彼女は怪我を「幸運」と呼んだ

寄紡チタン@ヤンデレンジャー投稿中

第1話 

 『小西紗百合』と書かれた札を3度確認し、病室の扉をノックする。黄色みがかった白いその扉は長嶋俊樹が若干17年の人生の中で対面してきたどの扉よりも重苦しく感じられた。

 初めて親のいない彼女の家に上がったあの日の扉や、鬼埼とあだ名が付けられるほどに恐ろしい体育教師である岡崎先生に突然呼び出された日の職員室の扉、筆記テストに力が発揮できずに合格が危ぶまれた高校の推薦入試での面接に挑んだ時の扉が軽薄に感じられる程に緊張と罪悪感、得も言えぬ不安を纏っている。野球部のエースとして数々の危機的状況を持ち前の度胸や気合いで乗り切ってきた長嶋俊樹という男をここまで恐々とさせる対象は、扉の向こうで弱弱しく「はぁい」と返事をした。


 一方、返事の主はというと長嶋のノックに一瞬小動物のようにビクつき、今度は獲物が縄張りに迷い込んだ狐のようにニヤリとほほ笑んでいた。その少女は手元にある手鏡で前髪を整え、なるべく弱弱しく返事をする。入室した長嶋はこの部屋の主である少女に対して「小西、本当にわるかった!」と予想通りの第一声を放ち深々と頭を下げた。


 事の発端は一昨日の放課後、恋人と自転車の二人乗りをしていた長嶋がクラスメイトの小西紗百合に衝突してしまったという如何にもありがちで些細な事件だ。運悪く坂道でスピードが出ていたこともあり、紗百合は強い衝撃でコンクリートに身体を打ち付けてしまった。その際の打ちどころが悪く彼女の左足は損傷、現在の入院生活に至る程の怪我を負ってしまった。

 入院はしたもの紗百合の傷は一生を左右する程に大きなものでは無く、これが何の関係もないクラスメイト同士のことならば金と謝罪といくらかの罰則で事は終息しただろう。しかし、幸か不幸か長嶋は紗百合の想い人だった。

 事故のあの瞬間、紗百合は自らの方へ猛スピードで向かってくる自転車に乗っているのが長嶋とその恋人だということを認識していた。坂道の終点を歩いていたのは紛れもなく偶然でそこに手入れの行き届いていない自転車が猛スピードで駆け下りてきたのも全く予想していなかった。

 ただ、衝突の瞬間に彼女の高性能な脳みそは長嶋を認知して硬直することを選んだ。その行動の理由は決して被虐趣味があったわけでも大怪我を負う事で学校生活から隔離されたかったわけでもなく、純粋な乙女心によるものだ。咄嗟の出来事に長嶋への強い想いが抑えきれず、1ページ目から永遠にはじまらない自身の恋物語の開幕を咄嗟に祈ってしまったのだ。そして数秒後に酷く痛む左足と恋人よりも先に此方へ駆け寄る長嶋を見てロマンスの始まりを感じていた。

 結果、左足の骨に軽いヒビが入った紗百合は二週間の入院とその後完治するまでの通院やリハビリを強いられることになった。代償として得られたものは一生想いが届かないと諦めかけていた長嶋との時間、痛み止めと強く巻かれた包帯のせいで自分の身体から切り離されたような感覚の左足を見る紗百合の目は名誉の戦死を遂げて二階級特進した相棒のようにうつっている。

 当然、紗百合のそのような考えを悟られてはいけない。あくまで自分は被害者だというスタンスを守り切る必要があった。故に、頭を下げたままの長嶋に紗百合は無言で返す。幼少期から野球で鍛え上げられた長嶋俊樹という男の頼もしく大きな肉体は何の役にも立たず、自分の脚で立つことすら出来ないクラスメイトの言葉にただ申し訳なさを感じるだけだった。


