最終話 且元が死んで不機嫌になる家康

 慶長二十年(一六一五)五月二十八日、片桐且元は京都の自邸で死去した。建前上は病死と届け出られてはいたが、家康は自死を疑わなかった。

 そもそもこのたびの戦いは、豊臣家による且元への襲撃計画が発端であった。謂わば豊臣家による不当な暴力から且元を守るために起こしたいくさだったのに、その直後に且元が腹を切ったとなれば、徳川に対する面当つらあてと解されても仕方がない。

 事実、幕閣のうちには

市正いちのかみ(且元)の死は病死などと届け出られてはおりますが、豊臣家に殉じての追腹おいばらに相違ございません。真相を究明のうえ、改めて片桐家に改易のご沙汰をお下しなさるべきです」

 と進言する者もあった。

 家康は且元の死を聞いて不機嫌になり、幕閣の進言を聞いてまた不機嫌になった。

 諸侍の頂点に立つ家康ですらこれに跪き、従うことを強いられるのが武家の法理というものであった。七十年以上にわたる経営を以てしても、家康はその法理を超越することはできなかった。これがさむらい徳川家康の限界であった。

 そう考えると家康は、侍という生業なりわいにほとほと嫌気が差す。できることならもう何もかも放り出して、武士でいる限り身辺につきまとって離れないありとあらゆるしがらみから解放され、自由になりたいとすら思う。

 そして且元は、近年めっきり数を減じた戦国の世の生き残りとして家康と価値観を共有する者でありながら、自らを縛る武家の法理に嫌気が差して自死を選んだのである。

 自害しなければならない理由がひとつとしてなく、しがらみに絡め取られて身動きの取れない家康を尻目に、且元は自分ひとり腹を切り、家康が真似できない方法で武家社会からの脱出したのであった。

「わしひとり残して逝くな」

 家康はそう思ったかもしれない。且元の死を聞いて不機嫌になったのは、見捨てられたと思ったからだ。

 不機嫌になりながらもしかし、家康は若い幕閣が進言したように、片桐家を改易しようとは思わなかった。却ってその存続を固く心に決めたのかもしれない。

 何度も繰り返してきたとおり、大坂の役は豊臣家からの不当な暴力から且元を守るために起こしたいくさであった。その戦いから幾許いくばくも経ないこのような時期に、いくら且元が豊臣家に殉じて腹を切ったからといって片桐家を取り潰せば、大坂の役で戦った人々がなにを思うだろう。

「結局片桐家を取り潰すのであれば、なんのために豊臣家と戦って、これを滅ぼしたのか」

 となりはしないか。

 幕閣による片桐家改易の進言は、政権の中心部にさえ、そのもたらす影響を理解していない者がいることを家康に思い知らせ、不機嫌にさせた。

 この戦いで血を流した人々の手前、片桐家を取り潰すというわけにはいかなかったのである。

 片桐家改易を斥けたもうひとつの理由は、家名存続を認める以外に且元の苦労に報いる手段を、家康が持っていなかったからであった。

 武家の法理に縛られている以上、上に立つ者が配下の苦労に報いる方法は限定的であった。知行安堵や加増、官途授与がそれである。なかにはそういったものを望まない者もいる。

 世上では、且元は豊臣家に殉じて追腹を切ったなどと言われているが、家康からしてみればそんなものは的外れな見立てであった。

 先ほど少し陳べたが、片桐家存立の根拠は且元を取り立てた秀吉にあった。且元はその秀吉の恩義に報いるべく人生のほとんどすべての時間を費やして豊臣に仕えてきたのである。

 その豊臣がなくなってしまったということは、且元にとっては自分の過去がなくなってしまったことと同じだった。

 もし且元に、戦後の褒賞としてなにを欲するか訊ねたら

「豊臣のために費やしてきた自分の時間を返して欲しい」

 とでも言ったかもしれない。

 口には出さなくてもそれが本音だっただろう。永年武家の法理に奉仕することを強いられてきた家康にはそのことがよく分かる。

 且元は豊臣家などに殉じたのではない。自分自身の人生に殉じたのである。

 翻って家康が且元に与えてやれる褒美は、知行安堵或いは加増、官途授与といった、且元が決して望みはしないであろうものばかりであった。武家の法理のなかに身を置いている以上、家康が準備できる褒美は限定的であった。

 且元本人もそのことは重々承知しており、諦めてもいたはずだ。武家社会に身を置いている限り、人をかえ、時代をかえて同じことが延々繰り返されていくのである。だからこそ且元は絶望し、腹を切ったのではないか。

 もし腹を切る直前の且元に

「そんなことをしたら家を取り潰すぞ」

 などと脅してみても、武家社会に絶望した且元は歯牙にもかけなかったことだろう。

「どうぞご随意に」

 くらいのことは言ったかもしれない。

 結局家康には、且元の死を届出のとおり病死として受理し、家名存続を認めてやるくらいしかできなかったのである。改易など論外であった。

「市正の死は届出のとおり病死として受理すること。我等が且元にしてやれることはそれくらいしかないのだ。改易など沙汰の限りである。以上」

 家康はそう言うと、まるで亡くなった且元の菩提を弔うが如く瞑目した。

 

 豊臣家滅亡に至る経緯から、家康には狡知に長けたイメージがつきまとって離れない。もし家康にそういった性質を見出すならば、鐘銘がどうこうといった話よりも、且元の自死に気付かないふりをして、敢えて片桐家の存続を認めることにより、且元の魂を武家社会に抑留し続けた点にある、などといえば、家康は不機嫌になるだろうか。


                 (終)

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不機嫌な家康――片桐且元の心中を勝手に慮って勝手に追悼する小説こぼれ話―― @pip-erekiban

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