第3話
果たして、少女の言ったとおりに、日曜日なのに休日出勤が無かった。
昨日と同じように、「来なくていい」とメールが入ったのだ。
昨日の少女は何を知っていたのか。
少しだけ気になる。
俺はまた、いつものようにインスタントコーヒーを用意する。カフェインを入れなければ、体力が保ちそうにない。朝は必ず。後は一日に何杯飲むだろう。生活は半分以上無意識で行われているようで、記憶に残る出来事は何もない。まるで自分の言動が誰かに操られているかのように自分のものでないようにも思われることすらある。
見たくもないのにテレビをつける。
特撮やアニメが放映されていて、きっと子どもがいれば一緒に見たりもするのだろう。
そう言えば、一昨日居酒屋で飲んだ友人は何年か前に既に結婚していて、子どもがひとりいたはずだ。会話の一節が思い出される。「子どものお陰で、アニメのキャラクターの名前も覚えちまったよ」。
散らかった部屋だ。目の前の床をゴキブリらしき虫が素早く横切っていく。
いつ食べたのかも知れないカップ麺の容器が転がっていて、油のような何かがこびりついている。
流石に、ゴキブリを見て穏やかでいられるほど俺の心は死んでいなかったようだ。
不快感と煩わしさがないまぜになった俺は、ローテーブルの上に雑に放り出してあった財布を掴むと、その辺りに散らかっているスーツ以外の私服の中から適当なものを手に取って着替えると、近所の、食品以外にも色々揃ったスーパーマーケットへと足を向けた。
丁度開店したばかりのようだった。いつ通りかかっても開店前か閉店後で、営業時間を知らなかった。
殺虫剤と毒餌を買って釣銭とレシートを雑にポケットに仕舞いこむ。
往復で約10分。買い物は売り場が分からず少々手間取ったが、合わせても30分もかかっていなかっただろう。
鍵を回す。
違和感があってガチャガチャと鍵を左右にやる。音がして、施錠される。
行きがけに閉めなかったのか。
自分の不用心さに苛立ちながら、改めてドアを押し開けて、俺は固まった。
廊下の奥。開け放たれた部屋の中に、俺ではない誰かがいたからだ。
「……誰だ?」
咄嗟に、昨日の頭のおかしい小学生が不法侵入したのかと考えたが、明らかに体格が違う。
一回りは目の前の人物の方が大きいし、身体の感じを捉えるに相手は男性だ。
部屋によく合う小汚い格好をしていて、服の上からでも明らかなほど痩せていた。一見して浮浪者のようだった。どことなく鼻を刺すような臭いがして、思わず顔を顰めた。
「ぅぉぉぉ!」
言葉にならない声が発せられ、男が突進してくる。
しゃがれた、決して大きな声では無かったが、それが却ってリアルな恐怖を感じさせた。
「ちょっ! おいっ!」
ぶつかってきた男はやはり痩せており、ぶつかってきた衝撃はあまり無かったが、それでも日頃の運動不足と不摂生が祟ったのか、よろけてしまい壁に叩きつけられた。
男と俺はもつれ合った。
不運なことに、ドアは何かの拍子でか閉まっており、近所の人間に気付いてもらえない可能性が生まれていた。
「ああもうっ」
俺は相手の男の汚らしい服を掴んで一瞬引き寄せ、そして瞬時に弾き飛ばした。
廊下の奥、部屋の入り口付近までズザザザ…と投げ出される男。
結構なダメージが入っただろう。
ここで、ようやぅ俺はポケットをまさぐった。携帯電話で警察を呼ぶためだ。
だが、ズボンの前後左右四つのポケットのどこにも携帯電話が無い。
もみあいになった時に落としたのかと床に視線を走らせるが、そこにも無い。
恐らくだが、部屋に置きっぱなしなのだろう。
「……ぅう。…………あ゛ぁぁ……くそぅタレ……」
呻くような、恫喝のような声に視線をあげれば、部屋のキッチンに置きっぱなしで片づけておいた包丁を手に、刃先をこちらに向けて男が震えていた。
暴力にこそ慣れていなさそうな動きだったが、その分、目や発せられる雰囲気が必死そのものだ。窮鼠猫を噛む、というフレーズが頭に浮かんだ。
「ちょっ、ちょっと待てよ! おっ、おっ、落ち着けって!」
「う゛ぅあ゛ぁ!」
突進。
身を捻って避けるので精一杯だ。
目を離さないようにして、何とか部屋の中に戻り携帯電話を取って助けを呼ばなければ。
そう思うのに、男はどうやら部屋に俺を入れる気は無いのか、狭い廊下の真ん中に立ち位置を固定して、確実に俺を玄関に追い詰めようとしてくる。
一般に、日本という国は治安が良く、犯罪や厄介ごとに巻き込まれる事例は少ないのだという。ご多分に漏れず、現代日本に生きる俺も平和ボケしているということなのだろう。
その目から、その鬼気迫った表情からは、感じたことの無い必死さを受信できる。殺意とは、殺気とは、斯くなるものを言うのか、と俺は他人事のように思った。
どん。
玄関のドアに背中が当たる。
内側に引いて開けるタイプの扉なのが今は恨めしい。
「ぅ……うわ゛ぁぁぁ!!!」