 紗百合は長嶋の罪悪感をより増幅させるための仕掛けをひとつだけ撃っていた、それは紗百合の善意により長嶋の恋人をこの件から無関係にしようと口裏を合わせる提案をしたことだ。傷害でもない偶然が重なった事故の場合、被害者の紗百合さえ大人しくすれば長嶋の野球推薦や今後の人生に汚点になることはないだろう。紗百合本人も愛する男が自分のせいで苦悩する姿は見たくない。

 しかし長嶋の恋人である岬は品行方正の所謂優等生、勉学の真面目さは当然のことだが教員等からの信頼を得ることで大学への推薦を狙う強かさのある女性だった。そんな人物でも女子高校生である以上学校を出れば恋人と浮かれてしまうのは無理もなく、人通りの少ない道での二人乗りという過ちを侵してしまった。一度や二度の注意なら彼女の優等生としての顔に傷がつくことは無い、しかし無関係な女性を事故に巻き込んでしまったとなれば話は別、事は大ごとになり今日まで気づき上げてきたイメージが崩れ、推薦の話が危ぶまれてしまう。

 そのような状況の人間にとって被害者からの「あなたは逃げてください」という言葉は聖女からの救いの一言に思えただろう、加害者である自分の愚かな過ちを赦すだけでなくその人生に傷がつかないように機転を利かせ庇ってくれたわけだ。

 それは恋人との交際を真剣に考え、お互いの将来を強く見据えていた長嶋にとってもまた、願ってもない提案だった。同時に、こんなにも心優しい娘を二人乗りという浮かれた行為で傷つけてしまった自分を酷く責めることになる。小西紗百合の為にできることならなんでもしよう、そう考えるに至るまで時間は要さなかった。しかしそれは、全て紗百合の思惑通りだった。



「小西、本当にごめん。俺、なんて言ったらいいか……」

 ここで岬にまで病室に来られては無意味だ。紗百合は予め加害者である二人に対して関係者は長嶋だけと言い張るためにもお見舞いに来るのは長嶋一人だけにしてほしいと先手を打ってある。それを言葉のまま正直にとらえた長嶋と岬は自分の恋人を庇ってくれる心優しいクラスメイトの為にこうしてのこのことお見舞いに訪れた。

「学校終わったら毎日来るから、欲しいものがあったら買ってくる。退院した後もカバンとか持つし、小西が完治するまで奴隷だと思ってくれていい」

 片想いの相手からの奴隷という発言に紗百合は無意識に一種の心地よさを感じて恍惚とした表情を浮かべた。彼女自身はどちらかといえば強引にリードされて振り回されたいマゾヒストな性質だと認知していただけに反射的な自分の反応に少し驚いた。目の前にいる自分よりずっと背が高くガタイのいい男性がまるで何の力も持たない子ウサギのようにこちらの機嫌を伺い、自らを下げて隷属を誓う様子は多感な時期の紗百合を少しだけその気にさせた。

「全治二週間、だって」

 紗百合は冷たく言い放つが、内包する感情は異常なまでに熱いものだった。

 表面上では冷静に且つ弱弱しく、儚く健気で心の美しい少女を演じつつも腹の中は踊るような煮えるような激しい喜びや達成感や期待に満ち溢れ布団の下では動かない足を白鳥のようにバタ足させてしまいたいほどの想いが混在している。水上の大人しい白鳥しか見えていない長嶋は紗百合の心情を感じることは出来ず、相変わらず罪悪感に心を痛めながら頭を下げている。

 そして、長嶋の口から出た言葉は紗百合の気持ちに対して勘付いていないという証拠ともいえるものだった。

「小西の言う通り見舞いには来れないけど、岬も凄く心配して……」

「やめて」

 ぴしゃり、と静かな湖に突然投げ込まれた何かの塊は二人きりの静かな病室に波紋を呼んだ。その波紋はじわじわと大きく広がりいずれは誰かの目に届くことになるが水面の波紋を見ても投げ込まれた何かの形を知ることは出来ない。

