第2話 銀の月 朱色の髪

 グトリは遂に膝を折った。水溜まりひとつ見つけられず5日。倒れ込めば、細かな乾ききった土が汗で湿った頬に張り付き、彼は地表の熱さにぐぅ、と呻いた。

 2日前から革袋は空だった。

 

 霞んだ視界に、血を滴らさせたような夕焼けが滲む。

 遮る物の無い荒野。陽炎の立つ暑さの中を往く。陽を通さない黒衣は熱を籠らせ、呼吸する度水分を奪った。余りの息苦しさに、グトリは無意識に口覆いを外していた。もう見当たらぬそれは、風が何処かへと持ち去ったろう。

 こめかみから流れた汗が黒い唇に辿り着き、開いた隙間にぶら下がった。グトリはその僅かなしずくを、咄嗟にすすった。舌に塩辛く染み込めば甘みに転じ、唾液が湧き出した。分厚い舌で必死に嚥下えんげするも、喉は塞がったように乾いていた。

 地平線に、潰れた内臓のような太陽が沈む。

 今に夜が来る。

 グトリは顔を歪め、夜目が利かぬたちを呪った。距離を稼ぐ絶好の時間帯だが、彼は闇雲に歩を進めても方角を失ってしまう。一昨日からは、膨らみ始めた月を頼りに僅か靴底を減らしはしたが。

 荒野は果てがない。

 夜の匂いと帳が丸めた身を包むのを感じながら、彼は重ねた衣越し、密やかに卵に触れた。厳重な緩衝布のためか、硬く冷たい殻に覆われているためか、それが温かいかは定かではない。それでも此処にある、と確かな丸みを撫でた。

 まだ、とグトリは呼吸を調えた。

 仮眠をとらねば、と卵を割らぬよう、ギ、と肩を縮めて横たわった。

 もはや呻き声を出す力すらなく、夕闇を目蓋に閉じ込めた。


 不意にグトリが目を覚ましたとき、夜に晒した皮膚を月が冴え冴えと照らしていた。睫毛の隙間から、鼻梁から、冷えが入り込む。

 当然立ち上がる力は未だなく、自然、再び眠り込むため目を閉じかけた。

「おい」

 どこか甘い、掠れた声。

「口を開け」

 知らぬ声。しかし何と名を付けようか、深い感慨がグトリの胸に湧いた。

 夢か、と謂われるままに唇を開く。砂の張り付いた頬が引き攣り、首尾よくいかない。睡眠が足らず、すぐ泥に身が沈み込むような心地に絡め取られた。

 同時、ぐい、と上向いた肩が力尽くで押された。仰向けになった、と彼は遠くで感じた。靴底の擦れる音。薄い目蓋に覆い被さる影の気配。

 グトリはおぼろうつつをたぐり寄せる。

 硬い布の衣擦れ、何かが触れようとする、確かな空気の振動。

 ──卵が。

 グトリはカッ、と目を見開き、片腕で胸の卵を守りながら気配の反対方向へもんどり打った。跳躍の合間、彼の爪先が相手の体を撥ね返した。傷を負わせたようだ。

 彼が低く身を丸めたまま、利かぬ視覚で相手を捕捉した瞬間、逆光になった小さな影が宙で回転し、髪を束ねていた覆いがひら、と舞った。

 

 パッ、と放射線状に広がった豊かな朱。


 グトリの鼓動が跳ねる。

 仰向いた顔の黒い双眸がギラ、と彼を貫いた。息を呑んだ。足が縫い付けられたように動かない。

 相手は軽々と着地し、直ぐさま体勢を整えた。反撃に出ようと長い間合いをはかる。背中に届く髪が竪琴の弦のように時折光り、グトリの夜目を刺す。

 彼は漸く、相手が二つ足であると確信を得、逸り出す鼓動にそっと卵を押しつけた。同時、ずぶ濡れになったように重い体で立ち上がった。

 フゥー、と小さな影が迎撃のためか長く息を吐いた。

 誤解を解かねばならぬ。

「す……ま、な……」

 傷つけるつもりはなかった、と継ぎたかったが、声が出ない。最後に声を発したのは幾日前か、不意に吹いた夜風に汗が冷える。

 干上がった喉をゴクリ、と鳴らして1歩。グトリは酷い目眩に踏鞴たたらを踏んだが、堪え、重い脚を進めた。殆ど擦りつけるような歩みだ。彼の肩にも及ばない背格好の相手だが、慎重に歩を進めた。決して逃げられてはならない。

 朱色の髪の二つ足はじ、と彼を見詰めたまま動かない。

 月を背にしたその表情は怒りで硬く、しかし間違いなくグトリと同族二つ足に見えた。彼の進む、砂の擦れる音が周囲に降りる度、相手の小作りな骨格や鼻梁、大きな瞳、鮮やかな朱色が明らかになっていく。

 お互い、手を伸ばせば届く程の距離。グトリは何と声を発するか決まらぬまま、息を吸った。しかし一寸、相手が先手を打つ。

「お前の巣では、同族を害せ、と教えるのか」

 低く鋭い警告。見れば、露わな手の甲は血で滲んでいる。

「……いや」

 彼の虚ろな物言いに、白銀を縁取る朱色が激しく逆立った。怒りすら美しい、鮮やかさ。

 何かの感嘆に息を吐いた瞬間、意識が揺れ、グトリは倒れた。脱水と疲労の限界だ。急速に眠りに沈んでいく。

 あわい、卵の割れた音は無かった、と安堵が頭を掠め、彼は意識を手放しかけた。

 辛うじて彼を現の淵に繋ぎ止めるのは、低く甘い断続的な声だ。

「おい。どうした」

 睨みつけていた相手が突然伏した、当惑して当然だろう。朱色の二つ足は、警戒しながらもグトリの傍に駆け寄った。

 彼の今に塞がろうとする視界に、朱色がてのひらかげした。グトリは咄嗟、その手を取ろうと腕に力を籠めたが、握ることままならず、僅かに触れて離れた。

「……つ、が……て」

 番ってくれ、と確かに伝えられたのは夢。グトリは白目を剥いて意識を失った。

 

 彼は同族の二つ足を探していた。

 正しく伴侶となる二つ足を。

 荒野の夜は、底のない眠りに沈んでいた。



 続く

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