に聞き覚えございませんか」
「無い」
即答する。
ヨーロッパ系か? 名前だというが、全く聞き覚えが無い。そもそも外国人の知り合いは居ない。
「そうですか」
それだけ呟いて、少女は口を噤んで目線を自分の正座して揃えられた膝頭の方にぼんやり向けた。
何か悪いことをしているような気分になって、俺は柄にもなく台所でお湯を沸かし、インスタントコーヒーを準備し始めた。台所と居住スペースはひとつになっており、コーヒーを入れている間にも、少女がちょこんと居住まい正しく座っているのが観察できた。例えば金品を
「……ご主人様はやはりわたくしを覚えておられないご様子。ご主人様は世界の半分を統べる魔王であらせられるのに……」
「…………は?」
コーヒーを恭しく受け取った少女は、一口マグカップに口をつけてそう言った。
頭がおかしいのか? 俺の耳がおかしいのか? コーヒーに変なものが入っていたのか?
俺はコーヒーを少し飲んで、その熱さを喉に感じて落ち着きを取り戻し、変な薬も入っていないことを舌で確かめた。そうして精神を整えてから、俺はまじまじと少女を見た。
「……何だって?」
「わたくしめがご主人様を見間違えようもございません。あなた様は世界の半分を治めたフレモリヤード三世その人でございます」
「いや、俺日本人なんだけど。頭がおかしいのか」
「わたくしは真剣でございます」
「なら尚更良くない。行くべきは俺みたいな独身リーマンの部屋じゃなくて、総合病院だ。親にでも付き添ってもらえ」
窓をピッと指差す。赤い十字架が遥か遠くに見える。
「本当に覚えておられないのですか?」
「ああ、知らないね」
嘘でないことが分かったのだろう。
少女の目から一筋の涙が零れた。
俺はとても慌てて、その辺に転がっていたポケットティッシュを差し出した。
差し出してから、袋とティッシュの隙間に小虫が死んでいるのを見つけた。
「……記憶がまだ戻っておられないのですね。お労しいことで──」
アイロンが利いたハンカチを取り出し、少女は涙を拭った。慌てて損した、素直にそう思った。
「ええとね、俺はフレモなんたらなんかじゃ無いし、頭のおかしい奴に構っている暇は無いの!」
さすがに看過できなくなって、つい大声を出した。
久々に感情的になった。声を張り上げたのはいつ以来だろう。
激しく息をする。
少女は大の男の怒声に怯えたり慄いたりする様子もなく、ただ仄暗く悲しそうな瞳を俺に向けていた。
それを見て、俺の心は言い様も無く掻き乱された。
こいつは、この少女は──。
刹那、甲高い音が部屋に響いた。
一瞬、身構えたが何のことは無い、電話の音だ。俺のではない。
「……ご主人様、失礼して宜しいでしょうか」
上目遣いに問うてくる小学生エスパー少女に、俺は追い払うようにヒラヒラ手を振った。
「……はい。……はい。……アモニラントセ、あなたも…………え? ……ええ、はい……そうですね……それでは」
漏れ聞こえる声から察するに、どうやら電話の相手は、少女を諭しているようだった。
少女の顔が少し苦々しく、聴きたくない言葉を聴いたような表情に変わっていった。
「……信じることができないのは無理もありません」
突然の譲歩。
現状の肯定は、少女にとっては不本意のものなのか、まるで言わされているかのような声色で、ようやく目の前の少女が得体の知れない化け物ではなく年相応の小学生に思えた。
だがしかし、信じるも何も、世界を統べたことも無ければ魔王であったこともない。小さい頃──それこそ目の前の少女と同じくらいの頃──から、俺の将来の夢はサラリーマンだった。
「ですが信じていただきたいのです。理解していただきたいのです。あなた様はわたくしたちのご主人様であり、あなた様は魔王フレモリヤード三世であったと!」
いや、知らんがな。
多少語気を強めて、身を乗り出し顔を近付け主張されても、俺には面食らうことと否定語を繰り返す以外に出来ることすべきことが無いように思われた。
また携帯電話の着信音がした。
少女が画面をちらりと見て、スクっと立ち上がる。
「……本日はこれで失礼いたします」
「……ああ、帰ってくれ」
とても気疲れした。
げんなりとした俺を、さらにげんなりとさせる台詞が続く。
「また明日、お伺いいたします」
「……え゛っ?」
「失礼いたします」
「……あ、明日も仕事なんだけど」
「明日は日曜日ですよ?」
靴を履いた少女は不思議そうに微笑んで、それからふと思い出したように言った。
「ああ。でも明日も本日と同じように、出社しなくて良いと言われると思います」
「え? なんで?」
少女の背中に、俺の声は届かなかったようだ。
幻覚であったかのようにスッと視界から消える少女。
少女の身幅分ピッタリに開けられたドアの隙間から、爛れそうな夕日が差し込んでいた。
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