ウネンラギア

里市

ウネンラギア



 身体が、揺れる。

 規則正しいリズムと、淡々としたテンポで。


 がたん、ごとん――。

 がたん、ごとん――。


 身体が、揺れる。

 代わり映えのしない、素っ気無い律動の中で。


 がたん、ごとん――。

 がたん、ごとん――。


 スマートフォンの液晶画面。意味もなく目を通す、退屈なSNS。ページを流していく、蒼いネイルの指先。俯き気味の顔で、眺めていたけれど。


 がたん、ごとん――。

 がたん、ごとん――。


 やがて痺れを切らしたように、彼女は画面の電源を落とす。

 鞄の中に放り込むようにスマートフォンをしまい、ゆっくりと顔を上げた。青い水晶のイヤリングを僅かに揺らしながら、十八歳の少女はぼんやりと目線を動かす。


 座席に腰掛ける身体が微かに震える。速度を上げた車両が揺れて、無機質な振動が伝わってくる。

 ウルフボブの黒い髪を、少しだけ窓に寄り掛からせながら。吊り目気味の眼差しで、“莉緒”は過ぎ去っていく風景を見つめる。


 視線の先、景色はあいにくの曇天。隙間一つもない、真っ白な天井。蓋をされたかのように、青空は覆い隠されている。

 延々と続く郊外の住宅街を尻目に、電車はただ黙々と走り続ける。静寂と共に、時間は流れていく。


 平日の真っ昼間、秋も半ばという時期。

 郊外――というより、殆ど田舎の路線。終点へと向かう列車に身を委ねて、ただただ待つだけ。他に乗り合わせている者はいない。

 こんな時期に“海へ行こう”だなんて。若い女子のふたり旅という現状を俯瞰して、莉緒は改めて奇妙に思う。


 そう、乗客は二人の少女のみ。窓辺の座席に座る莉緒の右隣には、“もうひとり”が腰掛けている。


 セミロングの茶髪。焦点の合わない、淀んだ黒い瞳。右手には白い杖を携えて、左手の指先で莉緒の上着の袖を掴む。自分自身の居場所を確かめるように、しっかりと。


 音と振動。鼓動と温もり。

 耳と鼻と、手のひら。

 過ぎゆく時間の中、彼女はささやかな感覚に触れる。

 ただひとつだけ。彼女に捉えられないもの。

 彼女の世界には、光がない。

 彼女の識る手触りから、色彩だけが欠落している。


 何も、視えない。だから彼女は、触れて感じる。

 そんな姿を、莉緒は微かに見やる。ぼんやりとしたその面持ちを、無言で見つめたのち。


「――ヒバリ」


 視線を動かし、案内表示を確認し、莉緒は彼女に声を掛ける。

 虚空へと顔を向けていた“ヒバリ”は、隣に座る莉緒の声に微笑む。


「莉緒、いま何時?」

「十四時半くらい」

「駅、もう着く?」

「うん。もうすぐ」


 ヒバリの問いかけに、莉緒が答える。それから間もなく、車掌のアナウンスが車内に響く。

 まもなく終点、終点です―――どこか気怠げな声と共に、車両は少しずつ速度を落としていく。


がたん、ごとん、と。単調だったリズムは、停滞へと向かう。電車はゆっくりと、その動きを緩めていき。閑散とした駅のホームへと辿り着いて、やがて停車をした。


 自動ドアが開き、莉緒は立ち上がる。彼女に導かれるようにヒバリも立ち上がり、先導する莉緒の右肘の上を軽く握る。互いに歩調を合わせるような緩やかな速度で、そのまま二人は歩き出す。


