第8話 何の声にか応えよう

 ズクゥは星も陽も必要としなかった。風と匂いが往くべき場所を教えてくれる、と迷い無く前に脚を出し続けた。

 キーリェは彼の歩みをただ見守り、背を追い掛ける。

 徐々に身を膨らませる月の下、星の瞬きの下を夜通し歩き、朝の訪れと共に眠る。

 目を覚まし夕闇を待つ間には干し物と水で腹を満たしながら、ズクゥが物語りをする。キーリェは得物を腰から抜き、脚を伸ばし腕を風に晒してそれを聴いた。


 彼の生い立ち、旅の経路、二つ足達との出会いと別れ。旅の往路で世界の変わっていく──住む者の在ったムラが廃墟へと変わる。川が涸れ、草原が荒野に。荒野は陽を遮る石ころひとつ無き地平と成った──様子を語った。

 幾年も巣に根を下ろした、老ケファの深く滾々こんこんたる知の泉とは異なる物語り。風が常に葉を揺らし、荒野を吹き抜け山を渡るが如く、彼の知識は何処までも広い。

 時には己の若さゆえの求愛行動過ちを教訓とし、女であるキーリェへ諭すこともあった。

 自由自在に彼等の髪覆いを揶揄う風の如き物語りは夜の帳で閉じられ、後には正確な拍を損なった遅滞する歩みが尾を引く。

 キーリェはただ、その背を越さず追うのみ。


 西の春楡を目指して三つ夜、月が隈無く、益々と銀を降らせる夜。

「あれは」

 ズクゥが脚を止めた。彼がキーリェを見上げると、銀が彼の光彩に流れ込んで鮮やかな黄色の輪に変化する。縮む黒が二点、彼女を貫いた。

「誰か倒れている」

 ハッと、彼女は先方に目を凝らし、駆け出した。

 背後の脚を引き摺る足音が遠ざかる。己の足音のみが銀を蹴散らす感覚。風が彼女の背を追い、速度が増す。

 だが未だ見えぬ、と再び目を凝らした刹那、キーリェはギクリと息を呑んだ。

 ──何故己は助けねば、と駆けるのか。何故、素性も分からぬ者の為に息を切らしているのか、と。

 巣から外れた者は野垂れ死んでも仕方の無い世界。巣に棲む者が旅鳥に水を与えるのは、四つ足が死者を求めて巣に近づいては困るゆえ。

 他の者の死など構うことではない、と駆ける己を己が諭した。

 砂を強く蹴っていた彼女の脚は速度を落とした。それは葛藤ゆえか、地に伏す影を視界に認めたからか。晒したこめかみから汗が伝い、顎を濡らした。忍ぶように近寄る靴底には、丈のあるまばらな草の感触。

 キーリェは既視感に眉をひそめた。

 柔らかな銀の光を以てしても、頑なに透さぬ黒が這いつくばっていた。うつ伏せにはみ出した横顔は硬く、特徴的に配置された黒が彼が何者かを、キーリェに教えていた。

「またお前か、トウヘンボク」

 声は彼に届かぬまま、風が西へ連れて行った。



 続く

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