第2話 


 紗百合が恋に落ちた時、既に長嶋の心は岬のもので二人は校内でも話題になるほどにお似合いのカップルだった。誰にでも優しく正義感の強い長嶋はクラスメイトはもちろんのこと、先輩にも後輩にも教師にも、商店街のご老人や小学生にも好かれる親切な男だった。そんな長嶋が紗百合に向けるそれは親切心や同情のみであり、何一つとして特別な感情は与えてもらえない。


 遠くから彼を見れば見るほど自身と岬の差を思い知らされる日々。それでも彼を見つめることを辞める事は出来ずに半年以上が経ち、アウトプット出来ない片思いは煮詰めすぎて固まったラズベリージャムのように紗百合の中でぐつぐつと燻ぶっていた。ふたを開けるのも一苦労なほどに固く閉ざされて、それでも捨てられない気持ちは一進一退すら出来ない。食べられなくなった恋心を大事に大事にしまってさらに半年が経ってもまだ恋を諦めることは出来ず、始まりもしない恋物語のプロローグをいつまでも期待して白紙の恋物語を何度も行ったり来たりするだけに時間を消費した。

 そんな中訪れた事故は、紗百合にとって心の奥底で燻ぶっていたラズベリージャムを叩き壊すための機械になるかもしれない。事故は紗百合にとって神様からのプレゼントであり骨折した脚は幸運の印に見えるだろう。紗百合は偶然にも手に入れた幸福を全身で味わい尽くした。




 その日、面会時間が終わるまで長嶋は病室に居座った。今まで碌に会話をしたことが無い相手に気を遣うというのはいくら心優しい男子高校生にも少々疲労を感じる事で、帰るときには少しうんざりとする感情を隠しきれていなかったが、紗百合はそれが自分に向けられる唯一無二の感情である限り喜ばしく思った。


 翌日も、そのさらに翌日も長嶋は罪の意識に苛まれながら病室へ足を運んだ。最初は重苦しく感じられた扉も段々と苦痛で無くなり、数日前まで無関係だったクラスとメイトとの会話も徐々に気楽なものになっていくのを感じていた。

 しかしそれは紗百合との距離が縮まっているわけでもましてや紗百合に好意を抱き始めているという証拠ではない。単純に事件から日数が過ぎて紗百合の容体が回復していく事からの安心感、つまりはこの環境への慣れと罪の意識が薄まりつつあるだけである。長嶋にとって事故の罪滅ぼしという毎日のルーティンは確実に彼の生活から彩りを奪い、長嶋は誰よりも紗百合の退院を願った。

 また、紗百合はもう一人の加害者である岬を完全に無関係と扱いながらも、長嶋に対して毎日来なくていい、無理に気を使わなくていいといった発言をすることは無かった。

 紗百合はもし自分からそれを言い出してしまえば本当にそうなってしまうと判っていたからだ、長嶋が見舞いに訪れる理由は罪悪感や責任感、恋人を庇ってくれている事に対する感謝の気持ちからくるものであり紗百合個人への好意はそこには存在しない。今までの学校生活では信じられない程の接触機会、数日間毎日会話をしているのにも関わらず、その度に感じる報われない片思いの感覚は長嶋の心が一ミリも自分に向いていない事を強く意識させた。

 それをわかった上で紗百合は今日も罪悪感を利用し、病室に縛り付けた。それが自分を最も幸福にする手段で、恋愛成就という遠い目標に繋がる今にも切れそうな細く脆い蜘蛛の糸だった。




 そして、あっという間に落ち切った砂時計は、紗百合の幸福な時間を終わらせてしまう。

「さすが若い人は回復が早いですね、予定より少し早いですが明後日には退院できるでしょう。親御さんに迎えの連絡をしておいてください」

 担当医師から発せられたその事実は紗百合にとっては死刑宣告のように思えた。永遠の筈がない、だけども終わることがないと錯覚してしまう程に長く幸せな日々の終点は気が付いたらもう目の前まで迫っていて、日常に帰ってしまえばもう二度とそこに戻ることは叶わない。

