見知らぬ指輪

増田朋美

見知らぬ指輪

見知らぬ指輪

その日は、いつもより暑い日で、ほかの日に比べると湿気の多い日でもあった。そういう日だからこそ、ストレスがたまって、嫌な思いをすることもあるだろう。暑いと、何か困ったことが起こりやすくなる。そういう日かもしれない。

その日の午後、竹村さんは、富士市内にあるフリースペースを貸してもらって、大規模なクリスタルボウル演奏会を開催させて貰うことになった。大人数と言っても、20人程度の人数が集まる程度だから、コンサートホールでも貸し切って行うリサイタルというようなモノではない。皆、部屋の中に用意した椅子に座ってもらって、竹村さんの演奏をリラックスして聞いているのである。

「それでは、本日の演奏は以上で終了いたします。それでは、皆さん、お気をつけてお帰り下さい。」

竹村さんは、演奏が終わると、持っていたマレットをおいた。聴衆は、すぐにかえってしまう人もいるが、中にはそこに残って、一寸ほかの客としゃべっている人も見かけられた。

竹村さんが、クリスタルボウルを、布で拭いて、専用のケースにしまおうとしていると、

「あの、すみません。そのクリスタルボウルという物は、非常に難しい物なのでしょうか?」

と、一人の女性が、竹村さんに声をかける。

「ええ、確かに、叩く順序や、マレットの持ち方等にはコツがありますが、そこを覚えれば、たいして難しい技術ではありません。」

と、竹村さんは言った。

「そうですか。どんな、ヒーリング効果があるんでしょうか。単に気持ちが落ち着くだけではなく、ないか医学的に証明されている物があるでしょうか?」

と、彼女が聞いてくるので、竹村さんは、

「ええ。脳波が安定して精神の緊張をほぐす事ができると言われています。最も、専門家にならなければ、そういう知識はえられないですけど。」

とりあえず答えた。

「何か、クリスタルボウルに興味でもおありですか?」

竹村さんが聞くと、

「ええ。私も、何か仕事をしてみたいなと思いまして。」

と、彼女はいうのだった。

「私もそういう癒しの仕事に興味があって、それで何か習ってみたいなと思っているんですけど。何をやっても長続きしなくて。それで今回クリスタルボウルにトライしてみようかなと思ったところです。」

「そうですか。まあ、癒されることと癒すことは、全然違います。それを理解して頂いたうえで、習いに来てください。」

竹村さんはとりあえずそういって置く。

「ありがとうございます。私、渡辺真理奈と申します。一寸何処かの女優さんみたいな名前ですけど、その人とは、全然違います。ただの、ダメな人間だと言われています。」

と、彼女はそういうのだった。

「ダメな人間ということは無いと思いますよ。其れであったら、とうの昔に、何処かに収監されているはずでしょ。」

竹村さんがそういうと、

「そうでしょうか。でも、家の中でひとりで炊事や料理などをやって、それで暮らしているんだから、似たような物かもしれません。生活費は、障害年金です。そうなると、世のなかから、もういらないって事になりますよね。政治家から、世のなかへの手切れ金を貰って、細々と生活しているような、物ですよ。」

「そうですか。見方によっては、まだ居場所が決まっていないで、それをえるために知識や何かをえるための準備期間ということかもしれませんよね。なんでも、物事は、善悪ひとつで解決することはできません。良いことの中には悪いこと、悪いことの中には良いことも含んでいます。それに沿って、考えれば、もう少し、あなたも生きているのが楽になるのではないですか?」

彼女の発言に、竹村さんは、そう答えてあげた。

「まあ、そういうことです。物事は皆そうです。良いことも悪いことも、すべての物がそう思われています。今の境遇を、こんな生活もう嫌だとか、悩むことは辞めることから始めるたらどうでしょうか?」

「そうですね。竹村先生。ありがとうございます。先生にお話しができるだけでも奇跡なのに、そんなことをおっしゃってくれるなんて、すごいこと、まさに奇跡です。あたし、これから、ただのダメな人から脱出できるように頑張ります。ありがとうございます。」

