ウネンラギア
里市
ウネンラギア
◆
身体が、揺れる。
規則正しいリズムと、淡々としたテンポで。
がたん、ごとん――。
がたん、ごとん――。
身体が、揺れる。
代わり映えのしない、素っ気無い律動の中で。
がたん、ごとん――。
がたん、ごとん――。
スマートフォンの液晶画面。意味もなく目を通す、退屈なSNS。ページを流していく、蒼いネイルの指先。俯き気味の顔で、眺めていたけれど。
がたん、ごとん――。
がたん、ごとん――。
やがて痺れを切らしたように、彼女は画面の電源を落とす。
鞄の中に放り込むようにスマートフォンをしまい、ゆっくりと顔を上げた。青い水晶のイヤリングを僅かに揺らしながら、十八歳の少女はぼんやりと目線を動かす。
座席に腰掛ける身体が微かに震える。速度を上げた車両が揺れて、無機質な振動が伝わってくる。
ウルフボブの黒い髪を、少しだけ窓に寄り掛からせながら。吊り目気味の眼差しで、“莉緒”は過ぎ去っていく風景を見つめる。
視線の先、景色はあいにくの曇天。隙間一つもない、真っ白な天井。蓋をされたかのように、青空は覆い隠されている。
延々と続く郊外の住宅街を尻目に、電車はただ黙々と走り続ける。静寂と共に、時間は流れていく。
平日の真っ昼間、秋も半ばという時期。
郊外――というより、殆ど田舎の路線。終点へと向かう列車に身を委ねて、ただただ待つだけ。他に乗り合わせている者はいない。
こんな時期に“海へ行こう”だなんて。若い女子のふたり旅という現状を俯瞰して、莉緒は改めて奇妙に思う。
そう、乗客は二人の少女のみ。窓辺の座席に座る莉緒の右隣には、“もうひとり”が腰掛けている。
セミロングの茶髪。焦点の合わない、淀んだ黒い瞳。右手には白い杖を携えて、左手の指先で莉緒の上着の袖を掴む。自分自身の居場所を確かめるように、しっかりと。
音と振動。鼓動と温もり。
耳と鼻と、手のひら。
過ぎゆく時間の中、彼女はささやかな感覚に触れる。
ただひとつだけ。彼女に捉えられないもの。
彼女の世界には、光がない。
彼女の識る手触りから、色彩だけが欠落している。
何も、視えない。だから彼女は、触れて感じる。
そんな姿を、莉緒は微かに見やる。ぼんやりとしたその面持ちを、無言で見つめたのち。
「――ヒバリ」
視線を動かし、案内表示を確認し、莉緒は彼女に声を掛ける。
虚空へと顔を向けていた“ヒバリ”は、隣に座る莉緒の声に微笑む。
「莉緒、いま何時?」
「十四時半くらい」
「駅、もう着く?」
「うん。もうすぐ」
ヒバリの問いかけに、莉緒が答える。それから間もなく、車掌のアナウンスが車内に響く。
まもなく終点、終点です―――どこか気怠げな声と共に、車両は少しずつ速度を落としていく。
がたん、ごとん、と。単調だったリズムは、停滞へと向かう。電車はゆっくりと、その動きを緩めていき。閑散とした駅のホームへと辿り着いて、やがて停車をした。
自動ドアが開き、莉緒は立ち上がる。彼女に導かれるようにヒバリも立ち上がり、先導する莉緒の右肘の上を軽く握る。互いに歩調を合わせるような緩やかな速度で、そのまま二人は歩き出す。
「ほらヒバリ、右足……気を付けて」
「大丈夫、もう慣れてるし」
「マジで気を付けてよ、乗り降り」
「なんとかするって」
莉緒の心配をよそに、ヒバリはニヤッと笑う。
ほんの僅かに振り返って、莉緒は視線を向けた。
「ていうか、車椅子とか使わなくて大丈夫なの?」
「うーん、別になんとかなる。ちょっと痺れるだけだし」
「……まあ、気を付けてよ」
