傘の中。月がとっても綺麗だから、少し、遠回りして帰ろう。
コカ
傘の中。月がとっても綺麗だから、少し、遠回りして帰ろう。
「傘があると、嬉しいのだけど」
放課後の靴箱に、ひとつ。とても綺麗な声があった。
「……ボロで良ければ」
僕は、手に持ったこうもり傘を自慢げに披露して、靴箱から取り出したローファーを無造作に床へと放る。
目を向けた先――昇降口から見えるのは、曇天に覆われた空、水気を含んだ地面、そして、背を向けたあの子の立ち姿だった。
ほんのわずか、こちらに向けられた彼女の瞳は涼しげで、いまひとつ感情が読み取れない。
僕が言えるのは、彼女越しに見える、あの紫陽花とのコントラストが、少女の持つミステリアスな雰囲気と相まって、ただ『キレイだ』というその一言だけ。
今にも泣き出しそうな空を背に、ふと、彼女が腕をさする素振りを見せた。
同時に、雨気を含んだ風が、雨の匂いを連れてくる。
つい先日、我が校の制服も夏仕様となり、季節的には夏本番まであと少し。梅雨真っ盛りな今は、一雨一度にはまだ早い。だけど、夏服に変わることで、あの子のその白磁のような滑らかな手足が外気に触れる面積が増えた。だからかもしれない。
僕にとっては、熱を逃がす気持ちのいい風なのだが、……細身の少女はどうやら寒さを感じているみたいだ。
そういえば、衣替えの初日、「どう? 」なんて、抑揚のない声のまま、僕の前でくるりと回って見せたのはどういう意図があったからだろう。
朝の教室で、登校して早々に僕の席までやってきたと思えば、挨拶もなしに彼女の柔らかな髪と、おろし立てのスカートがふわりと翻るものだから、そんな光景を前に、こちらとしては例の一言を口にするより他はない。
「キレイだよ」
その柔らかな横髪を耳にかけながら、嬉しかったのかどうなのか。
「そう」
彼女の返しも淡々としたモノ。その後ろで、クラスの男子達が騒いでいたのはまだ記憶に新しい。
……湿気に濡れた世界に、もう一度、彼女の声が溶ける。
「また、すぐに雨が降るわ。きっとね」
僕は急ぎもせず靴を履き、無言で少女の隣に立つ。まだ16時を少し回ったくらいだけど、あの分厚い雨雲のせいか、すでに辺りは薄暗く、夕暮れの終わりも目と鼻の先。すぐに夜の世界が訪れるだろう。
つい先ほど、傘を忘れたの。雨が降ると困るわね。なんて、わざわざ僕の目を見ながら呟いていたもんだから、とっくに帰路についたと考えていたのだけど。
姿を消したのはほんの数分で、実際は、下駄箱の入り口にひとり。曇った空を見上げて立ち尽くしていた。
その姿からほんの少し、もしかしてなんて期待はしたけれど、それでも、僕を待っていたと自惚れるのは早計か。
軽く袖を引かれ、見ると、僕に向けて彼女がスクールバッグを差し出してきた。いつだったか、珍しく強引に押しつけてきた僕とお揃いのストラップが揺れている。
「少し持っていて」
少女の顔ばせは変わらないけれど、こちらとしては、もう慣れたもの。
何も言わずに受け取って、自分の鞄と合わせて二つ。相応の重量を抱えて少女の整った顔を、もう一度なんとなしに見やる。
「なに? 」
「べつに」
キミの横顔に、見惚れていましたなんて言えやしない。
「……そう」
おもむろにヘアゴムを口にくわえると、彼女なりの雨対策だろうか、さらりと伸ばしたうしろ髪を束ねていく。その手慣れた動作と共に、少女の身に纏う香りが、僕の鼻腔をくすぐってむず痒い。
その香気にあてられて、そういえば、――僕は思い出す。
彼女と出会ったあの日。寒い春の朝も、今みたいに雨が降りそうな日だった。
その日は迂闊にも寝坊して、機嫌の悪い空模様の中、念のためにと傘を片手に学校まで駆けていく途中のこと、――彼女がいたんだ。
もう少し走れば校門まで届く。そんな最中、道の途中で傘を両手になにやらと、同じ高校の女子が、あぁでもないこうでもない。少女の表情からは読み取れないが、僕は一目でわかった。
同時に、思案した。
そして、荒れた息のまま立ち止まると、熱を持った体にポツリ。運悪く、雨粒が等間隔に落ちてきた。
当時の僕は、まだ高校に入学したての一年生で、それでいて初めての遅刻がもう目と鼻の先。まだクラス内での立ち位置も確立していない状況で、遅刻しようものなら悪目立ちするのは必然。その上濡れネズミなら、どんな陰険なあだ名がつくか分かったものではない。
