光の輪郭

鳥尾 佳佑

光の手触り

 仕事の帰り道で通る河川敷で小石を見つけた。平で丸く、掌にちょうど収まりのいい小石。いつもなら気にも留めないのに今日はその小石がとても気になった。私はその小石を思いっきり蹴り上げた。

結婚して十五年。一緒に歩んできた夫が別れようと言ってきた。理由は単純で好きな人ができたかららしい。その女の事を言っていたような気がするけれど、聞く気がなかった。「そう」とだけ言って私はリビングから出ていった。それから夫は少しづつ荷物を部屋から出していった。書斎の机、ペン、本、歯ブラシ、靴、衣服、夫の身に纏う様々な物達がこの部屋から何も言わずにどこへ行くとも言わずに連れて行かれた。夫の大事にしていた石のコレクションは海や川、近所の公園で見つけた私には何がどういいのかわからない代物だった。角が丸くなっていたり、卵形だったり、割れていたり、三角形だったり、微妙に色がついていたり、いろんな種類の石がステンレスの箱にまとめられていた。その一つの石を私はそっと取り出してポケットに入れた。そして仕事へと向かった。通勤途中の電車で「夫の事、ちゃんと理解してあげられなかったな」と遠くに霞む山の稜線を眺めてつぶやいた。そして私のいない間に夫は最後の荷物を連れて行った。代わりに指輪を一つリビングの机に書類と一緒に置かれていた。私は物寂しくなった部屋で書類にサインをする。私は書類を折り畳み、夫の指輪と石と一緒に小箱に入れた。石はポケットに入れている間に三つに割れてしまっていた。

 長い間一緒に暮らした人との生活から一人になってしまった。好きだったはずなのに、どうしてこうなってしまったんだろう。小箱を握りしめて私は眠った。

朝の光で目が覚めて、寝惚け眼で天井を見る。陽の光がカーテンを透かして綺麗な模様を描いていた。その光を見て、光の手触りの事を語ったり、不思議な音楽を演奏していた先輩の事。中学時代、かつて好きだった人とのひとときの記憶を思い出していった。


 彼と初めて出会ったのは中学一年生の頃、部活動に必ず入らなければならない校則があり、友達と入った大して興味のない陸上部に入部した。部員も少なく、設備も整っておらず、強豪校とは言えなかった。だから私のような初心者でも気軽に入部ができた。新入部員は短い距離を一瞬で駆け抜ける華やかな短距離走に目を奪われていた。その先で私はトラックで走り続ける一人の姿を見た。彼は一つ上の先輩。たった一人の長距離走の選手だった。前を見つめて風と共に走り、一定のリズムで繰り出される手足と呼吸、トラックを走る彼のフォームはとても綺麗だった。まるで彼のまわりだけ、時間が止まっているようで、汗の雫までスローモーションで流れていくようだった。彼の足音は音楽のようだった。速くなったり、遅くなったり、強くなったり、弱くなったり、平坦なトラックの決められた距離の中で刻む交響曲のようだった。そこには勝ち負けのこだわりがなかった。ただ偶然、居合わせた見ず知らずの走者とどう音楽を奏でようか、どんなリズムを刻もうか、どうしたら美しい音楽を作る事ができるのか、それに注力しているように見えた。

「走っている人の足音がベースのように心地よくて、それが何人もいてみんなそれぞれのリズムと音を出していて、いつの間にか楕円形のトラックで混ざり合ってひとつの曲を作っている。そこでしか奏でる事のできない音楽、二度と出会うことのない音。そんな音を聴いてみたいと思ったんだ。」