白い肌に二重の瞼が際立つ、整った顔立ち。どこか大人びた雰囲気を纏いながら、無邪気な笑みを見せている。そんなヒバリの姿は、相変わらず可憐で、綺麗で。
――だというのに。その顔は、貼り付けられた仮面のようにも見えて。
やがて莉緒は、自らの中に浮かんだ想いから目を逸らす。
「思ったより寒い」
「寒いねえ」
駅のホームに降りて、思わずぼやいた莉緒の一言に、ヒバリはにやにやと言葉を返す。ボアのデニムジャケットのポケットに両手を突っ込み、ふぅと息を吐く莉緒。ベージュのセーターを纏うヒバリもまた、ひんやりとした空気に身を縮こませる。
「ヒバリ、先にメシ食べる?」
「うん、お腹すいた」
「おっけ。てか駅前なにあんだろ」
「マック食べたい」
「雰囲気的に無さそう」
「マジかぁ」
ヒバリを誘導して、共にホームを歩いて。その不器用な歩幅に合わせながら、莉緒は改札へと向かう。
ヒバリの歩調は、少しだけいびつだ。
左足を、前に出し。
右足を、引きずる。
その繰り返し。
両眼の視力はなく、右手の杖を頼りにして。
融通の効かない右側の脚を引っ張るように、彼女はよろよろと歩く。
そんな彼女を何度も見やりながら、莉緒は心の奥底に想いを押し込める。
虚しさ。寂しさ。感情が、ふいに掻き混ぜられる。
どうして、ここに来てしまったんだろう。自分自身に対して、そんな疑問を抱きながら。駅の改札を出て、莉緒はヒバリと共に曇り空の下へと赴く。
◆◇◆◇
『デビューするらしいよ』
『誰が?』
『ヒバリちゃん』
『いきなりセンター抜擢だってさ』
『ふーん』
『まぁ、妥当でしょ』
『それもそうだわ』
『ヒバリだしね』
◆◇◆◇
閑散とした駅前の定食屋で、遅めの昼ごはんとして安いカレーを食べて。腹拵えを済ませた二人は、ローカルのバスに乗り込む。
揺られること十五分――海辺近くの住宅地のバス停に、二人はぽつんと降り立つ。
寒々しい風に、ほんの少しだけ足を止めた後。
行くよ、と莉緒がヒバリを促し。
住宅が並ぶ辺鄙な道路脇を、歩くこと十分ほど。
「着いたよ。海」
「海、近いなあ」
秋の曇天。青と灰色に濁った水面。
ささやかな潮風と、穏やかな波。
静寂に包まれて、何処か物寂しげに映る、そんな海。
こじんまりとした海岸とは裏腹に。
虚しげな海原だけは、延々と、呆然と、果てまで広がっていた。
「あんた昔来てたんでしょ」
「うん」
「何であんたが初めて来たみたいな反応してんの」
「めっちゃ昔だからそんな覚えてないの」
そこには――有り体に言えば、何もなかった。
中途半端な広さの浜辺。観光客は勿論、地元の住民らしき人影もない。濁った砂浜が更地のように横たわる中、もう使われなくなったと思わしきボートが一隻だけ取り残されている。錆びた船体の上には数匹のカラスが居座り、かあかあと鳴き続ける。
「莉緒、どう?」
「……哀愁半端ないわ」
「田舎だもんねえ」
へへへ、と笑みを零すヒバリ。そんな彼女を何とも言えぬ表情で一瞥しつつ、莉緒は先導する。そのまま二人は、歩道と海岸を繋ぐささやかな石の階段へと腰掛けた。
隣合わせで座り合い、二人は真っ直ぐに海と向き合う。
「何もないね」
「でしょ、莉緒」
「そこで得意げにされてもな」
波の音が、黙々と響く。風情がある、というには寂しげで。まるで忽然と取り残されたかのような感情を、莉緒は抱いてしまう。
誰もいない浜辺。ふたりきり。世界から皆いなくなって、自分達だけが取り残された。何処かそんな感覚に、囚われていた。
「ここ来るの、ほんと久々だなぁ」