悲鳴と共に突き出された右手。その手の先の、包丁の刃先を避けるようにして、俺は男から視線を離さないまま、両手で自分の身体ごと男の手首を抱え込むようにして、思い切り後方に引っ張った。同時に突き出された右足を蹴って薙ぎ払う。
男の身体が左側の壁に叩きつけられた。
「あたたっ!」
男の顔が苦痛に歪む。しかし、包丁は離さないままだ。
必死にふりほどこうとして腕を揺すられる。男が頭を振り上げた。犬歯がちらりと光る。俺の細腕に向かって噛みつこうとしているのか。体勢的に苦しくて、俺は自分の額に脂汗を浮かべているのが分かった。背中もまた、嫌な感じに服を吸着させている。
「ご主人様っ!」
扉が開くのと、男の身体が不自然に硬直するのが同時に起こった。
自由に動けた俺は、開いた扉に押し出され、うつぶせに倒れそうになりながらも、なんとかバランスを取って体勢を戻した。
「昨日の!」
「ご主人様! ご無事ですか!?」
俺をご主人様だとかフ……なんたらと呼ぶ、頭のおかしい小学生っぽい少女。
もう金輪際、絶対に関わりたくないと思っていたが、いまこの瞬間だけはありがたかった。
「…………ご主人様が平日も休日も出かけているのをいいことに、部屋の鍵を盗んで日中忍び込んで食料や金品を漁り、あまつさえこの部屋を自宅のように扱っていた、と」
口にガムテープを貼られ、ロープで全身をぐるぐる巻きにされた浮浪者の男は、少女の剣幕に圧され、ガクガクと震えながら頷いた。全部少女の仕業だった。何なら男を拘束したのも、念力的な何からしい。怖さを通り越して、もう何とでもなれ、とも思ってしまう。
ワナワナと震え、フーフーと威嚇する獣のように唸る少女の激怒に、俺は却って冷静さを取り戻していた。そう言えば入居時余分に部屋の鍵を貰っていたな、とか、そっかー、電気代と水道代がやけに嵩んでいる気がしたのは、こいつのせいだったのか、とか。
「…………ご主人様のものに手を出すだけでも万死に値するというのに、危害まで加えようとしただなんて……っ!」
「……あのさ、取り敢えず警察呼ばね?」
「ご主人様っ!」
凄まじい勢いと形相で睨め上げられて、俺は怯んだ。なるほど、子どもであっても、美人は怒ると怖い。
「ご主人様はお優しゅうございますね。警察などで済ませばよいと、本気でそうお思いのようで……」
「いや、だってここ日本だし……」
私刑はダメだろう。何があっても。
今日日、たまにSNSで炎上したり、悪事が判明した人間のプライバシーを晒す私刑が横行しているというが、もってのほかだ。まして、直接的な暴力に訴えるのは、やる気も無いし、率直に言って、かなり怖い。
「……ていうか、気付かなかったな」
一応、月の三分の二は部屋に帰っていたのだが。
「……痕跡を残さないように注意はしていた? 盗人猛々しいとはこのことです! 小癪なっっっ……」
「……なあ、あんた小学生なんだよな? 一体、何歳?」
あまりにも小学生らしくない言葉遣いと剣幕に、ふと口を挟んでしまう。
「この身体では、12歳です。小学六年生です」
「名前は?」
「ラウティ……」
「いや、日本人としての」
もうこの際、魔王がどうのと言った与太話の設定を前提としてやろうと、俺は一種の諦めの下に質問を発した。
「
「あ、どうも。戸塚です」
名前がようやく分かった。
鮮烈な印象ばかりが先行していて、名前のひとつも知らなかったのだ。
「で、逆井さん」
「……はい」
エスパーではない俺でも分かる、「そう呼ばれるのは不本意です」とでも言いたげな表情で、逆井紗希は俺の方を振り向いた。
それは無視する。
「俺は、あんたの主人だと?」
「はい!」
食い気味な返事。
俺は引いていたが。
「じゃあ、命令は絶対?」
「……はい!」
「なら、ふたつ命令がある」
「何なりとお申し付けください!」
命令は絶対、と訊いた時の微妙な間からして、何が何でも絶対というのではないのだろう。
だが俺は、俺自身の安寧のため、厳にして言い含めなければならなかった。
「ひとつ。この侵入者を警察に突き出す。ちゃんと日本の法律で裁いてもらうんだ。邪魔をするな」
「……かしこまりました」
不満の色が隠しきれていない。
抵抗されるかもな、と思いながら俺は祈るような気分でもうひとつの命令を口にする。
「ふたつ。もう金輪際俺に関わるな」
「…………ご主人様?」
「もう一度言う。もう金輪際俺に関わるな。……復唱!」
「……もう金輪際、ご主人様に、関わらない…………」
「いいな。命令だ」
思い返すと、少し調子に乗っていた気がする。
紗希の目を一筋の涙が伝った。随分と涙もろい子だ。見た目相応に子どもらしく思える。
だがしかし、だ。泣いてもらうと困る。どんな変人であれ、見た目美少女で小学生もある子を泣かせるのは決まりが悪いだろう。
「出ていってくれ。俺は警察に電話する」
「……ご主人様」
紗希に背を向けて、俺は携帯を手に取る。
警察は110だったっけか、と不安になりながら俺は呼び出し音を聞いていた。
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