春楡に歌えよ

micco

1.荒野を往く旅鳥

第1話 春待つ者

 円熟した文明は勿論、節度なくそれを築き上げた者達によって荒廃の道を辿ったのだ。契機は天から火が降っただの、地が怒りに口を開けただのと謂われはしても、虫は魚は四つ足は数を減らしはしなかった。

 二つ足だけが住まいを失い、飢え絶えていった。僅かに生き延びた二つ足が群れ、再興を図った歳月は既に過去。

 グトリは凍えるような寒さに、先程拾った布を薄汚れた黒い外套の下に入れ込んだ。長い髪と、鼻の上まで覆った布が砂礫すなつぶての風を遮る。

 此処ここはマチだったのだろうか、と乾いた砂利を靴底で擦り立ち止まった。石を積み上げた壁が至る所に残る此処は、仮眠に具合が良さそうだ。

 グトリは夕闇の迫る空に、真っ直ぐ歩いて来た道──それはグトリの目の前を塞ぐ物の無く、進む先を見通せる空間があるだけであって、厳密にはそうと分からない。見渡す限り、砂と石が続く──を逸れ、壁の崩れ並ぶ方へ風を避けた。幾分過ごしやすそうな場所を見つけ、腰を下ろそうと足元に目を落とした。

 全く気配を感じなかった。

 そこには、骨と皮だけの小さな二つ足が此方を見上げていた。

「……生きているのか」

「く、いも……」

 腹は虫のように浮腫むくみ、髪は恐らく白く変色している。『食い物』と発した唇も頬も乾き切り、覗く歯は抜け落ちたか。幾日も横たわったままなのか土虫達が体中を這う。もう長くない。

「た、……の」

 グトリは催促にひとつ肯き、立ったまま革袋に入れた水を垂らした。細く糸のように落ちる水は乾いた唇を濡らす。僅か突き出した舌が緩慢にそれを受け止めた。食道の形が浮いた首に喉仏を見、子どもではないようだ、と革袋を懐に戻した。飢餓状態の者に食糧を与えては致死の可能性もある。だが水ならばすぐ死ぬことは無いだろう、とグトリは傍に腰を下ろした。

 確かに此処は三方を壁にしており、過ごしやすいようだった。

「今夜は此処にいたいのだが」

「好きに、してく、れ」

 水分のお陰か聞き取りやすくなった声に、グトリは肯いた。


 空に白く炎が立つ頃、男の声でグトリは目を覚ました。「聞いてくれ」と此方を見詰める瞳は、深く透明な藍の空気をギラリ、貫いた。

「春を待っていた」

「ハル?」

 不思議なことに男の声は僅かも掠れておらず、まるで別人のように滔々と響いた。

「1度だけ春が来た。此処にもハナが、さ……さい、そうだサいていた。何て言葉か忘れて、いた。初めてハナを見た」

 グトリは目を瞬いた。男の顔が苦しげに歪んだからだ。青の明度が高くなり始めたか男の顔が白く浮立って見える。それとも死期か。

「春のことばかり考えてきた。もうずっとひとりで春を待ってた。あんたが来て、よ……よかった。春は暖かいんだ。ハナがサけばハナが増えるんだそうだ」

 違った、男は微笑んでいた。およそ微笑みとは言えない顔で笑み、春を待っていた。

 壁に空いた細かな隙間から光の筋が差した。

 それはグトリの耳を掠め、男の額を白く濡らすように揺れた。男が呼吸する度、隙間から差し込む朝陽にその体は虫喰いのように灼かれていく。強すぎる陽射しにグトリは鼻まで布を上げた。

「あぁ、なんて言うんだったか。暖かくて、眩しい気持ちになる言、葉だ……き、き……あぁ母親に……」

「悪いがもう出発する」

 グトリは朝の到来に立ち上がった。男の目蓋はもう閉じている。気温が上がっては進めない。

 彼は生きている二つ足に出会う為、先を急がねばならない。

「そうか……きぼ、う」

 『キボウ』と聞こえ、彼は咄嗟に外套の襟を掻き合わせた。言葉の意味は知らない。ただ胸に隠す卵を、確かに守るよう押さえ込んだ。

 既に男は事切れていた。

 グトリが背を向け、壁の間を抜けると圧倒的な熱が体を刺した。どうやら随分居心地のいい場所で過ごしたらしい、と外套をきつく合わせたまま道を歩き始めた。

 風は彼の髪に砂埃を撒き、酷く晴れた空へと巻き上がる。

 光は何処までも世界を照らし、グトリの道の先を砂と石のみと教えていた。



 続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る