僕は、この冴えない見た目通りの、あまり目立つことを良しとしない、おとなしく根暗な人間だ。でも、
「――貸して」
敬語を使わなかったのは、焦りがあったのはもちろんだけど、ネクタイの色で彼女が同学年だということを分かったから。
もちろん僕もわきまえている。わきまえてはいるけれど、雨の中、一人の女生徒が困っているのだ。その様を見過ごせる男子が、はたしてどれくらい居るだろうか。
さらには、目の覚めるような美人だとしたら、どうだ。足くらいは止めるだろう。
そしてトドメに、目が合ってしまったのだから仕方ない。そのキレイな双眸が僕のほうだけに向けられたとあれば、……僕は、そこまで煩悩をコントロール出来やしないのだから、もう観念するより他はない。
――全部言い訳だと言われれば、そうだとしか言えないし、彼女が目を見張るほどの美人だから、下心ありきで助けたのだろうと、そう問われれば否定の言葉なんて出て来やしない。
けれど、それでも、自分と彼女の間にそんな甘い雰囲気なんて訪れやしない。そんなことはわかっている。チャンスなんて微塵もないさ。ただ僕は、
「だめだ。壊れてる」
壊れた傘を、どうにか直そうとしている彼女を、見て見ぬふりは出来なかった。主となる理由はただそれだけで。
もちろん、僕が手を貸したからどうなるわけでもない。少女は突然声をかけられたわりには、あっさりと傘を手渡してはくれたが、結果は言わずもがな。
何が原因かわからないけれど、少女の傘は留め具のツメが動かなくて、開かない。修理なんてやったことないのだから、解決するわけもなく、時間ばかりが過ぎていった。
空が零す水玉は、ますます大粒になっていき、少女の制服にひとつ、またひとつとシミを作る。でも、どうにも開く気配を見せない傘に焦りばかりが募っていき、表情を変えない彼女を前にして、――はじめから、それしか方法なんて無かったんだ。
「使って」
お互いに遅刻を目前に、どうにも急いでいるわけだし、僕みたいなアンポンタンが、いかに足掻いたところで傘の一つも直せやしない。
無駄に時間を使うくらいならと、半ば強引だったけど、自分の傘を差し出した。
何度も言うが、校門はすぐそこだ。全速力で駆ければこのくらいの雨なら、本降りになる前に校舎へと滑り込める。
いよいよ、時計の針も雨脚も、油断ならないものになっていく。
そんな中、
「……あなたが濡れるでしょう」
僕のこうもり傘を間に挟み、初めて聞いた彼女の声は、透明感のある静かな音色だった。
「う」
遅れて出たマヌケな声は、もちろん僕のもの。
「そういうのは、いけないわ」
そして、少女が僕の傘をつかんだまでは良かったけれど、一歩、また一歩と、その華奢な身体を寄せてくるもんだから、――その身分違いの香りに胸が高鳴った。
「ううっ」
彼女との狂った距離感が、僕の脳と、そして胸を焦げ付かせたんだ。
――雨の降る、どこにでもある春の日に、ちょっとしたきっかけが、頭上に広がる雲のようだった僕の心に、淡く火をつけたんだと思う。
スラリとした体躯に、長いまつげ。形の良い瞳と流れるような緑の黒髪。そして、その物憂げな雰囲気が、……恥ずかしいことに、ど真ん中だった。ガチリと自分の好みに合致したんだ。
それは、分不相応な苦しいだけの儚いもの。でも、未だに後悔はしていない。だって、その時に、――僕は彼女に恋をしたのだから。
そのあと、僕は何を言ったんだろうか。女子とここまで近づいたのはいつ以来だろう。女っ気のない人生だったもので、しかも目の前にいるのは、目の覚めるような美人さんなのだから、情けないままあたふたとするばかり。
「ぼ、僕は走るから」
「ですが、」
傘なんて邪魔なだけさ。……だったかな。我ながら美人の前で良いとこ見せようと背伸びしたのだけど、やり慣れないことはするものではない。
僕としては、そんなボロ傘、用済み後に捨ててくれて構わない。そして、今日の出来事をきっかけに、後から恩着せがましく近づいたりはしない。絶対にキミに迷惑はかけない。そう思っていたのだけど。
何か言いたげな彼女の前から足早に去って数分後。
雨のにおいが充満する、そんな下駄箱を前にして、
……しまった。
肩で息をしながらも、火照る身体とは反対に、自分の顔が青ざめていくのを感じた。
