第6話 対する影に星芒は届かず
微かな足音にキーリェは目を覚ました。
無作法な二つ足と異なる脚運び。四つ足だろうか、と身動きはせず息だけを詰めた。寝る前に着込んだ旅装束が音を立てぬよう得物に触れる。静かな、しかし僅かに乱れのある足音は再び、更に天幕の傍。
彼女は布の切れ目から素速く月の位置を見──既に空に無い、動きを気取られぬよう敵か否かと目を凝らす。
ひと足に、確かな迷い。
刹那、キーリェは布を勢いよく捲り上げ、闇に透けぬ塊──靴先か、距離を取るよう転がり出た。砂が盛大に巻き上がり、彼女の装束は黄土色に染まったろうが、星の瞬きだけではそうと判らない。
キーリェは短い湾刃を抜き、腕三本先、微動だにせぬ相手に構えた。刃は片膝立ちの彼女をしても確かに鼻面を捉えていた。星影にも瞳孔を黄色に縁取り光る眼を頼りに。
月の沈んだ未だ夜の明けやらぬ荒野の空気は、暗く深く冷えたまま動かぬふたつ影に、暫し張りついた。
沈黙は相手が破った。
「頼みがある」
キーリェは眉を上げた。髪覆いの隙間から見える塊は、声からして成人の二つ足と知れた。先程の朴念仁よりは高い声だが男か、と彼女は鋭く相手を睨んだ。
「寝込みを襲って、頼みとは図々しい」
「欺くつもりは毛頭無い。礼はする」
頼みがある割に油断なく窺う様子の相手は、背負った荷を下ろしたか、彼女の足元に何か放った。間髪入れずまたひとつ。
「水と食糧だ」
莫迦な、とキーリェは鼻で笑った。但し耳に届いた重みは確か。それだけに頼みとやらを安易に聞いてはならない予感を伴わせた。
「私はズクゥ」
「待て」
キーリェは話を遮り、鋭く舌打ちすると刃を収めた。闇に浮かぶ黄色のふた輪が彼女の出方を窺う。
「了承しかねる」
名を明かすなど余程厄介な事情だ、と彼女は立ち上がり言い放った。巣を出た二つ足が名を呼ばれたがるのは求愛か看取りに他ならない。
「君の水筒は殆ど空だろう。水の音が無かった」
声は静かな確信を以てキーリェに届いた。対して彼女は、己の胸程しかないズクゥを不躾に見下ろす。
闇で光る瞳、研ぎ澄まされた聴覚、そして微かな足音、低い背は夜に強い二つ足の特徴。
相手は諭すようにキーリェに語りかけた。
「ここから放射線状の2日、泉も川も無い。最も近いのは西。次は北」
「……東は」
「知る限り、無い」
「保障は」
「行ってみよ」
まるで彼の老ケファの如き静けさ。彼女は内心歯噛みした。西の水場とはキーリェが3日前に水を汲んだ場所に他ならなかった。
北へ向かってから東へ下るか、いや此奴を信用するかどうか、と彼女は目まぐるしく思考した。心許ないのは水筒だけでは無い。
「中を検めさせてくれ」
響きに微かな険。しかしズクゥは肯いた。
「好きなように」
キーリェは相手から目を離さず彼の放った袋を蹴りつけた。靴先に重い弾力、同時に溺れるような豊かな水音。まさか、と眉を顰める。
瞬時に跳躍できるよう注意を払いながら、彼女は手探りでそれに触れた。背負うには重すぎるはずの代物は、その揺らぐ音のみで彼女に喉の渇きを自覚させた。よもやこぼさぬよう袋を開き、僅か含む。舌に乗る甘みは、紛うこと無き水。
「話を聞こう」
キーリェの眇めた視線の先、内も外も闇に縁取られた黄色の光彩が満足げに歪んだ。
彼女はもはやもう片方を検めはしなかった。袋の口が緩んだのであろう、干した果実の芳香が睨み合う二つ足達の鼻をくすぐっていた。
西の
此の地に残る最後の
星の褪せる荒野を、ふたつの影が迷わず西を目指し始めた。
続く
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