 彼の語るトラックの音楽の話を聞くのが楽しかった。そんな彼の姿に惹かれたのかもしれない。新入部員の種目を決めるとき、私は迷わず長距離走を選んだ。彼とは部活以外では見かける事がなかった。登下校でも移動教室の廊下でも授業中の窓辺から見える運動場でも同じ部活の友達との会話でも彼の話題になる事はなかった。まるで最初から彼はここにいないような、存在を確かめる事ができない人だった。授業が終わり、部活に向かうと彼はすでにトラックを走っていた。私に気付いた彼は少し照れくさそうに近寄ってきてあいさつをしてくれる。少し汗ばんでいる身体は火照っているようで赤らんで見えた。あの頃の彼はまだ成長期の前だった事もあり、同じくらいの身長で目線が同じだった。まっすぐにお互いを見ていられた時期でもあった。彼の瞳がどこまでも澄んでいて、その瞳でこの世界のあらゆる景色を掬い取る事ができる。私はいつまでも彼の瞳を見つめていたい。そう感じた。一緒にトラックを走ると彼は私のペースに合わせてくれた。決して前に出過ぎたりしなかった。息が荒くなり、鉄の味がする呼吸。彼は「下を向かないでもっと苦しくなるよ。」と励ましてくれた。その声は瞳と同じくらい透明で鼓膜の震えがわかるほど響いていた。ふと横を見ると涼しい顔で走る彼がいた。彼の口から流れる吐息はリズムを刻んでいた。それは今まで聴いたことのない心地よいリズムだった。私は息もできないくらい苦しかったけれど、いつまでもこの時間が続けばいいと願っていた。けど、途中で足がもつれて転んでしまった。そこで彼との演奏は終わってしまった。彼は心配そうな顔で覗き込んで、私の顔を見た。「大丈夫?どこか痛い所はない?」私は泣いていた。泣いている私を見て彼は焦って私を背負って走り出した。彼は「どこか怪我してるかもしれないから先生に見てもらおう!」彼の吐息はトラックを走っているときより乱れていた。だけど、そのリズムは私を安心させた。彼の声、背中のぬくもり、心臓の音、乱れるリズムは彼が本当にここにいるって確かめる事ができたのだから。私はきっとこの瞬間、彼に恋をした。


 彼には結局、告白をしなかった。ただタイミングがなかっただけ。それでもよかったと思う。足りない物などなかった。部活の後の静かな夜の語らいは湖で漕ぐボートの上でささやく波音を聴くかのように心地よかった。いつまでも漂っていたいほどに。太陽が昇ってこなければいいのにと願ってしまうほどに。その時間を一緒に過ごせるそれだけで私達は特別な関係を結べていると思っていた。


 彼と初めて遠出をしたのは一つ学年が上がった夏休み。秋の大会に向けて各学校で合同練習をしたときだった。各競技ごとで場所は違っており、長距離走は彼と私、二人で向かう事になり、各学校を取りまとめる担当の先生は現地にて集合となった。彼と私は最寄り駅で待ち合わせた。集合時間よりも早く到着していた彼はいつも通り少し照れくさそうにあいさつをした。ほぼ毎日練習で見ているはずなのにいつの間にか目線の位置が高くなっていて、手も肩も足も一回り大きくなって逞しくなっていた。やってきた電車に乗り込み、たわいもない会話をして過ごしていた。彼の声はすっかり声変わりをしていて喉の凹凸がはっきりと見て取れた。夏の日差しが車窓から見える湖を反射して車両の天井に光の模様がゆらゆらと揺れていた。

「光の手触りってどんな感じなんだろうね。」

彼は天井を眺めながら問いかける訳でもない口調でつぶやいた。

「光の手触りですか…うーん、暖かいとか冷たいとか…ですかね?」

「ごめん、急に変なこと言って…でも気にならない?光って日常どこにでも存在するのにその感触は誰も知らないんだよ。理科の授業で習った可視光線でも人間が認識できる光はほんの一部なんだ。とてつもない存在が僕らのすぐ隣にいるのに触れる事も見る事もできない。それにさ、太陽の光は八分前の光らしいんだ。触れる事ができてもそれは八分前の手触りって事になるのかな?だとしたら光に触れる事は過去に触れる事になるのかな。」

天井のきらめきはトンネルに入って消えてしまった。長い長いトンネルだった。

光の手触りについて語っていた彼はいつの間にか眠っていて規則正しい呼吸をしていた。それはトラックを走っているときとは違う深い深い森で動物や虫達がひっそりと息をひそめているかのような静けさだった。電車の車輪の音、人のざわめき、トンネルの反響音、自分自身の鼓動、彼の呼吸。その音が混ざりあって美しい音楽として鼓膜に響いていた。私は自分でも気づかないうちに彼の手に触れていた。その手はまるで赤ちゃんの体温のように温かかった。彼が起きない事を祈り彼の肩に寄りかかりながら私は目を瞑り、深く深く眠りに落ちて行った。


