第4話

 残念ながら、三連休とはいかなかった。


 月曜日なので、いつも通り朝早く起きて、身支度もそこそこに部屋を出る。


 まだ朝早い通勤電車で、人の座る余裕もある。

 横に伸びた席のひとつに腰を下ろし、何をするでもなくぼんやりと車窓を眺めていた。

 通り過ぎていくビル。住宅街の色とりどりにアースカラーの屋根。朝からけばけばしいラブホテルの電飾。


 最寄り駅について、支社までの、アップダウンのある道を歩いていく。

 支社の目の前のファストフード店から、ほんのりと油の香ばしい香りが漂ってきて、それだけで胃もたれしそうになる。


「……おはようございます」


 輪郭も朧な挨拶もそこそこに、自分の席に座る。今日は一番乗りでは無かった。同僚は一瞬顔を上げて、また視線を目の前の古いパソコンに落とした。

 支社長が来る前に、今日の営業計画をまとめて報告をしなければいけない。

 どうせ重箱の隅をつつかれるようになっている茶番劇と、支社長より遅く出社すると大層機嫌を損ねるという事情のためにこんなに早くから会社にいるとは、と自嘲したくなる。

 休みが二日もあったせいで、頭が普段より回ってしまっていて、余計なことに思考のリソースを割いてしまっている。


「……っす」

「……ちわっ」


 三々五々、同僚たちも出社してくる。

 一様に、皆、陸に打ち上げられた魚のような虚ろな目をしている。


「……遅いな」


 ちらりと時計を見る。

 朝7時45分。いつもなら支社長が俺たちひとりひとりの人格や営業成績やありとあらゆる要素をあげつらって報告或いは指導という名のパワハラを、ここにいる全員の前で行っているところだ。

 そう言えば、と唐突に思い出した。

 支社長はおよそ10年前、不倫が原因で離婚しているらしい。俺が配属される前のことだ。パワハラじみた言動が急増したのもその頃からだという。


「みなさん、おはようございます」


 聞き覚えの無い、そしてこの支社にはそぐわない明るくはきはきとした模範的な挨拶に、俺たちは皆、のそりと首や身体を回した。

 高そうなパンツスーツに身を包んだ、俺より数歳ほど若そうな女性が立っていた。派手ではないが少し茶色がかった髪は短いが、ウェーブがかっていて量が多いので、少し長く見える。目鼻立ちは整っていて、可愛いというかは美人という方が適切に思えた。化粧も派手ではなく顔立ちに自然に馴染むよう誂えられている。どこかで見たことがあるような顔だ。

 その後ろには支社長が立っていた。塩をかけた青菜のように、どことなく生気がない。


「本社管理部監査室の弓削ゆげです。こちらの支社の監査に参りました。後ほど、支社長を含め、みなさんにお話を伺いたいと思います。よろしいですね?」


 まだ若いのに、おそらくここにいる中で最も若いのに、有無を言わせない迫力があった。流石は本社勤めだと思った。出世ルートに乗っている。さぞかし有能なのだろう。


「それでは……まだ就業時間ではありませんが、宜しいですか? 牧村まきむら支社長?」

「……はい」


 支社長の顔は明らかに強張っていた。普段の虚勢のようでもあった元気も全く無かった。


「後ほどもう一名来ますので、皆様からはその後、お話を伺えればと思います」


 弓削は見渡し、柔らかく微笑んだ。

 俺はそれを、何の感情も無く見ていた。


 およそ一時間後に、壮年の男性が支社の扉を開いた。

 たまたま応じた俺に、男性は監査室の東川ひがしかわだと名乗った。

 

 まだ支社長と弓削は応接室で面談を行っていた。

 それを伝えると、東川は一瞬だけ困ったように眉を寄せた。


 俺がそれに気付いたことに、東川は気付いたようで、弁解するように笑った。非の打ち所の無い、歳相応に朗らかで嫌味の無い微笑だった。


「いやぁ、弓削くんは元々優秀で仕事熱心なんだけれど、今回は初めてメインでやる大仕事だからか、普段より一段とやる気になっていてね。今日も朝の六時くらいからここに居たってね」