 ずっと願っていた長嶋との強いつながりを手にしたにも関わらず、結局彼の心をほんの少しでも振り向かせることは叶わなかった。

 恐らく、退院した後も長嶋は紗百合に対して気を使い優しさを見せてくれるだろう。本人も移動教室のサポートや荷物持ちを既に志願していた。

 しかしそれは今の夢のような環境とは大きく異なり、その傍らに岬が付いて回る事になる。周囲から見て紗百合の怪我に岬が関係していないとしても、加害者が長嶋である以上は同じ女性であり長嶋の恋人、さらに面倒見の良い性格の岬が紗百合のサポートにまわるのは何ら不思議なことではない。岬にとっては今まで出来なかった紗百合への罪滅ぼしが出来る上に周囲からの評価を手に入れることも出来る為、間違いなく紗百合の傍を離れなくなるだろう。そうなれば今のように長嶋と二人きりで会話をする機会は手に入らないのだ。

 二人きりでいるという大義名分を失った学校生活に、仲睦まじい姿を長々と見せつけられ煩悶し続ける日々になんの意味があるのだろう。


 診察を終えて個室に戻った紗百合は夏休み最終日のように思いを巡らす。もう終わってしまう特別な時間、それは引き延ばすことは不可能で、何もせずに浪費するわけにはいかない尊い時間。無駄に過ごした休日を嘆いてもその一日は帰って来るわけでもなく、ただ時計の針が動いている様子を見たり見なかったりでだらだらと過ごしてしまったという事実だけがそこに残る。

 その時間が来るまではどれだけ有意義なに過ごそうと決心していてもいざ浸ってしまうとそこから抜けだせる気力のある人間はほんの僅かで、か弱くて愚かで自分に甘い人間という生き物は目の前の怠惰な幸せに簡単に身を委ねてしまう。これまでの日々の中で終わりが来ることに気付かなかったわけではない、頭ではわかっていてもそれが遠い話の事だと錯覚して現在の幸せを味わうことに集中していただけ。現実から目を背けて曖昧な行動すら起こせなかった、何もできなかった紗百合に現実世界は都合の良いハッピーエンドを用意してくれないのだ。

 終点が見え、現実が頭を擡げることで紗百合が夢のような時間の中に押し込めていた様々な思考がじわりと姿を現した。




 その日の夜は長かった。水の中に沈んだガラスケースの箱の中からは自分がいるのが深い海の中なのか浅いプールの中なのか判別することは難しいように、澄み切った景色の中にある何もかもが紗百合には見えていなかった。ただ周囲はひたすらに暗闇を纏い、遠くに見える明かりが自分とは違う世界の光だということしかわからない。箱の中で小さく呼吸をすると、その空間は自分の吐息でいっぱいになる。大きく伸びをすれば、その空間の中の動きは自分だけになる。箱の中にいる限り彼女は王様で彼女こそがすべて、十分なスペースの箱がこれほどに狭く感じるのはガラスの先に映る水がここよりも壮大だと気付いてしまったからに他ならない。


「あー・・・・・・」


 消灯時間を4時間も過ぎた病院で響く声は彼女一人のもの。その波紋は誰の耳にも届かずゆっくりと消えてしまう。自分ひとりだけ時が止まっているのか自分以外の時がとまっているのか、それとも世界は彼女に構わずいつも通りせわしなく進んでいるのか、彼女にはわからなかった。それを理解するのは簡単なことかもしれないが、理解しようと簡単に思える程に彼女は強くはなかった。自分のしたことが無駄だったのか、努力が足りなかったのか、例えどんな努力をしても意味が無かったのか、考えれば考えるほどにその結論はぼやけてしまう。

 彼女はただ初めて過ごす長い夜をゆっくりと咀嚼し、反芻する。噛んで味がしなくなっても何度も噛み続け、やっと自分の姿を見るだけの冷静さを取り戻した。


 冷静になって見る世界は、思ったよりも静かだった。

 何もない病室に置かれた趣味ではない漫画雑誌は嫌に無機質で、用意された見舞いの品はすべて既に色あせて見えた。言った通り与えられた沢山の品よりも自分で思いついた一つの思いやりが欲しかった、それだけでこの淋しい空間の中は何倍にも彩られていただろう。定型文の謝罪も、大人に言われて用意した見舞いも、被害者に頼まれて持ってきた漫画雑誌も、何一つとして彼の意思で用意されたものでは無い。

 ここで過ごした時間はすべて空虚なにせもので、終わりが見えた紗百合にはさっきまでの幸福な記憶が酷くチープな存在に見えた。でもそれは見方が変わったわけではなく、ただ気付いただけ。最初から幸福な時間なんて紛い物しかもらっていなかった。紛い物の気持ちから僅かな愛情を勝手に見出し、それを薄めて広げてただ自分を励まし眠っていただけで、最初から紗百合の手に入れたすべては贋作だ。