と、渡辺真理奈さんは言った。

「ご家族はいらっしゃるんですか?」

と竹村さんが聞くと、

「ええ、と言っても、妹しかいませんですけど。」

と、真理奈さんは答える。

「そうですか。妹さんは、何をしているんですかね。」

「ええ。妹は、医療関係です。あたしなんかよりずっと優秀で、なんでもやってくれるんですよ。」

竹村さんは、明るく答える真理奈さんに、

「できれば、妹さんにも感謝の気持ちが持てるようになるといいですね。」

と、と言った。その時に、真理奈さんの顔が一寸崩れたのを、竹村さんは見逃さなかった。

とりあえず、その日はフリースペースの撤収時間が来てしまったため、竹村さんはクリスタルボウルを、専用のケースに入れ、ではごめん遊ばせと言って、管理事務室のほうへ向って行った。事務所の人に、場所代を払って、帰りのタクシーを待とうとすると、渡辺真理奈の姿はなかった。

其れから数日後の事である。竹村さんは、水穂さんへのクリスタルボウル演奏をするため、製鉄所を訪れた。竹村さんは、演奏会のチラシに入場料の支払いを円滑にするため自分のメールアドレスを書いているのであるが、渡辺真理奈という女性から、連絡が来たことは一度もなかった。そんな事よりも、竹村さんは、ほかのクライエントさんのセッションをしなければならなかったので、彼女の事は忘れていた。

「それでは、寝たままで結構ですから、クリスタルボウルの音を聞いてください。喉が乾いたら、お水を飲んでも結構ですからね。リラックスして、聞いて頂けたら幸いです。」

竹村さんは、縁側にクリスタルボウルを七つ置き、その中心に座ってマレットを取り、ごーんガーンとクリスタルボウルを叩き始めた。何ともいえない不思議な音楽だ。ひとつのクリスタルボウルを叩くと、決まった音以外の、ほかの音が混じって、ごーんガーンと聞こえてくるのである。何だか周りを万華鏡のような屏風で囲ったような世界に連れて行ってくれる。そんな音だった。時々水穂さんが咳こむこともあるが、竹村さんはかまわずに演奏をつづけた。

「本日の演奏は終了です。」

竹村さんがマレットを置くと、

「ありがとうございます。おかげで少し楽になりました。」

水穂さんは布団から起きて、竹村さんに座礼したのであった。

「本当は、水穂さんの食欲を引き出してくれるといいけれど、それは無理なのかな?」

付き添っていた杉ちゃんが、そんな事をいっている。

「それは、無理ですね。本人が食べようという気になって貰わないと。」

竹村さんはクリスタルボウルを拭きながら、そういった。

「それでは、竹村先生、これをお納めください。」

水穂さんが竹村さんにお金を渡すと、竹村さんは領収書を書いて水穂さんに渡した。

それと同時に、玄関先から廊下をどかどかどかと歩いてくる音が聞こえてきて、富士警察署の刑事課課長を勤めている華岡保夫が、いきなりふすまを開けて、四畳半に入ってくる。

「竹村優紀さんですね。クリスタルボウル奏者の。すみませんが、一寸お話しをお伺いしてもよろしいでしょうか?」

そういって華岡は警察手帳をちらりと見せた。

「何ですか。今セッションが終わったばかりなんです。そんな時に、部屋に入ってくるのは幾ら刑事さんであっても、辞めてもらえないでしょうかね。」

と、竹村さんがいうと、

「ほんとだほんとだ。セッションがちゃんと終わってから、来てもらいたいな。」

と、杉ちゃんもいった。

「いや、すまんすまん。実は、先日というか、6月3日、富士の中島のマンションで、女性の遺体が発見された。発見したのは、家賃を取り立てに来たマンションの大家だ。名前は、マンションの住人で、看護師の渡辺七海。彼女は、現在無職の姉真理奈と二人で住んでいる。死因は頸動脈を切ったことに寄る失血死で、凶器の包丁は、遺体の近くに落ちていた。指紋を調べてみたところ、凶器の包丁には、指紋はすべて丁寧に拭き取られていて、何も確認できなかった。」

「ああ、そんな事件の概要なんて、言わなくて良いからさ、早く本当の事を言ってくれ。で、その事件について、竹村さんに何か聞きたいことでもあるわけ?」

と、杉ちゃんが華岡の話しに割って入った。

「最後までいわせてくれよ。渡辺七海が誰かに恨まれていたとか、そういうことはなかっただろうかと調べてみたところ、渡辺真理奈とあまり仲がよくなかったということが分かった。近所の住人の話によれば、二人が口論している声が、よく聞こえてきたそうだから。」

と、華岡は、話をつづけた。

「もう、もったいぶらないでくれ。水穂さんだっているんだ。お前さんの長話を聞いている暇はないんだよ。其れよりも、早く用事を話してくれ、短く、簡潔にな。」

杉ちゃんにそういわれて華岡は頭をかじった。

「すまんすまん。話しが長すぎて申しわけないな。それで、その渡辺七海が死亡したとされる時刻、二時から三時、その間に、渡辺真理奈が、何をしていたのか。教えてもらえないだろうか?」