静かな海の音を聴き、ヒバリはそんなふうにしみじみと語る。
虚ろな眼差しを虚空に向けるヒバリを、莉緒は複雑な面持ちで流し見る。
“海に行きたい”なんて連絡を寄越してきたのは、ヒバリの方からだった。小さい頃にこの辺りに住んでて、偶に家族と海水浴に来てた、とのこと。地味な土地で観光客にも乏しいので、気ままに楽しむにはもってこいだったらしい。
「夏だったら莉緒と泳げたんだけどねぇ」
「泳げるの?」
「そこは莉緒の頑張りでなんとか」
「アバウトさがヤバい」
「えへへ」
久々に誰かと行きたい。一緒に行こう。
そうして白羽の矢が立ったのが、何故だか莉緒だった。
“海に行く”以上の目的は、特になかった。この秋空の下で泳ぐ訳もないし、何か観光でもするような宛がある訳でもない。
文字通りのノープラン。なんの展望もない。少なくとも、莉緒は何も聞いていない。だからこうして意味もなく座り込んで、二人で黄昏れることになっている。
「ていうかヒバリ」
右隣に座っていたヒバリへと視線を向けて。
目を細めながら、莉緒は呼びかける。
ポケットから取り出した小さな青い箱。ヒバリはその蓋をひょいと左手で器用に開いており、中に入っていた棒状の菓子を口に咥えていた。
くい、くい、と口元でそれを上下に動かす。
「相変わらず好きなんだ、それ」
「うん。タバコ」
「ココアシガレットでしょ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わないし」
咥えていた菓子を左手で摘み、ヒバリは緩やかな笑みを見せる。
そのまま自分の膝の上に乗せっぱなしだった箱を菓子で指差す。
「莉緒、タバコいる?」
「ココアシガレットだし」
「誤差の範囲だって」
遠慮のない指摘に苦笑いするヒバリを流し見て、莉緒はやれやれと言わんばかりに一息つく。
「ヒバリさ、昔っからそうだよね」
「うん?」
「タバコ咥えてんのは正直ダサい」
「ココアシガレットです」
都合のいい時だけタバコじゃないんかい――そんなツッコミを入れそうになって、莉緒は言葉を引っ込める。
ヒバリは昔からこういうやつだった。
気まぐれで、マイペースで、飄々としてて。
よく覚えている。莉緒は、今でも。
「見た目の話だから」
「でもカッコよくない?」
「そんなカッコよくないし」
「傷付くわぁ」
「あんまり傷付いてないやつじゃん」
わざとらしく肩を落とすヒバリは、相変わらず微笑んだままだ。
「莉緒的に、タバコは体裁良くない?」
そう、彼女はこういうやつだ――けれど。
張り付いた笑みだけが、あの時と違う。
莉緒は、気付いている。
「――“アイドル”として、さ」
やがて、ヒバリがそんな言葉をぼやいて。
莉緒は――ほんの少し、目を逸らして。
そのまま数秒ほど、沈黙した。
「まあ、いいんだけどね」
そしてヒバリが、ぽつりと一言つぶやく。
その横顔は、どこか苦笑するかのようで。
「どうせデビューできなかったんだし」
ヒバリの言葉を聞いて、莉緒はふっと視線を逸らして、灰色の海を再び見つめた。
自分自身が関わったことでもないのに。
後ろめたさなんて、覚える必要もないのに。
「ねえ、ヒバリ」
「にしても」
微かに呟いた莉緒の声を遮るように。
膝の上で頬杖を付きながら、ヒバリはぼやく。
「もう1年と……半年は過ぎてるっけ?」
「……うん。それくらい」
「そっかぁ」
長かったなぁ、なんて笑うヒバリ。
ああ、そういえば、もうそんなに経ってたんだ。
莉緒は、感傷のような想いに耽る。
