第五話 秀頼が死んで不機嫌になる家康
家康は夏の陣での勝利が確定的になるや、傍らに控える畠山入庵に対して
「やったぞ、また勝った」
と喜びを露わにしたという。
畠山入庵といえば、片桐且元とともに逐われるように大坂城を退去した人物であったが、いくらそんな入庵でも、旧主家が滅亡するのを目の当たりにして面白かったはずがない。その入庵を前に、家康の喜びようは不謹慎ともいえる態度であった。
無論不謹慎は先刻承知の家康である。
しかし勝利というものが個人の掌中にあるのはほんの一瞬のことであった。勝利は、それを勝ち取った人々の大多数が腑に落ちる形で処理されることにより、公共物に変容していくものであった。家康はこれまで、勝利の数だけその過程を目の当たりにしてきたのである。いくさでの勝利が自分の掌中にあり続けたためしがこれまで一度もなかった以上、今回だけ例外になるなどあり得ない話であった。
これからきっと、戦後処理の過程で家康の意に沿わない出来事がいくつか起こることだろう。勝利が公共物である以上、それはやむを得ないことであった。家康は、勝利というものが個人の掌中に収まっているいまこの瞬間が得がたいものだと知り尽くしているからこそ、不謹慎の誹りも厭わず喜びを露わにしたのである。
大坂落城の翌日、焼け残った山里曲輪の矢倉に、茶々、秀頼母子をはじめとする豊臣家の人々が潜んでいるとの注進を受けた家康が最初に考えたのは、秀頼の助命であった。
徳川家の主催する公儀体制にとって豊臣家が厄介だったのは、大坂城を占有して手放さなかったからだ。また牢人衆を制御できなかったのは、秀頼に大名としての力量が欠けていたからである。
秀頼が大坂城を失い、大名としての身分と牢人衆から解放されたいま、命まで奪う必要が果たしてあるだろうか。
そう考えて、家康は床几を並べる将軍秀忠に言った。
「将軍、秀頼公を殺すまいぞ」
この言葉に度肝を抜かれたような表情を見せたのは他ならぬ将軍秀忠であった。しかしそれも無理のない話だ。
もはや戦う理由もその
家康はそう言いたいのだろうが、このたびの合戦で何千何万の人々が傷つき、死んでいったのである。牢人衆を制御できず、そのなすがままに首魁に祭り上げられて公儀に敵対し、諸侍の多くに犠牲を強いた秀頼を赦免するなど、勝利を勝ち取った人々の腑に落ちる処分とはいえなかった。
秀忠は家康の言葉を聞いて、不機嫌そうな顔をしながら黙り込んでしまった。
「秀頼公はわしにとっては孫、将軍にとっては義理の息子である。助けたまえ」
かき口説くように言った家康の言葉に、秀忠が意を決したように反論した。
「大御所様の仰せではございますがその儀ばかりはなりません。我等が再三施した厚意を無にして二度も公儀に楯突いたうえは、我が息子だからとて、否、我が息子だからこそ、赦免する道理のあろうはずもございませぬ」
「千からも頼まれておることぞ。娘がかわいくないのか」
「……」
なおもしつこく秀頼の助命を口にする家康の言葉を聞いて、秀忠の顔に浮かんだのは困惑ではなく怒りだった。
秀頼の切腹は、この戦役での勝利を公共物にするために必要な手続きであった。秀頼のために多くの人々が傷つき、死んでいったからこそ、そういった人々が納得できる処分が必要だったのである。それがなければ今回の勝利は、ただ単に家康、秀忠父子が秀頼を上回ったという「個人の勝利」に
人々は家康や秀忠といった個人に勝利の愉悦を献上するために戦ったのではない。片桐且元という江戸幕藩体制の構成員を敵の攻撃から守り、延いてはその体制を維持するために戦ったのである。その意味で幕府軍は公共の軍隊、勝利は公共の勝利になるべき性質のものだったのであり、これぞ武家の法理というべきものであった。
家康は肉親の情を盾にとって秀頼を助命せよと求めたのであり、そんな個人的な願いは武家の棟梁である秀忠が承認できる話ではなかったのである。
秀忠はもうこれ以上家康と議論を重ねることなく、決然言い放った。
「矢倉に向け鉄炮を放て」
豊臣の人々に交渉無用を告げ、言外に自害を促すためであった。
「待ちたまえ将軍。秀頼公が挙兵に及んだのは牢人衆に操られてのこと。また昨日はこの家康が真田に追われて逃げ回っている折、敢えて秀頼公が御出馬に及ばなかったのは和睦交渉に含みを持たせるためであるぞ。それを踏みにじって秀頼公を殺すと申すか。
わしは秀頼公と話がしたい。ゆっくり碁でも打ちながら、そなたの御父上は立派な御仁であったぞと伝えてやりたい。この老いぼれから楽しみを奪ってくれるな」
いくら家康が言ってももう秀忠は耳を貸さなかった。
秀忠の下知に従って矢倉に鉄炮が斉射されたあと、間を置かず豊臣の人々が籠もる矢倉は爆発した。自害とともに弾薬に着火したものと思われた。
家康はその様子を見て不機嫌になった。不機嫌になりはしたが、秀忠の決断についてあれこれと愚痴を重ねるようなことはもうしなかった。
秀忠の決断は武家の法理則ったものであった。個人の感情など超越して踏みにじり、厳然としてある武家の法理を前にしては、諸侍の頂点に立つ家康ですら不機嫌になって抗議の意思を表明するくらいのことしかできなかったのである。
今回もやはり、勝利が家康個人のものであり続けるということはなかった。
これが、勝利者だったはずの家康の意に添わないひとつめの出来事であった。
爆散した矢倉跡を巡検しながら、家康は意に添わない出来事のふたつめを思った。
(且元は腹を切るだろう)
と。
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