「・・・・・・長嶋君。岬さんの話は、やめたほうがいいよ。偶然誰かに聞かれたら困るでしょ」

 塊を投げ込んだ当人が湖から取り出したのは偽物の小石だった。真実は深い湖の中に沈み、投げた本人の他に誰もその真の姿を見ることは許されない。きっとこれから二週間、この病室では何度も正体不明の塊が投げ込まれることになるだろう。

「そ、そうだな。その、ありがとう。気遣ってくれて」

「いいの、私が決めたことだから」

 無論紗百合は自分の目的を明かさない、全てをさらけ出してしまえばこの男は離れて行ってしまう。自分はあくまで善意の被害者で、可哀そうな存在でなくてはならないのだ。恋人のいるこの男を自分の傍に置くために出来る見苦しく痛々しい演技をする決心はする必要もないほどに万全だ。

「そうだ、これお見舞いの品なんだけど・・・・・・良かったら食べて」

 取り出したのはメロンや林檎などの果物で彩られたプラスチック製のかご。本来なら二週間の骨折程度で貰える品では無いし、ましてや高校生のお小遣いで購入するお見舞い品には不自然なまでに高価なものだ。後日改めて謝罪に来るらしい彼の母親が持たせたということが容易に想像できる。

 もし長嶋の母親が病室に来たらどのような態度をとろうか、と紗百合は悩んだ。長嶋という男の性格を知る限りには両親には事件の真相を話すだろうし、謝罪に来るだけの常識があるのだから今回の件は二人の交際について少し厳しい目を向ける機会になる筈だ。

 もし、より息子を溺愛するタイプの親だった場合なら上手い言いくるめをしてこちらの味方になってもらい、あわよくば紗百合自信を新たな恋人としてプッシュして貰うことも可能かもしれない。他人の親との面談にこれ以上ないほどの期待に胸を膨らませる紗百合に対し、長嶋は無能にも機嫌を取ることしかできない。

「小西の好きなものとかわからなかったから今日はこれだけなんだけど、食べたいものとか読みたい本とか教えてくれたら明日は買ってくるからさ」

 好きな人が自分に興味を持ってくれることの幸福感に身を浸しつつも、紗百合は自身の恋を進めるための最適解を選ぶ。

「私の好きなものはお母さんが持ってきてくれるし・・・・・・そうだな、長嶋君のおすすめの漫画とかあったら持ってきてほしいかな」

「俺の好きな漫画って少年漫画っていうか、バトルものとか野球漫画だけどいいの?岬もつまんないって言ってたし、女子が喜ぶようなものじゃ・・・・・・」

 先ほどと同じく忌まわしき恋人の名前が出るが、今度は紗百合の口元に小さく笑みがこぼれる。現恋人の岬は長嶋の趣味への理解はない、という事実を知った随喜の笑みだ。

 人間が親しくなる際に最も重要とされる共感という関係性、少なくとも漫画の趣味に関しては持っていないという良い情報を得た。恋人は理解してくれない自分の趣味を肯定し、一緒に楽しんでくれる女友達という立場は虎視眈々と長嶋の彼女の座を狙う紗百合にとって現実的に手に入る最も得たいものになる。

「少年漫画かぁ。読んだことないけどちょっと興味あるし、だめかな?」

「いや、もちろんOK!そんなのでいいなら、明日おすすめの漫画持ってくる!学校には持っていけないから一度家帰らなきゃだけど・・・・・・なるべく急ぐから」

「危ないからゆっくりでいいよ」

「あ、そ、そうだな。安全運転で来るよ」

「うん、待ってる。・・・・・・病院は退屈だから」

 学校内ではあいさつ程度にしか会話できなかった紗百合がここまで朗らかな気持で喋る事が出来るのは被害者と加害者という強い力関係を得たからに限る。

 野球に、恋人に、全力の愛情を注ぐ長嶋の事を遠くからずっと見てきた紗百合にとってその時間は一瞬に思える程の幸福な時間だった。

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