灰色の海は、相変わらず淡々と波打っている。
曇天に濁った空に見下されながら、淡々と時間は過ぎていく。
◆◇◆◇
『莉緒も、まぁ頑張ってるけど』
『ヒバリと並んでるかと言うと』
『ちょっと微妙だよね』
『莉緒だって凄いんだけどね』
『それなぁ、ヒバリがぶっちぎってるだけで』
『同期なのが運悪かったって言うか』
『ヒバリはほんと凄い』
『でもタバコごっこはちょいダサい』
『それはわかる』
◆◇◆◇
気が付けば、会話は途絶えて。
言葉のないひと時を、二人はずっと過ごしていた。
何分。何十分。どれだけ時間が過ぎたのかも、分からない。ひょっとすると、一時間近く経っているのかもしれない。莉緒はそんなことをぼんやりと思う。
時間を確かめる気にはならなかった。この微睡むような静寂に、何となく浸っていたかった。
どんよりと雲が積み重なった曇り空。
寒々しく、虚しげに波打つ秋の海。
時おり吹き抜ける、冷たい風。
誰一人そこにいない砂浜。
荒れ果てたボートと、そこに居座るカラス。
広がる景色は、変わらない。
停滞したまま、そこに横たわる。
時間だけが、黙々と歩いていく。
そんな風景を、莉緒は見つめて。
ヒバリは、音や匂いで感じる。
どうして、ここに来たんだろう。なんで、ヒバリに付き合ってあげたんだろう。別に彼女の思い出に付き添う義理もないのに。
けれど自分は、共に電車に揺られて――この海まで辿り着いてしまった。
どうしてなんだろう。莉緒の脳裏には、そんな疑問が浮かび続ける。ヒバリと共に往く中で、ずっと、ずっと、考えていた。
ヒバリとの出会いは、二年と数ヶ月ほど前。
芸能事務所の傘下にある養成所に同期で入って、初日から顔を合わせていた。
同じ志望先。同じクラス。同じレッスン。彼女はいつも、莉緒のすぐ近くにいた。
ヒバリは、向日葵のようだった。
かつての姿を間近で見ていた莉緒は、そう想う。
ヒバリはいつだって、眩い光に向かっていた。
スポットライトに愛されていた。
彼女が笑顔を振りまき、歌声を奏でれば。そして、彼女がステップを刻めば。
返ってくるのは、いつだって称賛の言葉だった。
莉緒は、そんなヒバリを見つめていた。
莉緒の世界に、いつも彼女はいた。
陽の光は、空を仰ぎ見る鳥を祝福していた。
ヒバリは、羽ばたく時を待つ鳥だった。
ヒバリに付き合って、この海岸まで来たけれど。特にやることもなく、時間の流れに身を任せている。
そのとき、ヒバリがふいに階段から立ち上がった。白杖を頼りにして、何処か覚束ない足取りで、砂浜へと降りた。
「ちょっと、ヒバリ――」
「写真撮ってよ、莉緒」
にやっと笑って、ヒバリが言う。
思わず莉緒は呆気に取られてしまう。
「見えないのに、って思ったでしょ」
そんな莉緒の思いに先回りするように。
「でも、いいの」
ヒバリは意に介さず。
相も変わらず微笑む。
「撮って。見て」
そして――浜辺の上。
左脚を器用に軸足にして。
白杖を頼りに、位置を確認し。
ひらりと髪をなびかせて。
くるんと、ポーズを取った。
まだ見ぬカメラに向かって、左手を差し伸べる。
「ねえ、ヒバリ……」
「莉緒が、私を見るの」
ヒバリは、にこっと笑う。
たった一人の観衆。
たった一人のカメラマン。
ここにいるのは君だけだと、莉緒を促す。
莉緒は、沈黙に沈む。何かを思うような、あるいは困惑するかのような、そんな素振りを見せる。
何なんだろう。自分は一体、何を求めているんだろう。何のために、ここに来たんだろう。そんな疑問が呆然と横たわっていて、莉緒の胸の内を絡め取っていた。