「ああ、そういうことですか。其れなら簡単です。彼女は、僕のクリスタルボウルセッションに来ていました。演奏が終わった後で、僕にクリスタルボウル奏者になるにはどうしたらいいのか、ということを聞いてきたのでよく覚えています。確かあの時は、三時に演奏を終えて、彼女と30分ほど話をした後、フリースペースの使用料を払うために事務所に行きました。僕が事務所を出た時は、もう彼女の姿はありませんでしたので、彼女は家に帰ったのかなと思っていました。それは多分、四時ごろだったと思います。」

と、竹村さんは華岡の話しに答えをだした。

「そうか、なるほどね。大家が、家賃を滞納の事で、七海の部屋にやってきたのは、午後三時。その時に彼女、渡辺真理奈の姿はなかった。真理奈が戻ってきたのは、大家が彼女に連絡した為で、戻ってきたのは、四時ちょうど。そうなると、彼女は三時半から四時までの間、何処で何をしていたのだろう?」

華岡は又腕組みをした。

「それは、本人に聞いてみれば一番わかる事だと思うんですが。どうして僕たちに聞きまわっているんです?本人が一番自分の事を知っていると思いますけど。」

竹村さんがそういうと、

「ああ、実はだねえ。真理奈は、五年ほど前から精神疾患の症状があり、辻褄のある証言がえられないという問題があるんだ。忘れてしまったという時もあるし、その時の事を覚えていないとか、のらりくらりと交すばかりで。それが、病気がいわせているのか、本人の意思なのか、それがはっきりしないので、彼女の証言が本当なのか分かんないんだよ。だから、聞きに来たんじゃないか。」

と、華岡はまた言った。

「そうですか。そういうことがあったんですね。確かに僕にも彼女は障害年金で生活しているといっていましたので、精神障害があるのは間違いないとは思いましたよ。まあ、彼女が自分の事をちゃんと

いえないのなら、僕が代わりにいいますよ。彼女は、クリスタルボウルを学びたいと僕に言ってきました。その時の顔は、真剣そのもので、とてもチャラチャラ生きているような様子には見えませんでした。さらに彼女は、自分が障害年金生活者である事を嘆いているようにも見えましたので、僕は物事というのは、必ず悪い一面もあるが、良い一面もあると伝えました。彼女はそれを聞いてとても喜んでおられました。これが僕と、彼女が話した内容です。いかがでしたでしょうか。お分かりになりましたか?」

竹村さんがそういうと、

「そうか、そうなると、彼女が、犯行をしたとは思えないな。しかし、残りの30分、彼女は何処に行っていたのだろう?」

と、華岡はまた頭をかじって、考えこむようなしぐさをした。

「もう、それを調べるのが警察の仕事でしょ。たとえば、その、七海さんだっけ、その女性の部屋から金品が持ち去られていたとか、そういうことはなかったの?」

と、杉ちゃんに言われて華岡は、

「いや、それはなかった。何かが持ち去られていた事は全くない。それに部屋に争ったような感じも

ない。でも、遺書も残していなかったし、指紋が拭き取られていたということも気になるんだよなあ。」

と、言った。

「はあ。そうなんだねえ。でも、物色した様子がなかったっていうんだったら、他殺ではないような気もするけどね。」

杉ちゃんがそういうと、華岡のスマートフォンがなった。

「ああもしもし、華岡だ。ああ、え?指輪がひとつ?そうか、分かったよ。それは今、誰が持っているのか、とにかく調べてくれ。捜査会議には、後一時間あるはずだが、え?後15分しかない?」

華岡がそんな風に話していると、電話の奥から、部下の刑事がこういっているのが聞こえてきて、杉ちゃんたちは思わず笑いたくなった。

「もう!時計を壊したままにしておくからですよ!警視も誰か世話をしてくれる人がいないと、新しい時計を買う気にもならないんですね!」

「ああ、わかったわかった!すぐ行くから、そこで待っててくれ。多少遅れても、勘弁してくれよ。」

と華岡は急いで電話を切った。

「刑事さんも大変ですね。時計を壊したままにしておくなんて、華岡さん、もうちょっとしっかりしてくださいね。」

竹村さんが一寸ため息をついて言うと、

「それで、指輪がひとつと言っていましたが、誰の指輪なんですか?」

と、水穂さんが疲れた表情でそういうと、

「ああ、渡辺七海の宝石箱から、プラチナの指輪が一つなくなっているそうだ。でも、七海の指にははめられていなかった。しかしね、おかしなことに、その指輪以外の宝石は、盗まれておらずそのままになっていた。七海は、アクセサリーが好きで、自分用の宝石箱を持っていて、ちゃんと内容物まで紙に書いて纏めているようになっている。その中に唐草模様のプラチナの指輪があったと書いてあるが、それがなくなっている。」

