第5話

「良いことがあったご様子でございますね」

「ん。ああ」


 生返事を返して、俺は逆井紗希に向き直った。


「で、なんでお前は当たり前のようにここに居るんだ?」


 部屋の中に当たり前のように入ってきている。


「命令、したよな? もう金輪際俺に近付くな、と」

「承服しかねる命令もございます」


 表情だけは一丁前に真剣に、紗希は嘯いた。


「全ての命令に承服してはいけないと、わたくしは学びました」

「……あっ、そう」


 ジャマだ。

 居なくなってほしい。


 思考が読めるなら、俺がどう思っているかくらいすぐ分かるだろうに。


「わたくしも、ただここに居るだけでは邪魔者でございます」

「そうなんだよ」


 ついでに、俺の社会生命を終わらせる可能性のある危険因子でもある。


「ですので、わたくしはご主人様のお役に立ってみせます」

「は?」


 刹那、部屋にかかる重力が増した気がした。正確には、何か超自然的な力が働き始めたようだった。

 紗希の例の超能力なのだろう。

 散らかっていた万年床の布団やカップ麺その他のゴミが一斉に中空に浮かび上がり、そこいらを目まぐるしく飛び回り始めた。ファンタジック整理整頓だ。同時並行でパタパタと仕分けられていく。


「ちょっと待って」


 俺は待ったをかけた。


「なんでしょう?」


 どこに転がっていたのか、自治体指定のゴミ袋が数枚俺の目線の高さほどに浮かんでおり、目につくゴミが分別されて収められていく。

 作業が一時中断され、膨れたゴミ袋とゴミたちが部屋の中を浮遊しているのがなんともシュールだ。


「何をしている?」

「掃除です」


 唖然とする俺に、紗希は言い難いことを指摘するような感じで遠慮がちに言った。


「ご主人様、定期的に侵入者がいてもお気付きにならないなんて、あまりにも……防犯意識が低すぎます」

「すいません」


 咄嗟に謝罪が口を突いて出た。


「いえ、わたくしは理解しております。あまりの激務に、生活に気を払う余裕がなかったのでしょう。それゆえに散らかったこの部屋ではより気付きにくい──ですから、まずは部屋を整頓し、今後同じような事例があってもすぐに違和感を覚えることができるように、そう致しましょう。宜しいですね?」

「あ、ハイ。オネガイシマス」


 抵抗し難い雰囲気を感じたし、抵抗する理由も無かった。

 むしろ、こんな見た目幼い少女に三十路男の汚部屋を綺麗に直してもらっているという事実が、中々心にくるものがあった。


「な、なんか手伝おうか……?」

「いえ、お手を煩わせるわけには……」

「そうは言うけど、申し訳ないし……」

「本当にご主人様はお優しい方ですね……。……では、ゴミ袋を指定の集積場まで運んでいただけますか?」

「分かった」


 ゴミ出しをして戻ると、紗希が部屋の真ん中で儀式的な煙を焚いているところだった。


「ご主人様! 外へ!」


 慌てた様子の紗希に連れられて、俺は共用部の廊下に逃げた。

 

「な、なにがあったんだ!? あの煙はっ!?」

「ご安心ください。ただの燻煙式殺虫剤バ○サンでございます」


 俺は脱力した。

 てっきり超能力的な関連の何かだと早とちりしたからだ。


「しばらくここでお待ちくださいませ」

「あー、いや。コンビニでも行ってくる」

「かしこまりました」


 三つ指をつかんばかりの丁寧な送り出しを受けて、俺はコンビニに向かった。

 夜風が心地良い。


 まだ真夜中という時間帯でもないのだが、街灯の無い細い道が多くてどことなく暗い。

 大回りして車のライトや信号機のある道経由で向かった方が良かったかもしれない。


 一か所だけ不自然に明るいコンビニを見ると、改めてそれを感じる。

 自分用にコーヒーと、紗希にも何か買っていこう。少し高いアイスクリーム辺りで手を打ってもらうか。


 そう思ってアイスクリームのコーナーに向かうと、そこには意外な先客がいた。


「あっ。戸塚さん、こんばんは」

「弓削さん」


 朝会ったままの格好の弓削が、アイスクリームを買い物かごに入れていた。


「近くにお住まいなんですか?」

「ええ」

「そうなんですか」


 会話はそれだけだった。


「……では、また」


 会釈して、弓削はレジに進んだ。


「……どれにするか」


 アイスクリームなど、ここ数年食べてこなかった。

 種類が思っていたよりも多くて少し悩んでしまう。

 こんなことなら、女性である弓削に尋ねればよかった、そう思った。

 そして、今朝弓削に感じた既視感の正体に思い至る。支社長の机の上の少女──恐らくは支社長の娘──に似ているのだ。


 もしかして血縁者なのか? それとも娘なのか?

