不忍池ホットドッグ

真花

不忍池ホットドッグ

 何にもやる気がしないってのは、どっちかだ。

 俺の中にあるべきものが全部出ちゃって空っぽか、俺の中に入って来たものが超過してパンパンか。

 泣き腫らした眼を擦る。涙がもう出ないから、空っぽなのかな。胸に手を当てる。その中にはまだ気持ちになり切らない渦が膨張を続けているから、パンパンなのかな。

 不忍池を見ながらの石段は尻にちょうどよくて、逃げて来た俺のついの住処のようで、陽がゆっくりと高くなるのを感じながら歩く人々を眺める。

――世界は二つに分けられる。何だか分かるかい?

――愛を知っている人と、知らない人?

――お前はロマンチストだね。違うよ。ゆで卵が完熟か、半熟か、どっちが好きかだよ。

 膨大にある記憶の中から、ババ抜きで未知の一枚を引くように声が蘇った。手触りのあるその声音は封じられてなくて、今にまで連なっている。その距離に眼を瞑る。

「世界なんて切り方一つでどうにでも分けられる。もしいつか半熟完熟戦争が起きたとき、俺達はそれぞれの尖兵として戦うか。……戦わない。それは世界の分け方の一つに過ぎないから。俺達は大事にし合う、たとえ世界が黄身の硬さで争ったとしても」

 うろの涙が頬を伝う。誰にも見えない、俺だけの感触。流れるものが虚であるなら、胸の内に起きることは、実。渦がさっきよりも強くなる。もっと重くなる体、眼を開ける。池の上は空。

 空。

「キャア!」

 右斜め前を歩いていた女子二人をカラスが掠めた。

 最近カラスがいやに低く飛ぶ。何かを狙っているのではなく、そう言う遊びを覚えたみたいに。それとも雲が余りに高いから、天を目指すことをやめたのかな。俺は目指さない。呼ばれたって行かない。

「だって本当にそうなのか、分からないじゃないか」

 空に放った声に、通りがけの青年がくるりとこっちを向く。

 進行方向が垂直に変わるときに服が捻れた。その捻れも彼の一歩の力に引かれてすぐに正される。彼の顔が霧のように見えない。俺の真ん前に立つと彼は霧の顔のまま見下ろす、きっと値踏みした、小さな、だけどはっきりとした声をくれる。

「自ら動かず文句を言うのは、愚かを通り越して、豚のやることだよ」

 豚は文句を言うのだろうか。俺は文句を言っていたのだろうか。彼は言い捨てたらすぐに俺の前から去る、俺に反論の機会はなく、だけどするべき反論もないから後ろ姿を見送った。カラスが彼にも突撃した。

 彼の言う通りだ。俺は逃げて来ただけだ。事態はここにない。そこに向かう以外には進む道理がない。

「それが最善」

 呟いて、もう一度納得して、だけど座り続ける。

「最善、だけど」

 右の頬を叩けば顔が左に動くように、「最善」が押した分が出て来た。その匂いを嗅ぎ付けたのか、カラスが二羽俺の足許に群れる。ぴょん、と跳ねる以外は静かで、何もして来ないけどそこに居ることが気持ち悪い。不潔さや危険さではない、手を逆に組んだ違和感に水をたくさんやって育てたような不快さは、多分累積してどこかで限界を迎える。でも、ここがいい。地上げなんてしないでくれ。

 カラスは鳴かない。

 二羽が当然のように落ち着いているから、俺がカラス使いで、低空飛行を指示しているみたいだ。

「どっか行けよ」

 一羽目の顔には、「俺は空っぽだから何かくれたらどこかに行くさ」と書いてあって、二羽目には「俺はパンパンだから何かを出したらどこかに行くさ」と書いてある。

「それをするのはここじゃないだろ?」

 二羽が同時に「カァ」と鳴いた。

 空。空は高いのにどうしてここに這いずっているのだ。

 それはお前が求めたこと、消去法で選んだとしてもお前は一つ。二羽は池の方へ直進して、人々はその様を歩みを止めて見守って、二羽とも柵を潜って池に消えた。水音はしない。

 人の命は空に瞬く星と一対一で対応していて、自分の星と一本の長い糸で結ばれている。その糸が切れるときが死なのか、釣り上げられたら死なのかも、ババ抜きをしながら彼と議論した。それは半熟完熟と同じくらいに二律背反のようで、全然違って、第五案の「糸が絡まったときが死」を述べながら負けた。一度も勝ったことがない。カラスも対応する星を持っているのだろうか。

 あの二羽が低く人間を脅かす犯鳥ではない確信がある。かと言って、水に溶ける鳥とは思わない。巧妙に水際を滑って、どこかで俺の意識の範疇を出て飛び立っている。他のカラスが違っても、あの二羽には星がついている。俺とは別の、だけど同じに、星がついている。その糸を辿ればまた会える。でも、彼の糸はもうない。

 もうないのに、糸がないことと死が、前提にしていたように結び付かない。

 応えのない顔も、結び付かない。

 発せられない声、誰もがそうだと言うこと、そう振る舞うこと、どれもが、結び付かない。結び付かない。嘘だって思いたい訳じゃない。何をしても、それが証明しようとしていることと、証明されるべきことが、対応し切らなくて、そこに羽一枚くらいの隙間があって、ちゃんと分からない。

「じいちゃん……」

 涙を出す程にその隙間が広がった。涙はもう空っぽになった。彼は「悲しいときに泣ける強さを持て」と笑った。胸がいくらでも一杯になった。彼は「自分の想いを受け止められる深さを持て」と胸を叩いた。俺が逃げたのは弱くて浅いからじゃない。