「ほらヒバリ、右足……気を付けて」

「大丈夫、もう慣れてるし」

「マジで気を付けてよ、乗り降り」

「なんとかするって」


 莉緒の心配をよそに、ヒバリはニヤッと笑う。

 ほんの僅かに振り返って、莉緒は視線を向けた。


「ていうか、車椅子とか使わなくて大丈夫なの?」

「うーん、別になんとかなる。ちょっと痺れるだけだし」

「……まあ、気を付けてよ」


 白い肌に二重の瞼が際立つ、整った顔立ち。どこか大人びた雰囲気を纏いながら、無邪気な笑みを見せている。そんなヒバリの姿は、相変わらず可憐で、綺麗で。

 ――だというのに。その顔は、貼り付けられた仮面のようにも見えて。


 やがて莉緒は、自らの中に浮かんだ想いから目を逸らす。


「思ったより寒い」

「寒いねえ」


 駅のホームに降りて、思わずぼやいた莉緒の一言に、ヒバリはにやにやと言葉を返す。ボアのデニムジャケットのポケットに両手を突っ込み、ふぅと息を吐く莉緒。ベージュのセーターを纏うヒバリもまた、ひんやりとした空気に身を縮こませる。


「ヒバリ、先にメシ食べる?」

「うん、お腹すいた」

「おっけ。てか駅前なにあんだろ」

「マック食べたい」

「雰囲気的に無さそう」

「マジかぁ」


 ヒバリを誘導して、共にホームを歩いて。その不器用な歩幅に合わせながら、莉緒は改札へと向かう。


 ヒバリの歩調は、少しだけいびつだ。

 左足を、前に出し。

 右足を、引きずる。

 その繰り返し。

 両眼の視力はなく、右手の杖を頼りにして。

 融通の効かない右側の脚を引っ張るように、彼女はよろよろと歩く。


 そんな彼女を何度も見やりながら、莉緒は心の奥底に想いを押し込める。

 虚しさ。寂しさ。感情が、ふいに掻き混ぜられる。

 どうして、ここに来てしまったんだろう。自分自身に対して、そんな疑問を抱きながら。駅の改札を出て、莉緒はヒバリと共に曇り空の下へと赴く。



◆◇◆◇



『デビューするらしいよ』

『誰が?』

『ヒバリちゃん』


『いきなりセンター抜擢だってさ』

『ふーん』

『まぁ、妥当でしょ』

『それもそうだわ』


『ヒバリだしね』



◆◇◆◇



 閑散とした駅前の定食屋で、遅めの昼ごはんとして安いカレーを食べて。腹拵えを済ませた二人は、ローカルのバスに乗り込む。

 揺られること十五分――海辺近くの住宅地のバス停に、二人はぽつんと降り立つ。


 寒々しい風に、ほんの少しだけ足を止めた後。

 行くよ、と莉緒がヒバリを促し。

 住宅が並ぶ辺鄙な道路脇を、歩くこと十分ほど。


「着いたよ。海」

「海、近いなあ」


 秋の曇天。青と灰色に濁った水面。

 ささやかな潮風と、穏やかな波。

 静寂に包まれて、何処か物寂しげに映る、そんな海。

 こじんまりとした海岸とは裏腹に。

 虚しげな海原だけは、延々と、呆然と、果てまで広がっていた。


「あんた昔来てたんでしょ」

「うん」

「何であんたが初めて来たみたいな反応してんの」

「めっちゃ昔だからそんな覚えてないの」


 そこには――有り体に言えば、何もなかった。

 中途半端な広さの浜辺。観光客は勿論、地元の住民らしき人影もない。濁った砂浜が更地のように横たわる中、もう使われなくなったと思わしきボートが一隻だけ取り残されている。錆びた船体の上には数匹のカラスが居座り、かあかあと鳴き続ける。


「莉緒、どう?」

「……哀愁半端ないわ」

「田舎だもんねえ」


 へへへ、と笑みを零すヒバリ。そんな彼女を何とも言えぬ表情で一瞥しつつ、莉緒は先導する。そのまま二人は、歩道と海岸を繋ぐささやかな石の階段へと腰掛けた。

 隣合わせで座り合い、二人は真っ直ぐに海と向き合う。


「何もないね」

「でしょ、莉緒」

「そこで得意げにされてもな」


 波の音が、黙々と響く。風情がある、というには寂しげで。まるで忽然と取り残されたかのような感情を、莉緒は抱いてしまう。

 誰もいない浜辺。ふたりきり。世界から皆いなくなって、自分達だけが取り残された。何処かそんな感覚に、囚われていた。


「ここ来るの、ほんと久々だなぁ」


 静かな海の音を聴き、ヒバリはそんなふうにしみじみと語る。

 虚ろな眼差しを虚空に向けるヒバリを、莉緒は複雑な面持ちで流し見る。


 “海に行きたい”なんて連絡を寄越してきたのは、ヒバリの方からだった。小さい頃にこの辺りに住んでて、偶に家族と海水浴に来てた、とのこと。地味な土地で観光客にも乏しいので、気ままに楽しむにはもってこいだったらしい。


