第二話 派手な軍装を見て不機嫌になる家康

 大坂に向けて行軍する井伊の赤備えを目にした家康は、陽光を受けてきらめく真新しい具足を見て不機嫌になった。

 必要以上に派手な一隊に続いて現れた老武者集団はというと、同じ赤備えでも使い古された具足、一部に色の剥げた頭形兜ずなりかぶとを着用しており、先ほどとは打って変わっていかにも古色蒼然とした出で立ちであったが、家康はこれらを見ると途端に上機嫌になって

「あれは甲州の武者であろう。あれこそ真の赤備えというべきで、物見も先陣も見事果たしてくれるに違いない」

 と喜んだ。

 実際この老武者集団は、甲斐武田氏以来の赤備えだったという。

 また家康の十男頼宣の麾下に矢部虎之助というたいそうな力自慢の侍があった。彼は大坂の陣こそ生涯最後の晴れ舞台になるとふんで


  咲く頃は 花の数にも足らざれど

     散るには洩れぬ 矢部虎之助

 

 と彫り込ませた長さ二間(約三・六メートル)の大位牌を指物師に作らせた。

 いざ出陣となったとき、この指物があまりに重かったために矢部の馬は前に進まず、周囲に後れを取って手柄を挙げ損ねた矢部は

「武道に不案内の者よ」

 という人々からの嘲りを恥じて自ら食を絶ち、自死したと伝えられている。

 関ヶ原合戦以降大坂冬の陣まで十四年、国内に合戦は途絶え、現代よりもずっと人の命が短かった時代であってみれば世代交代は急速で、大坂冬の陣が行われた慶長十九年(一六一四)のころともなると、実戦を知らない武士はさぞかし多かったことだろう。

 井伊の赤備えや矢部虎之助の例は、功名心に由来する派手な軍装を戒め、実戦に即した心構えや軍装を勧奨する説話になった。

 諸大名に統率された幕府方ですらこの有様だったから、大坂方の軍装の乱れはもっと酷かったことだろう。

 少し前までの戦国大名は、皆押し並べて軍事編成に腐心したものであった。くどいほどに軍役状を発出し、知行高に応じた人数や武装を軍役衆に義務づけ、これら条目に違犯した場合は厳罰も辞さない態度で臨んだ。たった一度の敗北が国家の滅亡に直結する厳しい時代であってみれば、個人の功名心よりも統率の維持が優先されたのである。

 大坂の陣に際して豊臣方は、知行を持たない牢人衆に当座の軍資金として竹流し金を提供したが、それでも個々の牢人衆に対して

「汝は長柄ながえを何人、弓を何張、鉄炮を何挺、騎馬武者を何騎」

 と、戦国大名ばりのこと細かな軍役を課すことは不可能だったに違いない。牢人衆は皆、思いおもいの軍装で本戦に臨んだことだろう。

 川中島合戦にも参加したことがある上杉家の老武者は、大坂の陣で感状を授かりながら

「児戯に等しい」

 と本戦を嘲ったと伝えられている。

 通算で五度行われた川中島合戦のうち、最も激しかったと伝えられている第四次合戦(永禄四年、一五六一)ですら甲越合算して三万そこそこで競り合われた戦いだったのに較べれば、敵味方合わせて二、三十万もの人々が争った大坂の陣の規模や激しさが、永禄四年の川中島合戦より小さかったはずがない。

 ではこの老武者は、単に懐古主義的な感傷に浸りながら

「昔はもっと凄かった」

 と口走っただけなのだろうか。

 おそらくそういうことではあるまい。この老武者は合戦の規模や激しさではなく、大坂方、関東方双方の軍規が川中島合戦時の越軍或いは甲軍と比較して疎かだった点を嗤ったのではないか。

 先ほど少し触れたが、戦国期に諸大名が課した軍役は大変厳しいもので、陣布令じんぶれに接して指定の場所に参集した軍役衆は寄親等に着到状を提出し、これに基づいて人数や武装の点検が行われるのが慣例であった。その場で条目に違犯する人数や武装が判明すれば、たとえ麾下の軍役衆であっても、諸衆の前に引きずり出され、一刀のもとに斬り捨てられるようなことが平気で行われていたのである。

 軍役衆に知行が宛がわれる所以は、私腹を肥やしてもらうためではなく軍役を果たしてもらうためであった。条目に違犯して課せられた軍役を疎かにする行為は、義務の不履行と見做され懲罰の対象とされたのである。あの織田信長が重臣佐久間信盛に突き付けた十九箇条の折檻状の第十条に、そのあたりの理論が明示されている。


一、先々より自分にかかへ置き候者どもに加増もつかまつ似相にあいに与力をも相付け新季新規に侍をもかかふるにおいては是れ程越度おつどはあるまじく候にしはきしわきたくはへ蓄えばかりを本とするによつて今度一天下の面目失い候儀唐土高麗南蛮までも其の隠れあるまじきの事

(以前からの家臣に加増してやり、与力を付けたり、新しく家臣を召し抱えたりしておれば、これほどの落ち度はなかっただろうに、けちくさく貯め込むことに精を傾けるから、今回天下に面目を失ったことは、海外にまで知れ渡るほど明白だ)


 越度とは、信盛が大坂本願寺を囲みながら数年かかってなお落とせなかったことを指している。信長はその原因を、信盛が私腹を肥やして軍備を整えなかったからだと指弾しているのである。

 これぞ

「主君は軍役を果たしてもらうために知行を宛てがい、軍役衆は宛がわれた知行に応じて軍役を果たす」

 という武家の不文律そのものであった。

 そういった厳しい時代を生きた上杉の老武者の目には、勝手気ままな軍装で着飾った人々の、功名を求めて逸る大坂の陣の光景が、子供の合戦ごっこのように映ったのだろう。

 家康が井伊の赤備えに嫌悪感を示した所以も、派手な軍装が任務の妨げになると思ったからだ。甲州の赤備えに対する賞賛は、その実戦に即した心構えを讃えたものだったのである。

 上杉の老武者同様、家康もまた、厳しい戦国の世を生き延びた一古武士であった。

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