 何も握っていないからっぽの手のひらは彼の手をつかむことすら出来ず、好かれることも嫌われることもない空っぽな善人としての自分が見えた。その本質が悪意や打算に満ち溢れていたとしても偽善行為は世界から見れば善、偽善による打算は本人が利益を得て初めて打算として成り立つ。何も得ない偽善は確かな善意と何ら違いがない。そして彼女は自分の策略を偽善にする事すらできなかった。


 入院初日は実家のモノより柔らかすぎる違和感を覚えていたがすっかり馴染んだ枕を両腕で抱くと、手に入れた幸せに縋りつく惨めな自分の姿がありありと想像出来てしまい直ぐにやめた。

「終わらせたくない」

 ここまで無駄な時間を思い知らされていても尚、彼女の願いは告白ではなく先延ばしだった。それが贋作だと理解していても、それ以上のものが得られる希望は既にない。

 どうせ手に入らないのなら例え意味のない偽物の情でもずっと自分の元へ縛り付けてしまいたくなる。幼いころ何度も描いたお姫様や魔法少女のイラストのように、ただ自分の理想や夢だけを思い描いてそこに行きつくまでの道中は全く考えないような都合の良い世界。それは非常に心地が良かった。

「終わらせたく、ないよ……」

 一度口から出てしまった言葉はその隙間からぽろぽろと零れ、ひた隠しにしていた願望が床に落ちた。

 ささやかで身勝手なその願いは何処にいくわけでもなく彼女の耳に戻って来る。その度に自分の浅ましさを実感し、無力さと何かしたいという気持ちが鬩ぎ合う。それは不公平な綱引きのようにずるりずるりと偏っていく。

 しかし、何かしたいという気持ちが良い方向に昇華できる素質があるのなら最初からこんな夜を迎える紗百合ではなかった。もし自分があの日、彼の事を素直に許せていたら、下心なしに岬のことを心配出来ていたら、今より二人の邪魔にはならなかった。怒りも悲しみもないのに不愉快なフリだけして想い人の罪悪感を煽り、利用し、自分の傍におくためだけに使った結果は浅い思い出以外は何も残らないものとなった。


「それでも私は、まだここにいたい」


 彼女はゆっくりと、か細い両腕で固定された左足を強く握る。彼女と神経を通じ合わせた脚は正直に痛みを彼女の脳に伝える。


「あぁ、痛っ・・・・・・」


 戸惑う指先を強い想いで鼓舞し、さらに強く治りかけの脚を圧迫する。鈍く激しい痛みが全治を目前とした身体に襲い掛かり、ミシミシとどこかが悲鳴をあげる錯覚を起こしていく。

「もっと、もっと・・・・・・」

 その痛みはただひたすらの苦痛で、当然何も得るものがない。それでも紗百合には痛みを感じることで薄まった紛い物の幸福が鮮明に、鮮やかに変化していくように感じられた。自分の苦しみがすべてこの虚像的世界を延命させる種となると信じていればそれすらも快感となる。

 ピアスや刺青に対して親から貰った身体を大事にしない悪人だと考える人は少なからず存在するが、その人から見るならこの瞬間紗百合は誰よりも悪人になる。美しさや個性の為に身体を傷つけるわけでも無く、何の信念も正当化できる目的もなく、価値のない時間の延命の為だけに己の傷口を広げようと躍起になっている。

 それでも紗百合にとってその行為が悪いことや無駄なことだと考える理性は無く、自分の精神を貪ろうとする傲慢さを許容した。

 痛みから零れる声は苦痛と恍惚が入り雑じり、吐き出せないドロドロとした想いと一緒に病室を埋めていく。穢れた願い事で病室が汚れると自分だけが汚いわけじゃないという安心感を得られる。


 痛みと穢れが彼女の縋るすべてで、彼と繋がる脆い架け橋。恋のおまじないとは程遠い愛らしさのかけらもないその行為は紗百合に残された唯一の足掻き。

 それを続ける事で、得られない心と足りない現実を手に入れた気になった。


「痛みを、痛みをもっと・・・・・・」


 苦痛に歪んだ表情で、彼女は薄汚い恋のおまじないを続けた。


 これだけが幸せになれる方法だと信じて。


 おまじないを信じられる程純粋ではないにもかかわらず。



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