「夏だったら莉緒と泳げたんだけどねぇ」

「泳げるの?」

「そこは莉緒の頑張りでなんとか」

「アバウトさがヤバい」

「えへへ」


 久々に誰かと行きたい。一緒に行こう。

 そうして白羽の矢が立ったのが、何故だか莉緒だった。

 “海に行く”以上の目的は、特になかった。この秋空の下で泳ぐ訳もないし、何か観光でもするような宛がある訳でもない。

 文字通りのノープラン。なんの展望もない。少なくとも、莉緒は何も聞いていない。だからこうして意味もなく座り込んで、二人で黄昏れることになっている。


「ていうかヒバリ」


 右隣に座っていたヒバリへと視線を向けて。

 目を細めながら、莉緒は呼びかける。


 ポケットから取り出した小さな青い箱。ヒバリはその蓋をひょいと左手で器用に開いており、中に入っていた棒状の菓子を口に咥えていた。

 くい、くい、と口元でそれを上下に動かす。


「相変わらず好きなんだ、それ」

「うん。タバコ」

「ココアシガレットでしょ」

「そうとも言う」

「そうとしか言わないし」


 咥えていた菓子を左手で摘み、ヒバリは緩やかな笑みを見せる。

 そのまま自分の膝の上に乗せっぱなしだった箱を菓子で指差す。


「莉緒、タバコいる?」

「ココアシガレットだし」

「誤差の範囲だって」


 遠慮のない指摘に苦笑いするヒバリを流し見て、莉緒はやれやれと言わんばかりに一息つく。


「ヒバリさ、昔っからそうだよね」

「うん?」

「タバコ咥えてんのは正直ダサい」

「ココアシガレットです」


 都合のいい時だけタバコじゃないんかい――そんなツッコミを入れそうになって、莉緒は言葉を引っ込める。

 ヒバリは昔からこういうやつだった。

 気まぐれで、マイペースで、飄々としてて。

 よく覚えている。莉緒は、今でも。


「見た目の話だから」

「でもカッコよくない?」

「そんなカッコよくないし」

「傷付くわぁ」

「あんまり傷付いてないやつじゃん」


 わざとらしく肩を落とすヒバリは、相変わらず微笑んだままだ。


「莉緒的に、タバコは体裁良くない?」


 そう、彼女はこういうやつだ――けれど。

 張り付いた笑みだけが、あの時と違う。

 莉緒は、気付いている。


「――“アイドル”として、さ」


 やがて、ヒバリがそんな言葉をぼやいて。

 莉緒は――ほんの少し、目を逸らして。

 そのまま数秒ほど、沈黙した。


「まあ、いいんだけどね」


 そしてヒバリが、ぽつりと一言つぶやく。

 その横顔は、どこか苦笑するかのようで。


「どうせデビューできなかったんだし」


 ヒバリの言葉を聞いて、莉緒はふっと視線を逸らして、灰色の海を再び見つめた。

 自分自身が関わったことでもないのに。

 後ろめたさなんて、覚える必要もないのに。


「ねえ、ヒバリ」

「にしても」


 微かに呟いた莉緒の声を遮るように。

 膝の上で頬杖を付きながら、ヒバリはぼやく。


「もう1年と……半年は過ぎてるっけ?」

「……うん。それくらい」

「そっかぁ」


 長かったなぁ、なんて笑うヒバリ。

 ああ、そういえば、もうそんなに経ってたんだ。

 莉緒は、感傷のような想いに耽る。


 灰色の海は、相変わらず淡々と波打っている。

 曇天に濁った空に見下されながら、淡々と時間は過ぎていく。



◆◇◆◇



『莉緒も、まぁ頑張ってるけど』

『ヒバリと並んでるかと言うと』

『ちょっと微妙だよね』


『莉緒だって凄いんだけどね』

『それなぁ、ヒバリがぶっちぎってるだけで』

『同期なのが運悪かったって言うか』


