第7話 旅鳥の大樹に寄るは 

 朝陽が荒野に色をもたらす。 

 長らく纏った闇が足元から這い出す頃、ズクゥは陽に瞳孔を点に縮め、キーリェを見上げた。

「悪いが仮眠をとりたい」 

「あぁ構わない」

 キーリェは心積もり──相手は夜に生きるさがゆえ、日が昇ればこの行軍も中断となろう。恐らく長い休憩をとる為、この油断できぬ男は天幕を所望するかも知れぬ──から短く返答し、直ぐさま支柱に布を張り始めた。

 合間に視線を投げれば、彼の白髪交じりの茶髪は汗でしとど、雫が連なり垂れる。半ばぼうと溶ける黄色の光彩に、尋常で無い疲労。

「使うと好い」

「恩に、着る」

 地を切り取った影に半ば崩れる如く、ズクゥは片膝を突いた。ウゥ、と低く息を漏らす。丈も肩幅も合わぬ土色の外套を脱げば、砂の上に荒く横たわった。

 

 陽を遮ることに注力した天幕は垂れ布が寸足らず、影は広くとも身を隠せる代物では無い。吹き抜ける熱風が天幕を揶揄えば、伏した彼に砂埃を降りかけ去る。

 キーリェは彼の強いトリの特徴──頬に大きく避けたような唇と腕を覆う羽毛に似た体毛。幼く見えても毛艶からして初老か──を盗み見、荒野ではさぞ生きづらかろう、と目を逸らした。

 ズクゥはヒュケファ──かつて旅鳥の宿りであり、此の地の最後の春楡エルム。西の水場の東、荒野と草原のあわいに今も青く立つ──への同行を彼女に願い出た。3日の距離、歩みの確かな夜行性の二つ足からの依頼。余りある水を報酬とするにはキナ臭い。

 だが、初対面の者の前で無防備に寝入る、その疲労は如何ばかりか。

 彼女も酷い疲れを感じ、日陰へ進んだ。

 警戒するに越すことは無し、と装束を解かぬままに座り込む。脱水と飢餓の懸念がなくとも、気が休まらぬ、と脚も伸ばさぬまま。


 知らず胡座で寝入ったキーリェは、重く目蓋を上げた。玉の汗に目眩、干上がった喉でゴクリ、唾を飲み込む。

「……嬢さん暑かろう。安心して薄着になりなさい」

 唐突、うつつに呼び戻す声。彼女は咄嗟、取り繕えず肩を揺らした。

 伏していたはず、とキーリェは己の迂闊さに舌打ちした。髪覆いの隙間から明瞭とした黄色光彩に浮かぶ瞳孔の伸縮が、彼女のをひたり、捉えている。

「俺は男だ」

 反応の遅れに内心で歯噛みし、キーリェは低く唸った。同時、相手の身を起こす動作に湾刃の柄を鳴らす。

「男ならば尚更、と謂うには君は美しすぎる」

「フンッ」

 キーリェは盛大に鼻を鳴らした。知性は間に合わず悪態が口を衝く。

「莫迦か!」

 彼女は今すぐ髪覆いを外し、蒸れた長髪を掻き毟りたい衝動に駆られた。だが頬から項から赤く染まった自覚に、それも叶わぬ。

「君が倒れれば、私も困る。その外套くらい脱いではどうか」

 ズクゥは彼女の返答を待たず、荷を探り水袋をもだして差し出した。

「……荷を奪わぬ君の良心に、感謝を」

 キーリェは未だ覚めぬ熱を誤魔化すよう、水袋を引ったくった。


「私は旅鳥。北の山を越えて此の地に戻った」

 充分な水にキーリェの情緒が地に着いたのを見計らい、ズクゥは微笑みらしき表情──口が裂け、瞳孔が小さい為、少々不気味な趣──で語り始めた。

 覆いの垂らし布を捲り上げ、その緑の双眸を晒した彼女は、北の山、と薄紅の唇を震わせた。

「山の向こうから、何故」

「旅を棲み家とせよ、往けと。私の中のトリが騒ぐ。大樹を目指し、羽が無ければ歩き続けよ、と」

 キーリェは驚きを隠しもせず、目を瞠った。老ケファに対すると似た、憧憬の念が急速に湧き上がる。

「貴方はトリを、知っているのか」

「勿論。我々の祖先であり、今は絶えた哀れなる種」

 知らずに生きられようか、とズクゥは己の肌を撫でる。その労りの滲む──厭わしさの一切無い眼差しに、彼女は困惑した。自然、伏せた先は青い血管の浮く皮膚のおぞましさ。

「では何故、私を頼った。天幕を持つからか」

 彼女は、抗えぬ苛立ちに声を震わせた。彼を生きづらかろう、と哀れんだ己の傲慢に、だ。

 ズクゥは己の左足の裾を、長靴から引き出した。自嘲を唇に含ませ、羽毛に覆われる左足を彼女に晒した。

「毒蛇に」

 捲り上げた瞬間、傷の爛れ化膿する臭いが立ち昇った。キーリェは咄嗟に鼻を手で覆い数瞬、彼への無作法を恥じ、手を離した。折り好い風が臭気を攫えど、それも一時のこと。

 布切れをきつく巻いたすねは膿が染み、それより上も凝った血が皮下に滲み、下衣の裾を裂かねばそれに押し込めておけない程腫れ上がっていた。

 脚の乱れはこれか、と彼女は気づかなかった己に罵りの言葉を呟く。

「水で……手当を、ズクゥ」

 しかしズクゥは破顔した。

 如何にも嬉し気に目を細め、裂けた唇を大きくけ。

「私の旅は此の地で終わりだ、嬢さん。美しき良心すら持ち合わせた君との出会いを、私は春楡に感謝せねば。どうかこのまま同行を願いたい」



 続く


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