そんな困惑と混乱をよそに、ヒバリは莉緒を“見つめ続ける”。見えるわけでもないのに。その虚ろな黒い瞳が、まるで莉緒を捉えているかのように、彼女の方へと向けられている。
「……わかったよ」
観念したように、スマートフォンを取り出す。
滑らかな手付きで、カメラのアプリを起動。
そのままゆっくりと、本体を横向きに構える。
「じゃ、行くよ」
「おっけ」
ぱしゃり。
にこりと笑って、手を差し出したヒバリ。
その姿を、莉緒は写真に収める。
「きれいに撮れた?」
ポージングを解いて、ヒバリが問いかける。
「私なりには」
「自信ないの?」
「カメラマンとかじゃないし」
自信なさげに莉緒は答える。
カメラの勝手はよく知らない。たまに自撮りをするくらいで、被写体を綺麗に撮る方法なんて分からない。“アイドル”の姿を綺麗に切り取れるのは、その手のプロなのだから。
だから遠慮がちに、彼女は言う。
「じゃあ―――」
それでもヒバリは、その場で微笑み続ける。
今度は、右手の白杖を顔の側で構えて。
杖をマイクに見立てながら、左手の人差し指と親指でハートを作る。
「満足するまでお願い」
ヒバリは変わらず、笑いかける。
確かにそこにいる、莉緒に向けて。
◆◇◆◇
『莉緒は?』
『ヒバリのとこ』
『あー、そっか』
『うん。今日もお見舞いだって』
『……大丈夫かな、莉緒』
『まぁ……ずっとヒバリ意識してたもんね』
『なんかさ』
『うん』
『悲しいよね』
『……うん』
◆◇◆◇
ぱしゃり。
ぱしゃり。
ぱしゃり。
ぱしゃり―――繰り返される。
スマートフォンを構えて、莉緒が撮る。
灰色の空と海。冷たい海風。物寂しげな舞台を背景に、ヒバリが“たった一人のステージ”を披露する。
ピースを向けて。ハートを作って。
両手を広げて。にこやかに笑って。
まだ見ぬファンに対して、全力で応える。
記憶に焼き付いている。
莉緒の心に、刻まれている。
ヒバリの姿は、いつだって覚えてる。
ずっと憧れてたし、ずっと羨んでいた。
ヒバリには、翼があった。空の向こうへと飛び立てる才能があった。
そんな彼女が、莉緒は妬ましかった。
どれだけ必死にレッスンを重ねても追いつけないし、周囲からは才能の差を比較され続ける。
“莉緒は凄いけど、ヒバリには敵わない”。同期の研修生達は、誰もがそう言っていた。
これから自分の物語が始まると無邪気に信じて、莉緒は養成所へと入った。けれど其処には、最初から超えられない壁があった。
どうしようもない輝きが、茫然と立ちはだかってた。
頑張っても、頑張っても、追い越せない。
莉緒の胸中には、いつだって敗北感があった。
そんな想いも、気が付けば喪失感へと変わっていた。
“不幸な事故”。たったそれだけで、終わってしまった。ヒバリの輝きは失われて、莉緒の心に空虚な穴が穿たれた。
何度も、写真を撮る。満足するまで、撮り続ける。
ぱしゃり、ぱしゃり、ぱしゃり。波の音。シャッターの音。静寂の中で、それだけが響き渡る。
気が付けば、小舟のカラス達はもうどこかへと飛び去っていた。
ぱしゃり。
何度目かの撮影。もう何回撮ったかも分からない。莉緒はふいに、スマートフォンを下ろす。
画面には目を向けていない。眼の前に立っているヒバリを、ただ見つめていた。
ヒバリは、忽然と浜辺に立つ。変わらぬ微笑みを浮かべて、静かに佇む。
笑顔。そう、張り付いたような表情だった。
莉緒の記憶と現在が、不協和音を上げる。
ヒバリの笑顔は、眩しかった。