と、華岡は答えて、すまないが捜査会議があるので、と急いで部屋を出ていった。

「全く、警察も困ったものだな。刑事ドラマとは全然違って、なんか仕事なんか真剣にしないで怠けているように見える。」

杉ちゃんがそういうと、

「プラチナというからにはかなりの高級品ですよね。よほど思い入れがあるか、持ち主がよほど富豪でない限り、手に入れられない指輪ですよ。多分、宝石箱の中身をすべて紙に書いているというのは、お姉さんが自分の物と他人の物が区別できなくなっているという症状があるからかもしれないですよね。それは、僕もわかりますよ。精神疾患を持っている方で、そういう症状がある方を相手にしたことがありますから。僕のマレットまで取られそうになったこともあるんです。」

と、竹村さんは言った。

「と、いうことはだよ。七海さんの指輪を、真理奈さんが、その症状があるがために、区別がつかなくなって持ち去ったんじゃないかな。プラチナの指輪というくらいだから、誰か好きな人がいて、その人に貰ったんだと思うんだよね。記念の指輪を取られた彼女は、もうこんなお姉さんを持つのは嫌だと思って自殺した。これが一番じゃないの?」

杉ちゃんが、竹村さんの話しに乗った。

「そうですね、精神疾患は患者さんとご家族だけでは対処できないものですからね。多分杉ちゃんの推理が正しいと思います。そして、最も恐ろしいことは、患者さんと長期にわたって接し続ける場合、ご家族も次第に常軌を逸してくるということですね。そうならないように、精神疾患の場合は、早く頼りになる他人を探すのが一番の治療法なんですよ。」

竹村さんのいう通りだ。それができなくて、凶悪なやり方で患者を殺害してしまったという事件は、現在も増加しつつある。その犯人は大体が患者の両親である事が多い。

「そうだねえ。しかし、しかしだよ。彼女、渡辺真理奈さんは、空白の30分のあいだ、何処で何をしていたんだろうかな?」

「まあ、本人に聞くということは、まずできないと思いますから、周りの人に聞き込みをするしかないですね。」

杉ちゃんと竹村さんがそういいあっていると、水穂さんがせき込み始めた。おい、しっかりせい、と杉ちゃんは急いで薬を飲ませて、せき込むことをやめさせた。

「僕はきっと。」

せき込んだのがやっと落ち着いてくれた水穂さんは、杉ちゃんや竹村さんに向って、こういったのである。

「多分、そのプラチナの指輪を何かしに行ったのではないでしょうか。たとえば、七海さんの指が指輪のサイズより太かった。それで、何とかしようとしたのではないかと。」

「そうか、その可能性もないわけじゃないけど、、、。」

と杉ちゃんが一言言った。

「多分、障害年金がどうのということは、お互い患って長かったと思うんです。それで、妹さんの方も正常な判断ができなかったのかもしれないですよね。」

水穂さんは、静かに言った。

「そうですね。その可能性は十分にありますね。正常な判断ができないほど、長期にわたって、困窮した生活に立たされている精神疾患の家族はいっぱいいますからね。問題は、それを社会から切り離す

しかないところだと思うんです。」

竹村さんも治療者らしくそういう事を言った。しばらくしいんとした長い時間がたった。

一方、華岡たちも、聞き込み捜査でえられた情報をもとに、彼女、渡辺真理奈が訪問したという、彫金師のもとを訪れていた。華岡が、渡辺真理奈がここにやって来なかったかと聞くと、彫金師は、ひとつの指輪を差し出した。

「真理奈さんは、自分のせいで、妹さんの結婚ができなくなると考えていた様です。それで、妹さんが、指のサイズが合わなくて悩んでいたのを目撃したので、私に直してくれと言ってきたんですよ。彼女は、確かに精神的におかしなところがあったかもしれませんが、とても妹思いでやさしい女性です。そこだけは、どうか病気にもっていかれたくないです。」





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見知らぬ指輪 増田朋美 @masubuchi4996

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