『ヒバリはほんと凄い』

『でもタバコごっこはちょいダサい』

『それはわかる』



◆◇◆◇



 気が付けば、会話は途絶えて。

 言葉のないひと時を、二人はずっと過ごしていた。


 何分。何十分。どれだけ時間が過ぎたのかも、分からない。ひょっとすると、一時間近く経っているのかもしれない。莉緒はそんなことをぼんやりと思う。

 時間を確かめる気にはならなかった。この微睡むような静寂に、何となく浸っていたかった。


 どんよりと雲が積み重なった曇り空。

 寒々しく、虚しげに波打つ秋の海。

 時おり吹き抜ける、冷たい風。

 誰一人そこにいない砂浜。

 荒れ果てたボートと、そこに居座るカラス。


 広がる景色は、変わらない。

 停滞したまま、そこに横たわる。

 時間だけが、黙々と歩いていく。

 そんな風景を、莉緒は見つめて。

 ヒバリは、音や匂いで感じる。


 どうして、ここに来たんだろう。なんで、ヒバリに付き合ってあげたんだろう。別に彼女の思い出に付き添う義理もないのに。

 けれど自分は、共に電車に揺られて――この海まで辿り着いてしまった。


 どうしてなんだろう。莉緒の脳裏には、そんな疑問が浮かび続ける。ヒバリと共に往く中で、ずっと、ずっと、考えていた。


 ヒバリとの出会いは、二年と数ヶ月ほど前。

 芸能事務所の傘下にある養成所に同期で入って、初日から顔を合わせていた。

 同じ志望先。同じクラス。同じレッスン。彼女はいつも、莉緒のすぐ近くにいた。


 ヒバリは、向日葵のようだった。

 かつての姿を間近で見ていた莉緒は、そう想う。

 ヒバリはいつだって、眩い光に向かっていた。

 スポットライトに愛されていた。

 彼女が笑顔を振りまき、歌声を奏でれば。そして、彼女がステップを刻めば。

 返ってくるのは、いつだって称賛の言葉だった。


 莉緒は、そんなヒバリを見つめていた。

 莉緒の世界に、いつも彼女はいた。

 陽の光は、空を仰ぎ見る鳥を祝福していた。

 ヒバリは、羽ばたく時を待つ鳥だった。


 ヒバリに付き合って、この海岸まで来たけれど。特にやることもなく、時間の流れに身を任せている。

 そのとき、ヒバリがふいに階段から立ち上がった。白杖を頼りにして、何処か覚束ない足取りで、砂浜へと降りた。


「ちょっと、ヒバリ――」

「写真撮ってよ、莉緒」


 にやっと笑って、ヒバリが言う。

 思わず莉緒は呆気に取られてしまう。


「見えないのに、って思ったでしょ」


 そんな莉緒の思いに先回りするように。


「でも、いいの」


 ヒバリは意に介さず。

 相も変わらず微笑む。


「撮って。見て」


 そして――浜辺の上。

 左脚を器用に軸足にして。

 白杖を頼りに、位置を確認し。

 ひらりと髪をなびかせて。

 くるんと、ポーズを取った。

 まだ見ぬカメラに向かって、左手を差し伸べる。


「ねえ、ヒバリ……」

「莉緒が、私を見るの」


 ヒバリは、にこっと笑う。

 たった一人の観衆。

 たった一人のカメラマン。

 ここにいるのは君だけだと、莉緒を促す。


 莉緒は、沈黙に沈む。何かを思うような、あるいは困惑するかのような、そんな素振りを見せる。 

 何なんだろう。自分は一体、何を求めているんだろう。何のために、ここに来たんだろう。そんな疑問が呆然と横たわっていて、莉緒の胸の内を絡め取っていた。

 そんな困惑と混乱をよそに、ヒバリは莉緒を“見つめ続ける”。見えるわけでもないのに。その虚ろな黒い瞳が、まるで莉緒を捉えているかのように、彼女の方へと向けられている。