可愛くて、綺麗で、真っ直ぐで。
けれど、それは。
思い出の中の話だった。
「アイドルみたいに見える?」
「うん」
「どこまでも、飛んでいけそう?」
「……うん」
ヒバリに問いかけられて。
莉緒は、静かに答える。
自分がどんな顔をしていたのか。
莉緒自身にも、分からなかった。
「ヒバリ、変わらない」
ずっと追い越したかった、その姿が。
ずっと妬んでいた、その笑顔が。
空の彼方まで羽ばたけそうだった、その翼が。
今では、ひどく辿々しく不自然に見えて。
表情も、佇まいも、何処かぎこちなくて。
昔のような輝きは、何処にも見えなくて。
そんなヒバリの姿を、莉緒は茫然と見つめた。
「全然……変わんない」
――そして、嘘をついた。
卑怯な自分自身を、莉緒は冷ややかに見つめていた。
“満足な一枚”なんて、撮れていない。きっともう、撮れる筈がない。
今のヒバリは、ただただ微笑むことしかできない。過去の思い出を頼りに、作り物の笑顔を見せることしかできない。
それに気付いてしまって。だから莉緒は、嘘をつくことしかできなかった。
だって。憧れは、憧れのまま葬りたかったから。
そうして莉緒は、悟った。
なんで、ヒバリに付き添ったのかって。
なんで、二人で海に来たのかって。
きっと、彼女を弔うためだ。
もう二度と飛べなくなった彼女を葬るために、私は此処まで来ている。
理由なんてものは、それだけだった。
「ねえ、ヒバリ」
そうして莉緒は、ふと問いかける。
「なんで私なの?」
負い目を抱えながら、そんな疑問を投げかける。
「――嘘ついてくれる気がしたから」
ヒバリは変わらず、微笑みながら答えた。
莉緒の胸に、ずきりと何かが突き刺さる。
そしてヒバリの顔を、再び見つめる。
「アイドルの私を、愛してくれてると思ったから」
寂しげに、妬ましげに、ヒバリは微笑み続けていた。
もう何も視えないのなら、せめて最後に夢くらいは見たい。そう訴えかけるように、虚ろな瞳を向けていた。
「養成所のみんな、さ」
そして、ぽつぽつとヒバリは呟く。
「もう誰も連絡よこしてくれないんだ」
悲しげな声色で、静かに笑いながら。
「今も“私”の相手してくれるの、莉緒だけだよ」
それからヒバリは、伝える。
“連れてきてくれてありがとう”、と。
その感謝に対して、莉緒は何も返すことができず。灰色の風景に佇むヒバリの姿に、言い知れぬ哀しみを覚えた。
◆◇◆◇
【東京都××区で交通事故】
【乗用車が歩道に突っ込む】
【10代女性が重体】
【奇跡的に回復】
【命に別状なし】
【脳を損傷】
【両目失明】
【右脚に障害】
◆◇◆◇
空は薄暗くなって、雲はじわじわと黒い色を帯び始めていた。冬が近いこともあってか、この頃は夕暮れの訪れも早い。
二人でバス停のベンチへと座り、バスの到着を待ち続けていたとき。
「ねえ、莉緒」
ヒバリがふいに、声を掛けてきて。
「ほんとは最近、忙しかったんでしょ」
そんなことを、投げかけてきた。
莉緒は思わず、面食らったように目を丸くする。
あまり気取らせないようにしていたつもりだった。ヒバリの予定に合わせて、何とか休みを取っていた。身内から聞いたのか、それとも何処かで察したのか。
その答えは、わからないけれど。
「……今度、ユニットのデビューライブやる」
莉緒は観念したように、ぽつりと呟く。
「センター、任せてもらえることになった」
「よかったじゃん」
バツが悪そうな莉緒に、ヒバリはふふっと笑いかける。
このことはヒバリには教えていなかった。負い目のような、後ろめたさのような、そんな思いを抱えていたから。
