不機嫌な家康――片桐且元の心中を勝手に慮って勝手に追悼する小説こぼれ話――

@pip-erekiban

第一話 豊臣討伐を決意して不機嫌になる家康

 尾張守護代の家柄に過ぎなかった織田信長が、何故天下人となったのか。

 その出自ですら明らかではない豊臣秀吉が、位人臣を極めたのは何故か。

 家康はその理由をはっきり答えることができない。

 一方で、彼等が転げ落ちた理由についてははっきりと説明することができた。

 武家の法理をおろそかにしたからである。

 もし信長が、父子ともども少人数で寺に分宿するような錯誤を犯すことなく、身辺の警固を怠るようなことがなければ、あのような非業の死を遂げることはなかったはずであった。

 秀吉にしても、朝鮮出兵で手柄を挙げた諸大名に対して、身銭を切ってでも知行宛行ちぎょうあてがいしてやっていれば、豊臣家が声望を失うことはなかったのだ。そうでもして人々の苦労に報いておれば、諸大名は秀吉の死後もこぞって秀頼を盛り立てたことだろう。しかし秀吉はそうすることなく薨去し、いまや秀頼の取り巻きは、徳川への復讐しか頭にない関ヶ原牢人ばかりで、豊臣に味方する大名が一家としてない有様だった。

 このころの豊臣は、既に諸大名からの支持をまったく失ってしまっていたのである。

 いずれも

「身辺の警固を怠らないこと」

「手柄を挙げた者には知行を宛がってやること」

 という基本的な武家の法理を疎かにしたがために、天下人の座を転げ落ちた例であった。

 秀吉は、大人になった秀頼に力量があれば、天下を返してやって欲しいと遺言した。その家康が秀頼に天下を返さなかったのは、秀頼にその力量が欠けていると判断したからだ。

 だからといって太閤は

「秀頼に力量がないのであれば殺してもらって構わないし、豊臣を滅ぼしてもらっていい」

 そこまで踏み込んで言っただろうか。

 信長は殺そうと思えば容易だった足利義昭を結局殺さなかった。秀吉にしても、転封の命令に異を唱えた織田信雄を切腹に追い込もうと思えばできただろうに、そうはしなかった。いずれも旧主に当たる人物を殺害して被る後世の悪評を恐れたのである。家康もできることならそういった悪評は避けたかっただろう。

 加えて大坂は孫娘千姫の嫁ぎ先であった。孫の生活の平穏を乱したくないと考えるのは、ごく近い親族であれば当然の心境だったはずである。

 しかし、後世の悪評を恐れたり、孫の生活の平穏を願う心はいずれも家康の個人的な願望に過ぎなかった。将軍を頂点とする軍事的安全保障体制を維持しなければならないという法理を前にしては、たとえ家康のそれであっても個人的な願望など無力であった。

 幕藩体制とは、つまるところ独立国家の連合政権である。連合政権の盟主である徳川将軍は、政権に参加している諸侯と軍事同盟を締結しているのであるから、そういった大名が攻撃を受けた場合、他の大名を招集して反撃を加え、外敵の攻撃から守ってやる義務を負う。将軍だからといって偉そうにふんぞり返っているだけでは駄目なのである。

 後年江戸幕府が崩壊した経過を眺めれば、そのあたりの理論が逆説的に浮かび上がってくる。薩英戦争或いは下関戦争といった外国勢力との交戦に際して、幕府は軍事的安全保障体制に基づく動員を発令することなく、各藩が独自に交戦或いは和平交渉するに任せたために、武家政権としての求心力を急速に失い、まっしぐらに崩壊へと突き進むのである。

 幕末の諸大名にいわせれば

「自分たちはこれまで参勤などの軍役を果たしてきたのに、幕府は外国と戦争になっても助けてくれないではないか」

 といったところだ。

 幕府との軍事同盟が、諸大名にとって片務的で利益がないものと見做されたために、離脱者が相次いで連合政権が維持できなくなったのである。

 そして、片桐且元はごく初期の幕藩体制に参加する諸大名のひとりであった。

 いうまでもなく片桐家存立の根拠は秀吉が且元を取り立てたところにあった。家康はその且元に加増の沙汰を下している。秀吉の人事を否定するのではなく、継承して発展させた形である。

 且元から見れば、豊臣家はもちろんのこと徳川家も主人ということになり、この点に関していえば、太閤恩顧といわれた大名であれば皆似たり寄ったりであった。黒田だの福島だのといった大名も、大名として存在している根拠は秀吉にあり、家康が彼等に加増の沙汰を下して、秀吉人事を発展させているのである。且元だけが特別だったわけではない。

 話をややこしくしたのは、且元が徳川家を盟主とする幕藩体制に参加する一大名でありながら、同時に豊臣家の家老を兼任していたからであろう。

 その点に関する理解は豊臣家にも欠如していたものと思われる。豊臣家の人々は、且元を豊臣家の私臣と誤解し、且元が持つ家康の家臣という側面を見落としていた節がある。もし豊臣家の、たとえば大野治長や織田有楽斎といった面々が、その点を正しく理解しておれば、且元を襲撃しようなど夢想だにしなかったことだろう。

 家康は且元に対する襲撃計画を知って激しく立腹したと伝わる。方広寺鐘銘事件で家康の勘気を蒙っていた且元が豊臣家の人々に襲撃されつつあるからといって家康が腹を立てるのは、一件辻褄が合わないようにも思われるが、家康に言わせれば、徳川家の家臣である且元への攻撃は公儀体制への攻撃と同じなのだから、鐘銘云々とは関係なく腹を立てて当然だった。

 武家の法理を軽んじて転落した信長や秀吉の轍を踏むまいとすればこそ、開戦を決意した家康。

 そこに豊臣との戦争回避を望む家康個人の願望が存在する余地はない。後世の悪評を恐れる心や肉親への情といった個人の事情を踏みにじり、厳然としてあるのは、

「攻撃されたら反撃すること」

 という基本的な武家の法理であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る