僕は、なんてことをしてしまったのだろう。最後に見た彼女の顔が脳裏をよぎる。
そうだよな、そりゃそうだよ。言いたいことがあっただろうさ。なんせ、……僕の手には、しっかりとあるものが。
「どうすんだよ……」
たとえ壊れてるとはいえ、さっき出会ったばかりの彼女の私物が握られていたのだ。
僕が貸した、あの使い古したボロとは大きく違う、とても高そうな、あの少女の傘がしっかりと……。
「……あの時の傘ね」
もうあの日から一年以上は経つのにさ、ついには降りだした雨の中、ふいに彼女がそうつぶやくものだから、僕にとっては忘れたい過去である。言葉を失ってしまう。
あの日、あの時の傘を彼女のもとへと返却したのは、それから一週間ほど後だった。
クラスが別で、それこそあんな美人にこんな僕がどう声をかければ良いのだろうか。変に思われないだろうか。そして、嫌われてはしまわないだろうか。
毎日傘は持ってきていたが、悶々とした考えばかりが、頭の中を堂々巡り。一歩を踏み出す、ただそれだけの事に多大な勇気が必要で。
気がつけば一週間。
これだけ間が開けば、もはや傘を盗んだようなものだ。
もう知らぬ存ぜぬで押し切れよ。僕の中の悪魔が囁くようだったけど、でも、……それじゃダメだから。このままでは、僕の初めての恋心が、後ろ暗い悲しいものになってしまうから。
『――ごめん』
朝の通学路で、彼女を見かけたのは偶然だった。
もう、その時の僕は、これこそ神が与えてくれたチャンスだと、どうにか勇気をかき集め、絞り出した勢いをもって彼女を呼び止めたんだ。
『本当に、ごめん』
もっと言うべきことはあるし、話したいこともある。せめて心証だけでも悪くしないような、そんな対応もあるだろう。
だけど、深々と頭を垂れ、傘を差しだすだけで言い訳すら出来ない口ベタな僕に、目の前の彼女はしばらく無言を貫いて。
はじめは、どうして無言なんだと恐怖したが、……ふと、そりゃそうだと、僕は後悔に襲われた。
なんせ、ここは皆が行き交う通学路。しかも、一番混雑する朝の時間帯ときている。
そんな和気藹々とした道端で、一人の冴えないヤツが、それこそ可憐な女子を前に、詫びながら頭を下げているのだ。……こんなの注目の的どころではない。
周りを歩く皆、好奇心旺盛な年頃だから、次の瞬間にはどんな笑い話になっていることだろうか。
彼女の気持ちを考えれば、迷惑以外の何物でもないじゃないか。多感な思春期の少女である。周りの目というモノを考えるべきだった。
これ以上ないくらいの下手を打った。地面を呆然と見つめながら僕としては、終わった。ものの見事に失恋したと、そう確信したのだけど、――まさかと思った。
『……あの時は、ありがとうございました』
僕の手から傘を受け取ると、――行儀の良さというものは、こうも女性の魅力を引き立たせるのか。――顔を上げた先、少女が丁寧に頭を下げてきたのだから、余計にうろたえた。そして、
『あらためてお礼をしたいと考えているの。だから、』
……放課後、お時間いただけるかしら。
その一言から、僕と彼女の関係は続いている。悲しいことに、恋人だとかそういった甘酸っぱい関係ではなく、せいぜい友達が良いところか。
彼女自身、あまり周りと仲良くできるタイプじゃなかったようで、そんな中、似たような僕が近くに居たのだから、そんなところも、彼女にとって都合が良かったのかもしれない。
特に彼女は見てくれが抜群に良いぶん、異性からのアプローチは日常茶飯事。
上手く立ち回れば明日にでも人気者になれるハズなんだけど、これまた、少し言葉が足りないところもあるからね。雑に切り捨てたラブハートは星の数。その結果、恋敵といえばいいのだろうか。同性限定だけど、敵の数も少なくない。
それでいて、あまり感情を出さないところも、周りが距離を置く原因となっている。
だからさ、やめておけば良いのにね。ことある毎に僕みたいな日陰者を頼ってくるもんだから、戸惑ってしまう。
例の衣替えの一件もそうだけど、やれ、手紙で呼び出されたから着いてきてちょうだいだの、わざわざ別のクラスにやってきては今日は一緒に帰りましょうだの。
目立って仕方ない彼女の横に、どうしようもない男がいるんだ。周りからは視線の矢が雨あられと降り注ぎ、感情の薄い彼女だから、その真意が今一歩読み取れず、僕は毎回針のムシロである。