 夢を見ていた。広い海辺を走っていた。波打ち際をゆっくりと。少し先には彼がいた。彼も走っている。いつもと同じように。自分の足音と共に走る仲間の足音を聞いて、自分だけの音楽を奏でていた。ただ私には波の音だけが聞こえていた。他には何も聞こえない。彼の事は何も知らない。彼と私の間もこの波と同じように寄せては引いてを繰り返す。夢の中で私はいつまでも彼の背中を追いかけていた。彼の辿った道ではいまどんな音楽を奏でているのだろう。光は過去に触れるのかと言っていた彼の作り出した音楽をいつまでも覚えていられるように祈りながら、私は目が覚めた。


 各学校の合同練習は滞りなく進み、無事に終わった。毎日グラウンドで汗を流し、他校の生徒と他愛もない会話をした。その中で仲良くなった人もいた。不思議と彼はどこで何をしているのかわからなかった。一度だけグラウンドで試合形式で走るそのときだけ彼の姿を見た。突出して速いわけでもなく遅いわけでもなかったけど、やっぱりフォームが美しかった。美しい音色を奏でるためだけの洗練されたフォームだった。他の選手もそれぞれのペース配分を守りながら走る様子を伺いながら共に走っていく。レースの中心は彼だった。それは慎ましくて選手達の奏でる音色を上手に掬い取っていた。目を閉じれば聞こえてくる音楽はきっと私にしか伝わらない。誰も気づかないその演奏会はこの世で最も尊い時間だった。周りにはたくさん人がいるのに、彼の素晴らしい演奏は私にしか聞こえない事は私自身の中だけに留めておいた。

これは私だけの宝物だから。この鼓膜の震えは私だけの物だから。


 秋の大会のあと、彼の姿を見る事はなかった。部活を引退して受験の時期でもあったから他の先輩を見る機会もなくなった。ただ彼だけは廊下ですれ違う事も話題になる事もなかった。なにより、もうトラックで走る彼の姿はどこにもなかった。そして冬が過ぎて春になり、三年生になった私はなんとなく陸上部にいる意味が見つからなくなって辞めることにした。適当な理由をつけて顧問の先生にその旨を伝えると「そうか、お疲れさん。」と一言だけ声をかけてくれた。もともと成績がよくなかった部員だったから気にも留められなかったのだろう。そうして短かった部活動はあっけなく終わりを迎えた。

 中学を卒業した私は地元の高校に通い、彼がいないという以外、何の変化もない生活を送っていた。なんとなく彼を探す私がいた。陸上部のトラックで走る人を眺めていたり、大会の会場に足を運び観客から母校を応援するフリをして彼を探した。そんな日々を過ごした高校時代。まわりは将来のことを思い描いているのに私はいまだに何も進めないでいる。私はただ彼がいたという証をきちんと留めておきたい。そんな思いで彼の作った音楽達を鼻歌で歌う癖がついた。そうして私は少しずつ大人になっていった。


 彼がいなくなって何年経ったのだろう。部屋のベランダに出て夜風に触れた。冷たい風が頬を伝う。彼との思い出にはいつも音楽があった。他の誰にも聴こえない二人だけの音。心のどこかでもう彼は帰ってこないのだろうと思いながら少しだけ鼻歌で歌ってみる。曲を作った主のないその鼻歌はどこかいびつで頼りなく夜空へと消えていった。 

 大人になった私は知人の紹介で夫と出会った。初めてのデートで電車に乗って遠くへ出掛けた。湖に浮かぶ小さな島へ行こうと誘ってくれた。車窓から見える湖の光が反射して車両の天井に光の模様がゆらゆらと揺れていた。車両には二人しかいない。私は誰にも聴こえないくらいの小さな鼻歌を歌った。誰にも聴こえないはずなのに夫は「綺麗な曲だね、なんだか鼓膜にそっと語りかけてくる。懐かしい気分になる曲だよ。」と言った。そして夫は私の手を握ってくれた。その手触りはかつて彼を握ったときの体温と同じだった。



寝ぼけ眼の寝室。天井の光の模様はゆらゆらと揺れていた。私は小箱を握りしめていた。

「君はまだ走っているのね。私が追いつけないほど遠くまで。もう君の演奏を聴けなくなるのが寂しいけど、私はずっと覚えているよ。」

いつまでも私の鼓膜に響いている。

まどろみの底、目を瞑る。またたきの先、きらきらと。

いま、耳を澄まして彼の声。

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光の輪郭 鳥尾 佳佑 @tori-no-oppo

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