第3話 二つ足の男
キーリェは苛立ちに、ひとり悪態を吐いた。
間髪入れず、やけに厚着の二つ足──グトリを蹴りつける。負わされた些細な傷もそうだが、キーリェには他にも彼を糾弾すべき理由があった。
手の甲に僅か痺れが走り、大きな瞳を怒りに歪めた。鋭く舌打ちする。
「髪を見られた」
キーリェの巣──二つ足の荒廃した文化世界では、ムラ程の規模の集落全体を、巣と呼ぶ場所もある──では、髪は雌雄関係無く、家族以外には見せてはならぬ、と教えていた。巣を出ると決まってからは、髪覆いは寝台でのみ外す物になった。
それをこの男は、見た。
己の影が重ならぬよう、キーリェはその深緑の瞳でグトリを
彼は頭から足まで黒に生まれついたらしい。先祖返りか、と特徴的な外見に見入る。
褐色の肌。目元は黒く──こめかみから両目を含め、顔を横断するような黒く太いラインが走っている──唇も同様に黒い。原始的な二つ足特有の目つき。栄養状態が悪く、骨格は大きいが細身だ。覆いからはみ出す黒髪は、皮脂と砂汚れで絡まり固まっている。
外套、髪覆い、上下の衣服は全て拾い物か、丈が合っていなかった。朽ちかけた布を幾重にも外套の下に入れ込んでおり、腰には刃物か何かを携えている。夜だけならともかく、灼熱の荒野を往くには軽装過ぎた。
よくもまぁ生きている、とグトリの無防備な呼吸に鼻を鳴らした。片膝をつき、顔を寄せて数瞬。砂の張り付いた髭面から目を逸らす。不衛生な男は嫌いだった。
「ふん」
朝まで放っておけば、脱水で死ぬ。
キーリェは月の透明な銀の下、グトリの外套に手を伸ばした。
死人となれば、何も必要なかろう、と。
グトリは川で行水し、浴びる程の水を飲んでいた。
顔中を濡らし、心地よい風を受ける。
ザワ、と針葉樹の葉が擦れ、深い緑の匂いに包まれる。
──いやこれは夢だ、と胸の内で理解しながら、彼は周囲をつぶさに見詰め、水の甘さを味わった。
懐かしい浅瀬の河畔林。
物心ついた頃から棲まった
枝に干した獲物。水の張った大瓶。
土に還った父の
彼が旅に出た日のまま、その風景は柔らかい陽射しと豊かな緑に溢れていた。
ただ、空だけが血のように紅い。
今に夜が来る。
ふと、寒々しい荒野を思い出し、グトリは震えた。
ひとりでに動き始めた視界は、林を抜け、草原を進んだ。
時折マチの残骸や錆にまみれた建造物で夜を過ごす。
蛆の湧く死骸や、集落の廃墟、風化し朽ち崩れる骨塚の丘を越えた。
卵を初めて胸に抱えた夜。
そして、砂と石の広がる荒野へ。
灼熱、砂礫、夜寒、そして再び灼熱の地平。
いつか眼前に萌え出づるように現れるはずの、緑の土地を目指し、グトリは歩き続ける。二つ足に会う為卵を孵す為、と念じるまま顔を打つ砂礫に目を細めた。
「まだ」
ひたすら足を交互に出す。
いつしか体は重く、喉は渇いて汗が引っ切り無しに背を伝った。
暑さにか寒さにか外套を掻き合わせる。
彼の脳裏に月を背にした朱が散った。
夢か現か、眩んだ。真っ白に変わる視界、目蓋の裏。
沈んでいく、いや浮上していく意識。
「おい、トウヘンボク。死ぬぞ」
ハッ、とグトリは目を覚ました。地平から昇った太陽が、彼の見開いた目を灼いた。咄嗟、彼が目蓋を閉じたとき、突如顔に温い液体が降りかかった。正体の分からぬ水気にゾ、と背を震わせた彼は、ひゅ、と咽せ咳き込んだ。
「は、いいザマだ」
キーリェはグトリを見下ろして愉快そうに笑った。手には水筒──干して硬くなった実の中をくり抜いた物──を下げ、彼の頭の方から苦しむ様を覗き込んでいる。
「ふん、少しは臭くなくなったか。感謝しろよ」
グトリは唇を濡らす水気をちろり、と舐め、今更それが水だと理解した。それも貴重な、雨水でも泥水でもない、清流から汲み上げた水、だと。
「何処で」
辛うじて声が出た。
「あぁ水か。夕陽の方角、2日だ」
「行こ、う」
グトリは肘をつき、ふらつき立ち上がった。酷い目眩に視界が霞む。不思議なことに、喉の渇きは多少癒えていた。これならば、と彼は足に力を籠める。
2日、と先程の洗顔で口に入った砂を飲み下しながら方角を確認する。彼の背は長く横たわっていた所為で、砂埃に酷く汚れており、キーリェは顔を顰めた。
「おいお前、水を恵んで貰った礼も無いのか。それになんだ、行こうって」
「……」
グトリは初めてキーリェを見下ろした。彼にとって、棲家を出て初めて出会った雌の二つ足。
肩に僅か届く程の背丈。生成りの丈夫な装束に身を包み、隙間無く頭を包む髪覆いから垂らした布で、顔全体を隠している。覗く大きな緑の瞳が、不躾な光で彼を貫いていた。はっきりとした苛立ちを放って。
「助かった。礼……すまない。悪いが何も。食い物も無い」
「……」
「水と食い物を、探しに、行きたい」
「勝手に行け。共に行く道理は無い。面倒事はご免だ」
キーリェが鋭く言い放つ。グトリは言葉の意味が分からず、僅か首を傾げた。
「何故」
「何故、だと」
キーリェは憤慨しかけ、髪覆いの隙間から彼の目元の黒を睨めつけた。脳味噌の大きさも先祖並みか、と舌打ちする。するとグトリは慎重な素振りで、もう1歩キーリェに歩み寄り、予告なく腕を掴んだ。
「何、を」
「お前は俺の雌だ、卵を抱いて貰わねばならない」
キーリェは眉を寄せ、動きを止めた。何を莫迦な、と布の隙間から小さな唇が震えた。無論、怒りに。彼の掴む腕も小刻みに揺れ出した。
「誰がお前の卵など抱くか!」
目を大きく見開き、喝としたキーリェは渾身の力で自分の腕を取り戻した。
「俺は男だ」
続く
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