理由を聞いても、ただじっと、ひたすらじっと、僕の瞳を見つめてくるばかりで埒があかない。
迷惑だとは思わないし、イヤではないのだけど、異性からの目という点においては、彼女にとってはメリットよりもデメリットのほうが大きいだろう。それなのに。
――小雨の中を、ふたりの傘が行く。
すぐ隣。チラリと盗み見た少女の顔は、年季の入ったコウモリ傘を手に、いつもの無表情。……いや、少しだけ不機嫌さを感じるのは、僕の思い違いだろうか。
――傘同士がぶつからないように、少しだけ間を開けて、ふたつが揺れる。
でも、その理由がわからないもんだから、僕は、ロッカーに放り込んでいたもうひとつ。こんなこともあろうかと、念のためにと常備していた予備の折り畳み傘の中で、取り繕うように苦笑い。
「……何が可笑しいの? 」
でも、やっぱり何か気に入らないようで。彼女は、無言で傘をくるりと回し、……僕に向け僅かに水しぶきが飛んできた。
おや、これは。
「い、いや。別に」
トゲのある言葉なんて珍しい、それにこの態度とくれば、本当にご機嫌斜めなのかもしれない。
「そう」
……期待したのだけど。
聞き逃すほどの声のあと、彼女が少しだけ歩を早め、――距離の空いた少女の背を、僕は追うように歩く。
ふたりしかいない通学路に、傘を叩く雨音がわずかに響き、他はお互いの足音だけ。
見慣れた交差点を通り、ふたり行きつけのコンビニエンスストアを横目に過ぎる。彼女がだんまりを貫くものだから、いつもよりふたりの時間は短いようだ。……遠くに見える、あの大きな本屋を過ぎれば、もう僕の家。
いよいよ、少女のご機嫌はよろしくないようで、ここまで機嫌を損なったのは、はじめてだ。だから、
「ごめん」
僕には心当たりがないからさ、解決策が見当たらない。こうなると謝るしかない。
理由を見つけていない上での謝罪は、相手の気持ちを逆なでするかもしれないけれど、僕はただ、怖いから。大好きなあの子に嫌われる、距離を置かれる。そんな、彼女との関係悪化を、必死に回避したいから。
「本当に、ごめん」
歩を止めて、振り返った彼女の瞳を見つめる。梅雨空で、傘をさしただけなのに、その少女の姿はずいぶんと絵になる光景だった。
「なんというか……キミの気に障るようなことをしたみたいだ」
だから、ごめん。
シトシトと雨が地面を鳴らし、僕は困ったように頭を掻いた。その様子に、
「あぁ」
……朴念仁。
少女は抑揚なく呟いた。そして、珍しく呆れたように溜息をひとつ。
淡いアマガエルの声をBGMに、それは、たっぷりと間を取った後の一言だった。
「……相合い傘、ってあるでしょう」
どこかで、トタンを叩く雨粒の音がした。
もちろん、その言葉は僕も知っている。それがどういう行為で、どういう意味合いを持つかも知っている。だから、急にどうしたのと、今までなら、その言動がどういう意図か彼女に尋ねただろうけど、だけど、……僕は、次の言葉が出なかった。だって、
「……私も女の子です」
相変わらず表情は変わらないけれど、
「憧れくらい、あるもの」
梅雨空の下で、二歩三歩。
「期待だってするわ」
傘どうしが触れ合う距離で、初めて会ったときの距離感で、彼女が言うんだ。その瞳に、どこか覚悟を決めた雰囲気を感じ、
「でも、今ばかりは傘が二つあって良かったと思う。……だって、」
……僕は、もうどうにかなってしまいそうだ。
彼女が手に持ったこうもり傘を傾けて顔を隠すもんだから、……もはや表情からは読み取れない。でも。
「あなた、顔が真っ赤よ。……勘弁して頂戴」
人のことは言えないだろう。わずかに見える彼女の首筋は、とても真っ赤に染まっていた。
――雨の日は、やはり僕にとって嫌なことばかりではないようだ。
あの日、彼女に出会えたのも。
あの時、僕の心に大切な想いが宿ったのも。
そして今。今日というこの日に、彼女の真意に気がつけたのも、……全て、この雨のおかげなのだから。
静かに濡れた通学路で、雨音だけが鳴る。
僕は広げたままの折りたたみ傘を道に。そして、
「……おじゃまします」
ふたりでは手狭なこうもり傘の中で、彼女の手から、あのボロ傘を受け取った。
傘の中。月がとっても綺麗だから、少し、遠回りして帰ろう。 コカ @N4021GC
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