第4話 陽は中天 影も引かぬ離別

 グトリは「オトコ」と呟いた。太く走る黒いラインに配置された切れ長の瞳は、こぼれ落ちそうな程キーリェを見詰めている。

「そうだ他を当たれ」

 キーリェは見るな、と言うように体ごと顔を逸らし、グトリに背を向けた。その布に覆われた背に、彼は呆然と言葉を返した。

「オトコは、卵は抱けないのか」

「は?」

 キーリェは布で覆ったうなじが、陽射しに晒されたように赤く、熱く染まったことを自覚した。髪覆いを外していたら、見事な朱色の髪は酷く逆立っていただろう。しかしグトリは、何の濁りも無い黒目でキーリェの返事を待っている。

 白痴か変態か、とキーリェはぐ、と1度喉を詰まらせ答えた。

「悪いが俺の巣では女が卵を抱いた。他の巣のことは知らない」

「そうか。ではお前のスに卵を抱けるオンナはいるか」

 キーリェは今度こそ怒りで低く唸った。目の前の朴念仁を千々に切り裂いてやろうか、と腰の得物を探る。

「いないのか」

 対するグトリはキーリェの様子を誤解したか、目を伏せ僅か項垂れた。先程湧いた気力が萎え、回復しきっていない体が崩れ落ちかけた。彼は必死に体を支えなければならなかった。晒された鼻先から暑さに流れた汗が滴る。

 地に落ちた滴は砂に跡も残さない。陽は頭上へ昇り、あらゆる物を干上がらせようと盛んに照る。

 キーリェは小さく汚い罵りの言葉を吐き、腰から手を離すと三度目、彼に背を向けた。大きな布袋を背負う。

「俺は東に用がある。春楡エルムに良き風が吹くように」

 キーリェは、白痴とて同族よ、と幸運の風を願った。生きづらかろう生を長引かせるいたずらな情をかけた、詫びでもあった。歩き出す。

 グトリは黙して、振り返らぬ小さな背をただ、見送った。呼び止めはしない、相手は雌では無かった。グトリはオトコもオンナも知らぬ、雄と雌の区別のみ知っている。彼の旅に目的地は無く、その歩く方角に根拠も無かった。

 ただ、卵を孵すことのできる抱卵できる雌を探していた。

 不意に、目蓋に汗が差し、彼は瞑目した。

 行き倒れた雌の『まだ』『この子を』と、事切れる寸前の声が脳裏に響き、グトリの胸は苦く震えた。

 卵はまだ、生き孵る。しかし雄では──グトリでは孵らない。

「母親を、雌を」

 グトリは雌の二つ足に出会わなければならない、と再び念じた。例え己と伴侶とならずとも、とグトリはキーリェを思い出し奥歯を噛みしめる。何の衝動にか呼吸が乱れた。

「まだ、生きよ」

 それは卵にか己にか。彼は喉の渇きが息を乱すのだ、と理解し、進路を西に変えた。遠ざかる姿に背を向け。

 風があの甘い声の残滓を留めたか、彼の黒い唇は酷く歪んだまま。

 陽は既に中天に届き、立った陽炎で風すら茹だる中、グトリは重く靴底を擦った。


 幾度目か、夕闇がグトリの肩に落ちようとしていた。

 歩き続け、漸く足元に産毛程の草が生える土地へ辿り着いた。時折、水の匂いが風に混じるが方角までは定かでない。既に鼻も利かなくなっていた。

 刻一刻と汗が全身を冷やし、脚の付け根を酷く刺す。グトリは己の不調を感じ取っていた。この汗が引けば、高熱が返すことは間違いなかった。

 彼は立ち止まり、夜目の利かぬ質を永遠に呪いながら、どろり目を上げた。

 地平線の遠く丘陵を見た。紅く血を透かした空に僅かな奥行き。

「あぁ」

 山か、森か。

 彼処あそこに二つ足が棲むはず、とグトリは閃きに瞳孔を開き、しかし倒れ込んだ。直後、既に彼の意識は無い。

 丈の短い種々くさぐさが頬に柔らかく触れ、彼の汗を受け止めては土に還した。



 続く

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