「……わかったよ」


 観念したように、スマートフォンを取り出す。

 滑らかな手付きで、カメラのアプリを起動。

そのままゆっくりと、本体を横向きに構える。


「じゃ、行くよ」

「おっけ」


 ぱしゃり。

 にこりと笑って、手を差し出したヒバリ。

 その姿を、莉緒は写真に収める。


「きれいに撮れた?」


 ポージングを解いて、ヒバリが問いかける。


「私なりには」

「自信ないの?」

「カメラマンとかじゃないし」


 自信なさげに莉緒は答える。

 カメラの勝手はよく知らない。たまに自撮りをするくらいで、被写体を綺麗に撮る方法なんて分からない。“アイドル”の姿を綺麗に切り取れるのは、その手のプロなのだから。

 だから遠慮がちに、彼女は言う。


「じゃあ―――」


 それでもヒバリは、その場で微笑み続ける。

 今度は、右手の白杖を顔の側で構えて。

 杖をマイクに見立てながら、左手の人差し指と親指でハートを作る。



「満足するまでお願い」



 ヒバリは変わらず、笑いかける。

 確かにそこにいる、莉緒に向けて。



◆◇◆◇



『莉緒は?』

『ヒバリのとこ』

『あー、そっか』

『うん。今日もお見舞いだって』


『……大丈夫かな、莉緒』

『まぁ……ずっとヒバリ意識してたもんね』


『なんかさ』

『うん』

『悲しいよね』

『……うん』



◆◇◆◇



 ぱしゃり。


 ぱしゃり。


 ぱしゃり。


 ぱしゃり―――繰り返される。


 スマートフォンを構えて、莉緒が撮る。

 灰色の空と海。冷たい海風。物寂しげな舞台を背景に、ヒバリが“たった一人のステージ”を披露する。


 ピースを向けて。ハートを作って。

 両手を広げて。にこやかに笑って。

 まだ見ぬファンに対して、全力で応える。


 記憶に焼き付いている。

 莉緒の心に、刻まれている。

 ヒバリの姿は、いつだって覚えてる。


 ずっと憧れてたし、ずっと羨んでいた。

 ヒバリには、翼があった。空の向こうへと飛び立てる才能があった。

 そんな彼女が、莉緒は妬ましかった。

 どれだけ必死にレッスンを重ねても追いつけないし、周囲からは才能の差を比較され続ける。

 “莉緒は凄いけど、ヒバリには敵わない”。同期の研修生達は、誰もがそう言っていた。


 これから自分の物語が始まると無邪気に信じて、莉緒は養成所へと入った。けれど其処には、最初から超えられない壁があった。

 どうしようもない輝きが、茫然と立ちはだかってた。

 頑張っても、頑張っても、追い越せない。

 莉緒の胸中には、いつだって敗北感があった。


 そんな想いも、気が付けば喪失感へと変わっていた。

 “不幸な事故”。たったそれだけで、終わってしまった。ヒバリの輝きは失われて、莉緒の心に空虚な穴が穿たれた。


 何度も、写真を撮る。満足するまで、撮り続ける。

 ぱしゃり、ぱしゃり、ぱしゃり。波の音。シャッターの音。静寂の中で、それだけが響き渡る。

 気が付けば、小舟のカラス達はもうどこかへと飛び去っていた。


 ぱしゃり。

 何度目かの撮影。もう何回撮ったかも分からない。莉緒はふいに、スマートフォンを下ろす。

 画面には目を向けていない。眼の前に立っているヒバリを、ただ見つめていた。


 ヒバリは、忽然と浜辺に立つ。変わらぬ微笑みを浮かべて、静かに佇む。

 笑顔。そう、張り付いたような表情だった。

 莉緒の記憶と現在が、不協和音を上げる。


 ヒバリの笑顔は、眩しかった。

 可愛くて、綺麗で、真っ直ぐで。

 けれど、それは。

 思い出の中の話だった。


「アイドルみたいに見える?」

「うん」

「どこまでも、飛んでいけそう?」

「……うん」


 ヒバリに問いかけられて。

 莉緒は、静かに答える。

 自分がどんな顔をしていたのか。

 莉緒自身にも、分からなかった。



「ヒバリ、変わらない」



 ずっと追い越したかった、その姿が。

 ずっと妬んでいた、その笑顔が。