「へえ」


 朝の六時と言えば、俺はまだ通勤電車の中だった。


「君にも後で話を聞くからね。ええと……」

「営業部の戸塚です」

「あ、そうそう戸塚くんだ。よろしくね」


 そう言って東川は応接室に入っていった。

 牧村支社長、お久しぶりです、と言った和やかな挨拶が漏れ聞こえる。


 やあやって、応接室から出てきた支社長の顔は、生気がないと一言で片づけるにはかわいそうなくらい蒼白な顔をしていた。同じ「せいきがない」でも、これでは「生気」ではなく「精気」の方だ。活力云々というより、もはや生きる希望を失ってしまった廃人のようにも思える。

 昨日のことを思い出す。

 警察を呼び、被害届やら聴取やらで一日潰れてしまった昨日のことだ。

 あの時の侵入者も、こんな絶望は今目の前に! と言いたげな顔をしていた気がする。


「次、お願いします」


 支社長の後は、また別の社員に話を聞くらしい。

 そうやら年功序列で呼ばれているようで、俺はざっと自分の番を計算した。


「あの、すいません」


 応接室に戻る弓削に声をかけたのは、まだ今年二年目の香坂だ。

 よく支社長に怒鳴られている。支社では最も若く、まだ若さゆえのバイタリティが残っている人材だった。邪険にはしていないはずだ。

 

