第5話 二つ足の女
月が途切れ無く銀を降らす、煌々と。
岩陰に張った簡易の天幕でひとり、キーリェは髪覆いを外した。纏め上げていた朱色が汗を含み、肩を強かに叩いた。酷い匂いに皺を寄せ、小さく悪態を吐く。
グトリと別れ、キーリェは夜半を過ぎるまで東へ歩き通した。
ゆっくりと底の厚い長靴を脱ぎ、細く白い
強張った脚を撫で水に浸したい、と思考した瞬間、あの不愉快な男が目蓋を掠めた。間近で見た水に濡れた唇、先祖返りの黒い目元。
「白痴め」
恥を知れ、と罵りたい衝動を抑え込んだ。
幾ら荒野と謂えど、捕食される警戒は怠れぬ。図体の大きい者なら兎も角も、キーリェでは四つ足にも勝てるかどうか。
気配を消すに越したことは無い。
「くそ」
ぞんざいな手つきで髪を1度解き、再び緩く結わえる。逡巡し、外套も上着も脱いだ。砂と汗が擦れ今すぐにでも水で拭いたい、と水筒を持ち上げてみるも、重さを殆ど感じなかった。
何処ぞで野垂れ死んでしまえ、と衝動的に暑苦しい首元の紐を外しかけた。だが不意に、彼を助けた理由を思い出す。
ただ一瞬触れた、小さな卵の温もりを。
『二つ足は事実母親の抱卵でのみ孵る。例外は無い』
キーリェの耳に、懐かしい
純粋なる二つ足の女は男の求愛を得、選定し、次代を産む。発情と繁殖は条件の良い求愛によって可能となり、速やかに交尾、産卵、抱卵を行う。雌雄で育て、約2ヶ月で子は歩く。半年後、独り立ちを迎えれば、女は次の繁殖へ。
円熟した文明の危機と再興は、過去、人の種を残す為に
「おぞましい」
キーリェは
幾度と無く吐き捨てた自らへの罵倒。
「おぞましい」
彼女は、己が二つ足の女であることが最もおぞましかった。
巣の老
既に巣は飽和状態──二つ足はムラ程の集団で生活をするが、夫婦ないし個人の土地に対する縄張り意識が酷く強い。また、二つ足同士の交配の進んだ巣では、子どもは成人まで十余年を要する場合もあった。
運良く死者でも出なければ、後から生まれた者は巣から出なければならない。
じり、と荒野は山裾を浸食し続け、行き場は遠く地平の先。
生まれ住んだ巣の他に生きる場所はあるのか、出た者が戻ったことは無い。
あの卵は孵ることはないだろう、とキーリェは首元を緩めた。子が孵るには女の抱卵が必要──祖先に人の胎生が強く出たためと老ケファは謂ったはずだった。
老ケファは、己を厭う彼女に知り
『食べ物を求め、暖かな寝床を求め、我々の祖先は旅をし続けた鳥も在った』
老ケファの嗄れた低い声。慈愛に満ちた白に縁取られた瞳。
『東の果てに、どこまでも続く地平を一掴みにした場所が在った』
「其処を見てみたい」
『往けよ、旅鳥よ』
彼女は誰を伴侶とすることは無い。何処に巣を求めることも、無い。
自由な旅の果て、己の種を残さず土に還る為に、彼女は巣立った。
「俺は男だ、……か」
いいじゃないか傑作だ、とキーリェは自嘲にその黒い瞳を眇めた。
彼女はぶるり、とひとつ震え、天幕を
月は鈴を鳴らすよう、ただ銀を荒野に降り撒いていた。
彼女の白い肌は、暫くの間、その銀に灼かれていた。
続く
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