 空の彼方まで羽ばたけそうだった、その翼が。

 今では、ひどく辿々しく不自然に見えて。

 表情も、佇まいも、何処かぎこちなくて。

 昔のような輝きは、何処にも見えなくて。

 そんなヒバリの姿を、莉緒は茫然と見つめた。



「全然……変わんない」



 ――そして、嘘をついた。

 卑怯な自分自身を、莉緒は冷ややかに見つめていた。

 “満足な一枚”なんて、撮れていない。きっともう、撮れる筈がない。


 今のヒバリは、ただただ微笑むことしかできない。過去の思い出を頼りに、作り物の笑顔を見せることしかできない。

 それに気付いてしまって。だから莉緒は、嘘をつくことしかできなかった。

 だって。憧れは、憧れのまま葬りたかったから。


 そうして莉緒は、悟った。

 なんで、ヒバリに付き添ったのかって。

 なんで、二人で海に来たのかって。


 きっと、彼女を弔うためだ。

 もう二度と飛べなくなった彼女を葬るために、私は此処まで来ている。

 理由なんてものは、それだけだった。


「ねえ、ヒバリ」


 そうして莉緒は、ふと問いかける。


「なんで私なの?」


 負い目を抱えながら、そんな疑問を投げかける。


「――嘘ついてくれる気がしたから」


 ヒバリは変わらず、微笑みながら答えた。

 莉緒の胸に、ずきりと何かが突き刺さる。

 そしてヒバリの顔を、再び見つめる。


「アイドルの私を、愛してくれてると思ったから」


 寂しげに、妬ましげに、ヒバリは微笑み続けていた。

 もう何も視えないのなら、せめて最後に夢くらいは見たい。そう訴えかけるように、虚ろな瞳を向けていた。


「養成所のみんな、さ」


 そして、ぽつぽつとヒバリは呟く。


「もう誰も連絡よこしてくれないんだ」


 悲しげな声色で、静かに笑いながら。


「今も“私”の相手してくれるの、莉緒だけだよ」


 それからヒバリは、伝える。

 “連れてきてくれてありがとう”、と。


 その感謝に対して、莉緒は何も返すことができず。灰色の風景に佇むヒバリの姿に、言い知れぬ哀しみを覚えた。



◆◇◆◇



【東京都××区で交通事故】

【乗用車が歩道に突っ込む】


【10代女性が重体】

【奇跡的に回復】

【命に別状なし】


【脳を損傷】

【両目失明】

【右脚に障害】



◆◇◆◇



 空は薄暗くなって、雲はじわじわと黒い色を帯び始めていた。冬が近いこともあってか、この頃は夕暮れの訪れも早い。

 二人でバス停のベンチへと座り、バスの到着を待ち続けていたとき。


「ねえ、莉緒」


 ヒバリがふいに、声を掛けてきて。


「ほんとは最近、忙しかったんでしょ」


 そんなことを、投げかけてきた。

 莉緒は思わず、面食らったように目を丸くする。

 あまり気取らせないようにしていたつもりだった。ヒバリの予定に合わせて、何とか休みを取っていた。身内から聞いたのか、それとも何処かで察したのか。

 その答えは、わからないけれど。


「……今度、ユニットのデビューライブやる」


 莉緒は観念したように、ぽつりと呟く。


「センター、任せてもらえることになった」

「よかったじゃん」


 バツが悪そうな莉緒に、ヒバリはふふっと笑いかける。

 このことはヒバリには教えていなかった。負い目のような、後ろめたさのような、そんな思いを抱えていたから。

 莉緒は、何も語っていなかった。


 そうして莉緒は、沈黙する。

 微かに視線を落として、地面を見下ろして。

 無言のまま、思案する。


「どしたの、莉緒」

「やめよっかな」


 不思議に思ったヒバリが問いかけて。

 やがて莉緒は、そんな言葉を吐き出した。

 それから「どうして」と聞かれて。


「なんか……そんな気がして」


 要領を得ない言葉が、出てきた。

 うまく説明できない。

 理由はわからない。


「なんだろ……」


 だけど、何故か。何故だか。

 哀しみが、込み上げてくる。

 夕焼けのように、虚しい気持ちが。

