第三話 秀頼に力量が欠けていて不機嫌になる家康

「方広寺鐘銘事件は豊臣家を滅ぼすために家康が仕掛けた罠だった」

 さも当たり前のことのようにそう言われるが、この理論には明白な誤謬ごびゅうがある。

 この説によれば、家康は豊臣家を滅ぼそうとしておきながら、豊臣家が銘文での犯諱はんいという過失を犯すまでしんぼう強く待っていたということになってしまい、徳川が仕掛けた罠だという理屈が成り立たなくなってしまうからである。

 方広寺の梵鐘自体は慶長十九年(一六一四)四月に完成したものであった。それが両家の間で政治問題化したのが七月のことであり、片桐且元が自身に対する襲撃計画を知って自邸に籠もったのが九月二十三日であった。同二十五日には家康が事件を知り、翌二十六日付で、遠く出羽の佐竹義宣に対し、大坂での騒動が通知されていることから見ても、事態が風雲急を告げるのは九月二十三日以降、つまり且元が自邸に立て籠もってからだった。その二ヶ月も前に問題化していた方広寺梵鐘銘が豊臣家を滅ぼす理由になったという説には無理がある。

 この理屈は夏の陣にも当てはまる。

 冬の陣で講和に漕ぎ着けたあとも、徳川方はせっせと大砲を鋳造し戦争準備をしていたのだから、徳川は飽くまで豊臣を滅ぼすつもりだったといわれるが、夏の陣の開戦は豊臣方、もっといえば大坂城からの退去を拒んだ牢人衆による防御施設の再構築がその引き金だった。この時代、破却した城の修理は合戦と同義であった。牢人衆はその理屈を知っていながら大坂城の再構築に乗り出したのだから、仕掛けたのはやはり大坂方だったとしか言いようがないのである。

 家康にしてみれば、もとより講和条件に 

 

  牢人衆の罪は問わない


 という条項を含んでいたくらいだから、牢人衆が大坂城を退去しようがしまいがどちらでも良かったのだろう。そんなことより家康が重視したのは、秀頼が自ら抱え込んだこれら牢人衆を制御し、国主たるに相応しい力量を示し得るかどうかだったのではなかろうか。

 極端な話をするならば家康は、豊臣が牢人衆を召し抱えたとしても、そういった連中に知行を宛がうのは豊臣なのであって、徳川の懐が痛むわけではない。秀頼が飽くまで領国の静謐を保ち、徳川と締約した和睦条項を遵守し続ける限りにおいては、大坂城を捨てないことに不満は抱きながらもその存続を認めざるを得なかったというのが、家康が当時置かれていた立場だったのである。

 しかしそうならなかったことは歴史が示しているとおりだ。

 秀頼は牢人衆による戦争準備を止められず、これを支えるべき補弼もまた同じであった。あまつさえ大野治長などは城内主戦派から目の敵にされ襲撃される始末だったから、大坂は静謐どころか惑乱の極みにあった。

 秀頼が置かれているこのような状況を見て、家康は過去の自分と比較したかもしれない。家康にとって転機は二度あった。

 一度目は天正十年(一五八二)、武田氏滅亡と本能寺の変にともなって発生した天正壬午の乱である。家康はこの乱を勝ち抜いて、広大な武田遺領を掌中に納めたのであるが、同時にこれは、旧来の三河国衆を遥かに超える数の武田遺臣を家中に抱え込むことを意味していた。

 徳川家中において、ついこの間まで激しく敵対していた武田遺臣が多数派になってしまったのである。

 天正十三年(一五八五)、三河以来の重臣石川数正が秀吉の許に奔り、家康は徳川の内情を知り尽くした数正の出奔に対応して軍制を武田流に改めたというが、実際のところは多数派である武田遺臣がやりやすい形に改めたというのが、案外真相だったのかもしれない。三河以来の軍制が武田流に駆逐されたとも換言できる。

 ついでながら家康は、自分を大いに苦しめた武田信玄を尊敬していたと伝わるが、これなど武田遺臣向けのリップサービスであろう。こういった人々から未だに崇敬を受ける信玄を実は毛嫌いしていたなどとは、口が裂けても言えなかったに違いない。実際の家康は、今川攻めを巡る経緯から、信玄に対し強い不信感を抱いていたことが知られている。

 天正十年という年は家康にとって、領国拡大の福音とアイデンティティー崩壊の危機が同居する転機だった。多数派の意見を上手く取り入れながら、かといって主導権までは渡さない絶妙のバランス感覚により、家康はこの転機を乗り切ったのである。

 二度目の転機は天正十八年(一五九〇)の関東移封だった。

 勘違いされがちであるが、時の権力者に命じられてその土地に入部することと、旧来の住民に受け容れられることとはまったく別問題であった。転封を命じられても、地元民の反発に遭遇して領国が乱れることは、この時代よくある話だった。有名どころでは肥後入部を命じられた佐々成政がこれに当たる。秀吉による北陸征伐でその対象にされた経緯から、敢えて統治の困難が予想される肥後にいやがらせ目的で入部させられたなどと伝わるが、いやがらせだろうがなんだろうが、上手く統治できておればなんら問題はなかったのである。成政が改易させられたのは、一揆を起こされ領国経営に失敗したと見做されたからであった。

 与えられた領国を自らの力量で治めるのが大名としての腕の見せ所だ。家康は、五代百年にわたって後北条氏の統治に馴れた人々をよく治め、力量を示してみせたのである。

 結局秀頼は、大坂城内で多数派になった牢人衆を御しきれず主導権を握られたという点で、武田遺臣を手懐けた家康に及ばず、佐々成政のように領国を乱したという点で、力量に欠ける当主と見做さざるを得なかった。

 冬の陣後、大坂城の維持と領国安堵を認めてやったというのになんたる不行跡か。家康はさぞかし落胆し、不機嫌になったことだろう。家康が豊臣家の改易を決意したとするならば、慶長二十年(一六一五)三月のことではなかったか。

 しかし秀頼の殺害まではやはり意図していなかったものと思われる。

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