第3話


 紗百合の世界に明かりが差し込み、じんわりと赤みが残った手が目に入る。

 目が覚めた彼女の扉の向こうには思い通りに行かない現実が待ち受けていた。その扉を開けてしまえば夢のような時間も終わり、歪んだ努力もおまじないも全て無駄になるということが理解できた。扉をしめ切ってこのまま閉じこもってしまえばすべてが穢れた病室というガラスケースの中で自分だけが一人止まった時を味わうことが出来るかもしれない、しかし永遠の停滞は彼女を救うことはない。何かを失うわけではなく、何も手に入れることができなかったという事実だけを得る。

 瞼の奥の重みは疲労からくるものでも涙をこらえるものでもなく、まぶしい世界から目をそらそうとする反射的な痛覚、自分の弱ささえも理由がなければ許すことができない彼女に空虚な時間を留めることも外の世界を拒否することも不可能だった。


 そして、コンコンという控えめなノックと共に聞きなれない声が入って来る。


「岬です、入ってもいいですか」

 

 紗百合は背筋が凍るのを感じた。冷や汗が青白い背中をつぅ、とつたい包丁を首筋に突きつけられたかのような生命の恐怖を感じる。それは悪事がバレた子供のようでもあり、自殺現場を目撃された腐った大人のようでもあった。とにかく紗百合にとってこの扉の向こうの女は都合が悪い存在で、可能ならば病院の窓からアクション映画のように飛び出して逃げて消えてしまう程だった。

 心のそこから拒みたかった。長嶋との思い出の沁みついた美しくも汚らわしいこの病室という偽りまみれの幸福に真の幸福者の存在は邪魔だった。全てが壊れ荒廃したとしてもこの空間の中だけは自分に幸せな錯覚を与えてくれる、それすらも奪おうとするのは許せなかった。この部屋に岬が入って来ることは幸福な時間を過去も現在も未来も全て消え去る要素に他ならない。

 それでも、岬を拒むことは出来なかった。それが無駄だということに目をそらせるほどにこの部屋のか弱い王様は愚かではない。


「突然ごめんなさい。あの日の事故の事も……ずっと謝りたかった。本当にごめんなさい。それに、庇おうとしてくれてありがとう」


 岬は身勝手な善意で話をつづけた。それ以降の言葉は紗百合の耳には二割も入っては来なかったが、その内容が自責の念と紗百合の優しさから自分だけが助かろうとする事に耐えることが出来ず大人しく罪を認めて受け入れようと決心したというものだということは分かった。懇切丁寧に心情を吐露してくれていたがそれに聞き入る理由は紗百合にはない。岬がこの病室を訪れ、その扉を開けた瞬間に決まった結末。


 不器用な手でゆっくりと繊細に作り上げられた形の崩れた芸術作品は土足で踏みにじられ、もはやそれに価値を見出した人がいたことすらわからないものとなる。誰から見ても何の価値も無くなったその病室をいとも簡単に崩壊させたのは全てを手に入れても尚清い自分でいることが許された圧倒的な強者。最初から欲しい物をその手に抱え、すべてを得ているからこそ他人の作った繊細な努力作とごみの見分けをつけることができない。

 謝罪と気遣い、真剣に考えてきたであろう岬の演説が苦痛と欲望が染みついていた病室の空間を正常に戻す。外の世界と隔離されていた紗百合の時間は、再び正しいリズムを刻む。その音は歪な幸福に心酔していた紗百合には酷く雑音に感じ、段々と自分の身体と心と世界が乖離していく感覚に襲われる。痛んだ左足では外の世界に踏み出すことも出来ず、腐りはじめた心はもう自分を許すことが出来ない、世界は紗百合に構わず広がり続け、あっという間に孤独を与える。


 そんな世界に、紗百合は立たされた。


 何を話したかは記憶にない、きっと学校では頼って欲しいとか感謝とか謝罪とかご機嫌取りとか、そういった意味のない言葉。やり取りを終えた岬が病室から去ってもその空間はもう紗百合だけのものではなくなっていた。去った者の残り香が酷く支配し、紗百合の静かな吐息だけで埋め尽くせるほどこの世界は小さくない事を知らしめた。




 憂鬱な世界が始まる、眠れない夜は続く。何も得られなかった時間だけをくたくたになるまで握りしめて、歩けない足で立たなくてはいけない。手から零れるほどの劣等感と虚無感に溺れながら、紗百合はページをめくった。

 その本の1ページ目には相変わらずなにも書かれていない。始まりもしない紗百合の恋物語の空白をずっとずっと眺める。いつかここに最初の一行が現れると信じて。


「まぁ、いいか」


 振出しに戻った世界で、紗百合は密かにほほ笑んだ。



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彼女は怪我を「幸運」と呼んだ 寄紡チタン@ヤンデレンジャー投稿中 @usotukidaimajin

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