第9話 黄昏の地平 陽炎の大樹 再会に滲むは
低く甘い声の囁き。
草の匂い、誰かの匂い。
楡の枝に 留まれよ
せせらぎに 歌えよ
ほうら
高く囀れば
愛し声が 応えよう
──あぁ歌だ、とグトリの意識は浮き上がった。但し、目は
己も歌わねば、歌うのだ! と血潮が逆流するような衝動に駆られる。
高く、高く! 腹から胸へ、喉へ唇へと旋律を綾なす術があったはずだ、覚えているはずだ、と体から声が込み上げる。
「う……うぅあぁ」
だが何度息を吸えど、声を上げようとも、歌にはならない。なんと醜い声の響きか、と己の声を耳にし、グトリは絶望した。
「起きたか」
不機嫌な何処かで聞いた声に咄嗟、顔を向けようとし筋肉が引き攣った。
「ありがたく思え。助けなければ死んでいた」
誰か傍に寄る気配。
彼は目脂を無理に引き剥がし、何度も瞬きを繰り返して漸く、声の主を見つけた。
「おあ……あ」
数日前、永遠に別れたはずの雄を確かに認め、彼は脱力し再び目を閉じた。見知った相手が傍にいたからでは無い。相手が雌で無かったこと、どうやら夢であったことの安堵の為にだ。
キーリェはそうと知らず──体の痛みに屈したか、と──軽く鼻を鳴らすと、彼の顔に湿った布を叩きつけた。
「うぁあ」
「お前、汚すぎる」
グトリの放つ悪臭を彼女は一蹴せしめんと、彼の顔を擦り始めた。
「ぁえ……おあぁ」
グトリは唐突に湿った布で鼻が塞がれ、禄に息も出来ぬまま顔中が擦られる有様に、ただ喘ぎ続けた。最後にギギ、と両目を強く擦られ、不平の呻きが漏れる。しかし顔を蹂躙した布が離れた瞬間、肌をさら、と風が心地よく乾かした。
彼は思わぬ清涼感に息を吐いた。旅を始めてから顔を洗ったことがあったろうか、と彼は目蓋を緩慢に、だが円滑に開閉した。
「まぁマシになったか」
と、キーリェは晒した白い鼻に、皺を寄せた。
「彼に水を」
グトリの知らぬ掠れた声が響いた。
誰だ、とグトリは警戒に体を起こしかけた。だが案の定、怠さと痛みが走る。吹き抜けた風が額に浮かんだ汗を冷やした。
「私はズクゥ。顔を見せられないのを許しておくれ。我々が見つけたとき、君は酷い熱を出していた。だがもう大丈夫だろう。ただ、外套と布を拝借しているよ、3人分の天幕の為だ」
グトリは名乗りと案外穏やかな声に、やや警戒を解き、目だけで周囲を見回した。確かに昼間のようだが忌々しい陽射しが目を灼かぬ、と納得する。何れにせよ体は動かぬ。
そして外套、と言葉をなぞり、彼は三度目ハッと身を起こしかけるも、やはり呻き声を上げる他なかった。知らぬ間に、耳元で靴と草の擦れる音を聞く。
「安心しろ、お前の大切な物は無事だ」
何故何処に、と彼が半ば苛立ち不明瞭な声で応えたとき、キーリェは唐突、その黒い唇に水筒を当てた。静かに傾ける。
「未だ臭いな」
悪態と同時、グトリの黒い唇が緩やかに濡れた。
僅か隙間から歯列を滑り、口内へ水が流れ込んだ。それが遂に舌に乗り、喉に滑り込んだ刹那の安堵と歓喜と謂ったら! あぁ足りない、もっと、と彼は視界のキーリェに必死に視線を動かした。
だが願いは叶えられず、無情にも水筒を取り上げられる。グトリの舌が物欲しげにそれを追い、戻り際に未練がましく己の唇を舐めた。
その間キーリェは、至極面倒な顔で革袋を開き、中を探った。次いで、未だ入り口を彷徨っている彼の舌に、小さな干し果実を押しつける。
「ほら、これ食え」
グトリは食え、の言葉に恐々それを舌で
暫し後、キーリェはまるで雛鳥を相手にする如きの給餌に、ズクゥへ心底面倒で胡乱な視線を投げた。力ない微笑みが直ぐさま返る。
瞳に強い力が戻ったグトリとは対称的、今やズクゥの黄色は高熱で溶けそうに濡れている。
こんな男、放って置けばいい、と何度主張したか分からぬ言葉を、キーリェは胸へ無理矢理押し込めた。乱雑に餌を放り、鬱血したような空に陽の沈む様を眺めた。
小さく
続く
春楡に歌えよ micco @micco-s
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