「強く深いから、逃げたんだ」

 遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。

 音の場所を探そうと振った視線に、小さな屋台を引く男性が映り込む。じっくり進み、俺の前、カラスが消えた場所の近くで止まると、ひょいと看板を置く。

「ホットドッグ、美味しいよ」

 男性はさっきまでも同じことをしていた続きの声を出す。千年前からホットドッグを売っているみたいに、当たり前の動き。

「ニューヨークスタイルだよ。美味しいよ」

 彼は俺の方に向いて。俺に言っているのだろうか。

 人々は彼に意識を短く取られて、でも柔らかに元の動きに戻って去って行く。その誰もの顔が見えなくて、俺を呼んでいるホットドッグ売りもそうで、「美味しいよ」の声と屋台だけが彼。

 俯く。人の足が流れて行く。右に左に、流れて行く。彼は間を挟みながら、諦めずに、「美味しいよ」と繰り返す。足で出来た川に呼びかけの橋が掛かるのに、俺はその緒を掴まない。すり抜けるように俯く。段々足が沈んでいって、池が俺の足許まで拡がってもうすぐ溺れる。

 助けは来ない。だってヒーローはもういない。でもいなくなったことが俺はまだ分からない。分からなさの隙間に池の水が流れ込んで来るのが、冷たくて気持ちいい。絶対に間違っているものなのに、もうそれでいいかな、俺の星の糸、彼の星の糸、水に溶けるとは思えない。

「俺は強く深い。俺のものだ。俺の」

 彼の声が聞こえる。美味しい方じゃない、ババ抜きの方だ。

 ずっと聞こえている。でもそれは思い出の中の一枚を並べたもの。新しい声はない。新しい声がもうないから、俺は逃げなくてはならない。強くて深いから、ここにいる。

――自分の信じる方ってのは、自分の人生を預けられる方だよ。背負うものが増えたらその分だけな。

 記憶は断片になっていた。

 彼の言葉の前後に通る、物語が切り落とされて、写真のような切片になっていた。

「じいちゃんは、その後、俺にババを引かせて、俺からハートの七を抜いて上がった」

 必ず彼が勝った。でも俺は次こそは勝つと何度でも挑んだ。いつか勝つまで勝負が繰り返されると疑わなかった。

「上がったじいちゃんは、嬉しそうに笑って、『この選択にだって、人生を預けている』と決めた。俺が悔しがると、もっと笑って」

 星と命の糸が縦に降りて、水の足が左右に流れて、俺は彼に届こうとする意志の矢を奥の、ずっと奥の彼のいたところに向かって、今だって放ち続けている。

 途切れた彼の声が言っている、言われなくても理解している。

「俺がここに逃げて来たのは、沈むためじゃない」

 潮が引くように池の水は元の場所に還り、目の前を流れていた足の一つが俺の前で止まる。

「口を開けて助けを待っているだけじゃ、龍にはなれない」

 さっきの青年の声。

 顔を上げたときにはもう青年は後ろ姿で、またカラスの低空飛行に脅かされていた。そのまま上を見上げると、空、糸の織り込まれた。奥からこっちに投げられるものが初めて正しい距離と位置に当たった。

「美味しいよ」

 俺は立ち上がる。川を歩いて渡る。彼の前に立つ。

「美味しいよ。一つどうだい? ニューヨークスタイルだよ」

 声と屋台の繋ぎでしかない彼の顔は霞の中。

「おじさんは、俺にホットドッグを売りたいの?」

 彼は思案するジェスチャー、言葉を発する直前に彼の口の中に霞が全て吸い込まれた。

「ああ、君に食べて欲しい」

「どうしてです?」

「君にホットドッグが必要だからだよ。売れれば誰にでもってのは商売の範疇で、ホットドッグ売りとして渡したい相手と言うのがいる。それが君だ」

 彼の口に勢いよく俺と彼以外の全てが吸い上げられてゆく。

 俺達は不忍池のほとりに立っていて、歩く人々には顔があって、池には蓮の緑が一面に生え誇って。じりじりした陽光に俺は汗を垂らして、ホットドッグスタンド、看板、彼。

 手を握って、開く。俺だけが吸われていない。

「どうして俺なんです?」

「食べれば分かるよ」

 彼は俺の返事を待たずに手際よくホットドッグを作る。

 渡されたそれを持つと、フランクフルトとザワークラウトの香りが混じって届く。腹を内側に引っ張るような空腹感とそれがポンプになって汲み上げられたような涎。俺は腹が減っている、ようだ。

 彼はじっと俺を見て、何も言わないで、微笑には既に勝利したかの色。

 俺はホットドッグを食べる。

 肉とパンとザワークラウト、俺は生まれて初めて食事をした。星の糸が絡め取ったのはじいちゃんのそれだけじゃなく、俺のもだった。トランプがペアになって捨てられる、だから、俺はババにならなきゃいけない。じいちゃんと一緒にペアになってはいけない、なりかけていた、俺はババにならなきゃ。

「ごちそうさまでした」

「分かったでしょ?」

「あなたは何者ですか?」

「ホットドッグを売る男だよ」

 腹の中に収まったホットドッグが、体中に巡り始めている。俺は強く深くても、それと共に一歩進む準備が出来ていなかった。

 代金を払ったら、元の石段に戻って座る。彼はもう俺の方に「美味しいよ」と呼ばない。

 川だった道を歩く人達は笑っていたり、むすっとしていたり、何かに真剣だったり、俺もここにいる。空と蓮の葉は接しているし、カラスは高く飛んで、ホットドッグが一つ売れた。

「俺はババ」

 俺は事態が起きている場所へ、じいちゃんの場所へ戻る。

「きっと分かる。分かるまでやる」

 後ろでカラスが斉唱して、それが徐々に遠く、いずれ聞こえなくなった。


(了)

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