「お、俺っ。今日、お客様とのお約束があって……。10時に……」

「分かりました。帰社は何時頃を予定されていますか?」

「え?」


 面食らう香坂。

 目標を売り切るまで支社に帰って来るな、が方針だったから、取り敢えず予定が消化出来たら一旦帰ってくる、という発想が無かったのだろう。


「えっと……11時半で……」

「分かりました。それでは13時から香坂さんの面談と致しましょう。それで大丈夫そうですか?」

「えっ、あっ、はい」


 香坂は頭を下げつつ、自分のカバンを持って支社を出ていった。


「皆さんも」


 弓削は俺たちを見回す。


「何か予定がありましたらそちらに行っていただいて構いません」

「あの、新規開拓は……?」

「構いませんが、無理をなさらず。帰社時間をお伝えしていただければそれで大丈夫です」

「分かりました」


 今の支社長は、機嫌が良いとか悪いとかではなく、完全に非人間的で、居心地が悪すぎる。

 出来ることならとっとと出ていきたかった。

 皆も同じ思いだったのだろう。

 ホワイトボードのそれぞれの名前の横に、適当な用事と帰社予定時間を書いて外出していく。


「でも俺は……」


 多分すぐに順番が来てしまう。

 もの凄く居心地が悪いが、諦めて書類仕事を行おう。



「戸塚さん」


 呼ばれたのは一時間ほど後だった。


「失礼します」


 応接室には、既に東川が着席していた。

 弓削に促されるままに席に座る。彼女の首に掛かっていた社員証が揺れた。弓削朋美、という名らしい。


「あの……今日はいったい?」

「この様子では、どうやら皆さん聞いていなかったようですね」


 弓削は大ぶりの手帳を開いた。


「先週の金曜日から、この支社が不正を行っていないか、監査を行っているのですよ」

「監査」


 鸚鵡返しに呟く。


「金曜日は午後からですね。残業の数字が誤魔化されていないか、業務量は適切か、半ば抜き打ちで監査に訪れたのです。金曜日は皆様定時に帰っておられましたね」


 そうか、それで金曜日は定時で帰らされたのか。

 俺は納得した。


「休日出勤も無かったようですし」

「調べたんですか」

「ええ」


 当然のことだ、とでも言うように弓削は表情や声色を変えない。クールな人なのかな、と呑気な感想を抱いた。


「他の支社では、月に一度程度ですが休日出勤もあるようなのに、この支社では全くそれが無いですね。素晴らしいことです」

「えっ?」

「どうかしましたか」

「いえ、何も……」


 つい言い淀んでしまう。

 休日なんて概念も無いほど、休日出勤していたこと。俺は何となく、隠さなければいけないような気になっていた。


「……では、いくつか質問を……」






 長かった。


 監査もそうだが、今日一日が長かったのだ。

 定時で帰ったはずだが、「業務規定時間より明らかに早い時間から仕事を行っていましたね。残業の対象です。記録してください」と言って残業が付いたのだ。

 香坂など、「どうやって申請すればいいんですか?」などと言って東川に教わっていた。


 支社長のトボトボした背中が目に焼き付いている。支社長は午後半休を取ったらしく、早退していった。大きな体格なのに、やけに小さく見えた。

 あの様子では、もう直に支社長の椅子を下ろされるだろう。

 残業未取得や休日出勤、パワハラも含め全て詳らかになったようだ。

 帰り際、香坂がそう言っていた。

 香坂は、トイレで東川にこっそり聞いたらしい。


「セクハラもあって、それで辞めた女性社員もいたそうじゃないですか」

「へえ?」

「支社長が離婚した原因だそうですよ。元々DV気質だった上に不倫していて、更に三人目を作ろうとしてちょっかいを出していたとかで」

「ええ……」


 俺が入社するほんの少し前のことだ。

 どうやら、かつてそれを黙認していた、俺より上の世代は譴責を食らったらしい。


「結局、親権も無くなって元妻と娘には接近禁止。なんでこれで大事になっていないんでしょうね?」


 さあね、と俺が起伏の乏しい反応をしたからか、香坂は「気にならないんですか?」と目を丸くして俺の顔を覗き込んだ。

 何か言いたそうにしている。


「理由、知っているのか?」


 促せば、香坂は声を潜めて、しかし待ってましたと言わんばかりの勢いで話し始めた。


「実はですね、支社長のお父様が結構な株主なんですよ」

「へぇ」

「それでそれで、実のお祖母ばあさんが創業者の一族の出らしくてですね。現会長とは姉弟のように育ってきたとか」

「なるほどねぇ」


 いまの時代も、意外とそういった前時代的にも思えるしがらみが残っているということなのだろう。


「『牧村も、昔は優秀で、まあ多少厳しいところもあったけど、いい人だったのにねぇ』って東川さんが」

「へえー」

「正式に内示が出るのは少し先のことになるけれど、地方の窓際への異動はほとんど決まりだって話です」

「そうなのか」


 それは良かった、のか。


 実感はないし、善悪の判断も遅れるほどこの生活で心身が衰弱していたが、とにかく早朝出社、長期残業や休日出勤とはおさらばできそうだった。


「成績的にも年次的にも、戸塚さんが次の支社長では?」

「いやそれは無いだろう」


 無役職者が何足も飛び越えることなど殆ど不可能だし、そういった特例人事は軋轢を生んでしまう。


「僕は推したんですよ? 東川さんと弓削さんに。『成績トップの戸塚さんが支社長でいいじゃないですか』って」

「やけに俺に好意的だな。それで?」

「東川さんはニコニコ笑って『それも一考だねぇ』って」

「おいおい……」

「でも弓削さんは『もし仮に支社長が変わる場合には、別の支社からの異動となるでしょう』って」

「まあ、支社長が交代するのは決まりじゃ無いからな」


 俺は、本心とは真逆の台詞を吐いた。

 案の定、香坂は柔らかに噛み付いてきた。


「いや、それは決まりでしょう。今日の話は全部弓削さんがまとめて、本社に持って帰るそうです。そのデータがもっと上に渡れば、もう言い逃れは不可能ですからね」

「聴取だけでも何とかなるんじゃ?」

「いやいや、客観的なデータが無いなら、何とでも言えますからね。『データさえなければ、まあ厳重注意くらいで穏便に済ませることもやぶさかではないのにね』って」

「東川さんが?」

「東川さんが」


 正直、やけに支社長の肩を持つなと思った。

 元部下とかだろうか。年齢的には同じくらいだと思うので、同期で、昔世話になったとかだろうか。或いはコネを恐れているのか。


 慣れない時間に帰路に就く。

 まだ日が沈み切っていない。

 アスファルトが明るく、塀の上を野良猫が駆けていく。


 マンションのロビーには、また少女──逆井紗希が俺を待っていた。


「お帰りなさいませ、ご主人様」

 

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