 莉緒の胸の内に、湧き上がってくる。


「……よくわかんないけど」


 そうして、ようやく出てきた言葉は。


「やめたくなっちゃって」


 答えにもならないぼやきだった。

 莉緒の頭に浮かぶもの。

 その脳裏に、焼き付いているもの。

 養成所で、ずっと意識してきた背中。

 妬んで、敵視して、憧れて、追いかけて。

 今ではぽっかりと、心に穴が空いている。


 誰かに心を掴まれて。

 その誰かの青春が砕け散って。

 そうして自分自身も、青春を喪った。

 それだけのことだった。



「やりなよ」



 それでも、ヒバリは笑う。



「飛びなよ」



 乾いた声で、囁きかける。



「どこまでも、さ」



 何かを喪失した笑みを、貼り付けながら。



「飛べ、とーべ―――がんばれ、莉緒」



 何処か戯けて、唄うように。

 取り残された少女に、語りかける。



「がんばれ」



 それはきっと、莉緒の背中を押している訳ではない。

 これから飛び立つしかない鳥を、祝福している訳でもない。



「――――がんばれ」



 虚ろな眼差しが、莉緒を貫いた。

 見えるはずのない両眼で、莉緒を視た。

 ヒバリは変わらず、笑っていた。


 莉緒は、ヒバリを見つめた。

 何かを悟ったように、沈黙して。

 何かを察してしまったように、黙り込んで。

 やがてフッと観念して、諦めたかのように。


「……タバコ」


 自嘲するような表情で、莉緒は呟く。


「ちょうだい」

「あいよ」


 そして、ポンと手渡される。

 莉緒の掌の中に、青い菓子箱が手向けられる。


「箱ごとかよ」

「いいの。全部あげる」


 一本でいいんだけど。そうごちる莉緒に対し、ヒバリは意に介さず彼女の掌に“それ”を押し付ける。


「それ、もういらないから」


 相変わらず、ヒバリは笑う。

 莉緒は、少しだけ呆気に取られて。

 やがて受け入れるように、シガレットの箱を手に取った。





 ヒバリはもう、飛べない。

 “私達”はそれを、やっと受け入れた。





 がたん、ごとん――。

 がたん、ごとん――。


 景色とともに、夜が過ぎ去っていく。

 帰り道の電車。二人だけの車両の中で。

 時間だけが、呆然と転がっていく。


 がたん、ごとん――。

 がたん、ごとん――。


 意味もなく、左手で小さな箱を弄ぶ。

 掌の中にある青い菓子箱を、莉緒は見下ろす。

 暫しの静寂のあと。

 その蓋を開き、中に入ったシガレットを摘むように取り出す。


 口に咥えて、黄昏る。

 ココアとハッカの風味。何とも言えない甘さ。

 リップ越しの唇から、伝わってくる。


 好きでもない味をぼんやりと嗜み。

 莉緒は、無言のままに虚空を見つめる。

 気が付けば、すっかり日は落ちていた。

 何もない住宅地の景色は、暗闇も同然だった。


 茶色の髪が、ふいに莉緒の肩を撫でる。

 飛べない鳥が、首を傾けて。

 安らかな顔で、彼女にもたれかかる。

 瞼を閉ざして、か細い寝息を立てて。

 上着の袖を摘む手も、だらんと垂れ落ちていた。


 自分に寄り掛かるヒバリの姿を、何も言わずに見つめた。

 揺れる電車。走り抜ける車輪の音。言葉のない空間で、彼女はぴくりとも動かない。

 両眼を瞑るその姿は、なにかを終えたかのようで。そんなヒバリを見つめる莉緒の胸の内に、感情が波のように訪れる。

 哀しみのような。切なさのような―――。

 そうして何かを悟ったように、寂しげな微笑を浮かべた。


 やがて莉緒は、ヒバリの肩をそっと抱き寄せた。

 深い眠りに落ちた彼女を、優しく支えるように。

 沈黙に身を委ねた亡骸を、静かに労るように。



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ウネンラギア 里市 @shizuo_

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