 実娘だとしたら、それに不正を暴かれ立場を追われるというのは、支社長の傲慢な性格から考えると耐え難い屈辱だろう。


 そんなことを考えながらアイスクリームを適当にカゴに放り込む。

 会計を終え、また暗い裏道の方へ足を向けた。


 コンビニの窓ガラスに、照明に釣られたのか大きめの蛾が張り付いているのを横目に進み、裏通りの細い道を縫っていく。

 アイスが溶けてはいけないからと、自然に早足になった。靴の先を見るように俯いてスタスタ歩く。


 少し行ったところで、俺は女性の「キャア!」という悲鳴を聞いた。

 目線をあげる。ほんの目の前にその現場はあった。


「……弓削さん! と、支社長!?」


 右側の壁を背に弓削が、左側、路地の入口を背に牧村支社長が対峙している。

 支社長の手にはナイフのようなものが握られていて、夜闇の中で鈍く怪しく光っていた。


「お前のせいだ……お前のせいで俺は……!」

「支社長……」


 目がイッている。

 何がそこまでさせるのか。やはり実娘に似ているからか。それとも単純に、降格、異動、パワハラやセクハラや各種不正の判明……それらが筆舌に尽くせないほど嫌だったのか。しかしそれで……それで暴力に訴えるのか。


 敵意を一身に受け、弓削はひどく怯えているように見えた。

 その割に俺の姿が目に入った瞬間に彼女は大きく目を見開いて叫んだ。


「逃げて!!!」


 俺に促す割に、自分の足は竦んでいるのか、座り込んでしまう勢いだ。

 頭の中で、冷静な俺が「逃げるんだ」「逃げて警察を呼べ」と諭している。

 それなのに俺は、俺の身体は自然にコンビニのビニール袋を手放し、前方に踏み切っていた。


「支社長!」


 俺は支社長に向かってタックルを試みた。

 確かに不意を突いたはずなのに、ガタイの良い支社長の身体は少しよろけた程度で、逆に俺を突き飛ばしてくる。


「痛っ!」


 背中を壁に打ち付けられてしまう。

 鈍痛に目がチカチカする。頭も打っているのだろう。

 昨日の浮浪者とは全く違う。


「こいつさえ……こいつさえいなければ……」

「支社長! やめてください!」


 ナイフを振り回す支社長。

 目が血走っている。聞く耳も持っていない。俺を認識しているかすら疑わしい。

 説得は不可能そうだった。


「支社長!」


 肩に向かって振り下ろされるナイフ。


 なんとか見切って、その右腕を掴んだ。

 関節を意識して手首を握り込み、強く捻る。


 ドンッ!


「ガハッ!」


 ガラ空きの左手で腹を強く殴られた。

 酸っぱいものが込み上げてくる。思わず手を離し、尻餅をつく。


「邪魔を……するなァァァ!!!」


 支社長は頭を左右に振って弓削を探し目を向けた。


「ええっ……早くっ……!」


 と小さく会話をしているような声が聞こえた。

 ちゃんと助けを呼べているらしい。


「あの女っ!」


 支社長は腰だめにナイフを構えた。

 俺の方などもう一切見ていない。なんとか視線を動かすと、その射線上には座り込む弓削がいた。


「危ないっ!」


 そう思った。


 身体の節々が痛い。

 それは無理やり立ち上がったせいかも知れない。

 力を振り絞って、這うように走って支社長と弓削の間に割って入ったからかも知れない。


 ドスッ。

 

 頭の中の俺が「あ、刺さった」と間抜けな声を漏らした。

 注射器の針のような冷たいものが刺さっている。

 痛みよりも、熱さを感じた。


 刺されるとはこんな感じなのか。

 自分の身体から血が抜けていくのが分かる。噴き出すというよりは溢れ出すような感覚。目の前が霞む。ぼやけて、真っ白になる。痛い。怖い。痛い。ふらふらと、身体を真っ直ぐに保つことができない。


 以前にもこんなことがあった気がする。


 背中に体温を感じる。弓削だ。彼女を庇ったのだから真後ろに居て当然だ。

「戸塚さんっ!」と涙声の弓削の柔らかさがそこにあった。

 弓削の無事な声を聴いて判断するに、恐らくナイフは貫通して弓削を刺していない。


 遠のく意識の中で、それが分かって安心して力が抜けて、だからこそかもしれないが、そして俺は崩れ落ちた。




 




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