第四話 孫がいろいろやらかして不機嫌になる家康

 家康は元亀三年(一五七二)に遠州三方ヶ原で武田信玄に敗れた以外は、野戦で敗北したことがなく、いくさの名手だったと言われている。その実績を無視して言うつもりはないが、敵味方合算して数十万もの大軍が寄り集まった大坂の陣のような巨大な戦場では、家康の個人的資質で戦局が左右される余地などほとんどなかったように思われる。現代と違って即時の通信手段がなかったこの時代、混乱甚だしい個々の戦場においては、時として一隊の将がその場その場でくだす進退の分別が、総大将の采配に優るということがあった。そのことは、本戦における松平忠直の事例が示している。

 忠直は結城秀康の長男で家康の孫に当たる人物である。冬の陣の折はようやく弱冠に達した若武者であり、家康はその孫に、谷町口への配置を命じている。これは大坂城唯一の弱点ともいえる城南への配置であり、案の定、ここは冬の陣最大の激戦、「真田丸の戦い」の舞台となった。

 忠直はこのとき、若者らしい闘志を満々湛え、前田利常や井伊直孝、藤堂高虎等とともに真田丸に殺到し、却って散々に撃ちすくめられて大打撃を被っている。

 このため家康から

「自重せよ」

 と大目玉を食らったのであった。

 翌年に行われた夏の陣ではこの反省を存分に活かし、八尾・若江方面に展開する味方の藤堂高虎、井伊直孝隊が大坂方の木村重成、長宗我部盛親隊相手に苦戦を強いられているさなか、半年も前に家康から頂戴した命令を墨守して自重し、友軍を助けもせず、苦戦するに任せたのである。

 藤堂隊は決死の攻勢を敢行し、親族衆にまで多数の戦死者を出しながら、ようやくにして木村、長宗我部隊を撃破したものであったが、味方の苦戦に知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ忠直は即刻家康の勘気を被ることとなった。

「味方の苦戦を横目にお前は昼寝でもしておったのか。お前が活躍できる場所などもうないわ」

 忠直からしてみれば、盲進して痛い目に遭った前回の反省を活かし、家康の言うとおり隠忍自重したつもりだったのが、今回は何故戦わなんだかと叱責された形である。相反する叱責を受け、実戦経験がほとんどなかった忠直はさぞかし困惑したことだろう。

 この八尾・若江の戦いの翌日、慶長二十年(一六一五)五月七日に行われた天王寺決戦において、忠直は前日の恥をすすぐべく軍令を犯して抜け駆けし、最終的に真田信繁を討ち取る殊勲を挙げて家康から勲功第一の賞賛を得たのであった。

 孫が戦功を挙げたのは良いとして、しかしそれにしても……と家康は嘆息したかもしれない。

 先述のとおり、両軍合わせて数十万の軍勢が入り乱れて戦う戦場では、大将の采配は隅々まで行き渡らなかった。総大将から具体的な命令が期待できない状況下、その命令がないからといって味方が苦戦するのを指を咥えて眺めているようでは、武士の本分を忘れた者と誹られても仕方あるまい。総大将の命令があろうがなかろうが、味方の苦戦を見てこれを扶けるのは侍たる身なればこそ当然の振る舞いというべきであった。忠直は、このときもし自分たちが攻められる立場だったとしても、自重して戦わないつもりだったのだろうか。

 敵が押し寄せてくれば戦って打ち破る。

 味方が苦戦に陥っておれば援軍を出して扶ける。

 これらはいずれも武士の本分というべきものであって、いちいち総大将の指揮を待って行うものではない。

 先の軍装の事例といい、援軍を出さなかった忠直の事例といい、実戦に臨む武士の心懸けを忘れた者が多くいる事実に、家康はさぞかし苛立ったことだろう。

「そんな当たり前のことまで教えてやらねばならんのか」

 とでも嘆いたかもしれない。

 家康は、若江合戦で討死うちじにした木村重成の首に異香を嗅ぎ取り、その首に向かって

「物に馴れた武士は、乱戦のさなか討ち取られても雑兵の首に紛れぬよう香を焚きめたものだ。お前のような若者に、いったい誰がこのようなたしなみを教えたものか」

 と涙ながらに語りかけたという。

 忠直とさほど年の違わない木村重成が、死して示した古武士の嗜みは、我が孫が醜態をさらした折とあって、いっそう家康を感銘させたことだろう。

 さて忠直の話はまだ続く。戦後の論功行賞のことである。

 家康から勲功第一の賞賛を得た忠直が戦後賜った褒美は初花の茶入れであった。室町幕府八代将軍足利義政や信長、秀吉、そして家康などの歴々が所有した什宝を賜ったのだから、これはこれで大変な名誉であったが、忠直は

「茶入れなどもらっても、命懸けで戦った将兵に加増してやれないではないか」

 と嘆きながらこれを叩きつけ、破壊してしまったと伝えられている。

 そもそも大坂の陣は、徳川の家臣でもあった片桐且元が大野治長等に襲撃されそうになった事件が発端だったから、徳川家にしてみれば豊臣家から先制攻撃を受けたうえでの自衛戦争だった。自衛戦争だから利益など度外視して否応なく戦わなければならない。忠直は本戦のそういった性質を理解していなかったのであろう。

 忠直は一方的に不満を募らせ、家康の死後は参勤を怠るなど不行跡を重ねるようになり、やがて隠居を強制され豊後へと配流されたあとは、慶安三年(一六五〇)に五十六歳で死去するまで、同地を出ることを許されなかった。

 手柄を挙げた者に加増してやることは確かに武家の法理にかなっている。

 しかし一方で

「攻撃されたら反撃すること」

 これもまた武家の法理であった。

 繰り返しになるが、自衛戦争とは勝っても利益が見込めないものなのである。

「そんな当たり前のことまで教えてやらねばならんのか」

 草葉の陰で嘆く家康の声が聞こえてきそうだ。

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