莉緒は、何も語っていなかった。
そうして莉緒は、沈黙する。
微かに視線を落として、地面を見下ろして。
無言のまま、思案する。
「どしたの、莉緒」
「やめよっかな」
不思議に思ったヒバリが問いかけて。
やがて莉緒は、そんな言葉を吐き出した。
それから「どうして」と聞かれて。
「なんか……そんな気がして」
要領を得ない言葉が、出てきた。
うまく説明できない。
理由はわからない。
「なんだろ……」
だけど、何故か。何故だか。
哀しみが、込み上げてくる。
夕焼けのように、虚しい気持ちが。
莉緒の胸の内に、湧き上がってくる。
「……よくわかんないけど」
そうして、ようやく出てきた言葉は。
「やめたくなっちゃって」
答えにもならないぼやきだった。
莉緒の頭に浮かぶもの。
その脳裏に、焼き付いているもの。
養成所で、ずっと意識してきた背中。
妬んで、敵視して、憧れて、追いかけて。
今ではぽっかりと、心に穴が空いている。
誰かに心を掴まれて。
その誰かの青春が砕け散って。
そうして自分自身も、青春を喪った。
それだけのことだった。
「やりなよ」
それでも、ヒバリは笑う。
「飛びなよ」
乾いた声で、囁きかける。
「どこまでも、さ」
何かを喪失した笑みを、貼り付けながら。
「飛べ、とーべ―――がんばれ、莉緒」
何処か戯けて、唄うように。
取り残された少女に、語りかける。
「がんばれ」
それはきっと、莉緒の背中を押している訳ではない。
これから飛び立つしかない鳥を、祝福している訳でもない。
「――――がんばれ」
虚ろな眼差しが、莉緒を貫いた。
見えるはずのない両眼で、莉緒を視た。
ヒバリは変わらず、笑っていた。
莉緒は、ヒバリを見つめた。
何かを悟ったように、沈黙して。
何かを察してしまったように、黙り込んで。
やがてフッと観念して、諦めたかのように。
「……タバコ」
自嘲するような表情で、莉緒は呟く。
「ちょうだい」
「あいよ」
そして、ポンと手渡される。
莉緒の掌の中に、青い菓子箱が手向けられる。
「箱ごとかよ」
「いいの。全部あげる」
一本でいいんだけど。そうごちる莉緒に対し、ヒバリは意に介さず彼女の掌に“それ”を押し付ける。
「それ、もういらないから」
相変わらず、ヒバリは笑う。
莉緒は、少しだけ呆気に取られて。
やがて受け入れるように、シガレットの箱を手に取った。
◆
ヒバリはもう、飛べない。
“私達”はそれを、やっと受け入れた。
◆
がたん、ごとん――。
がたん、ごとん――。
景色とともに、夜が過ぎ去っていく。
帰り道の電車。二人だけの車両の中で。
時間だけが、呆然と転がっていく。
がたん、ごとん――。
がたん、ごとん――。
意味もなく、左手で小さな箱を弄ぶ。
掌の中にある青い菓子箱を、莉緒は見下ろす。
暫しの静寂のあと。
その蓋を開き、中に入ったシガレットを摘むように取り出す。
口に咥えて、黄昏る。
ココアとハッカの風味。何とも言えない甘さ。
リップ越しの唇から、伝わってくる。
好きでもない味をぼんやりと嗜み。
莉緒は、無言のままに虚空を見つめる。
気が付けば、すっかり日は落ちていた。
何もない住宅地の景色は、暗闇も同然だった。
茶色の髪が、ふいに莉緒の肩を撫でる。
飛べない鳥が、首を傾けて。
安らかな顔で、彼女にもたれかかる。
瞼を閉ざして、か細い寝息を立てて。
上着の袖を摘む手も、だらんと垂れ落ちていた。
自分に寄り掛かるヒバリの姿を、何も言わずに見つめた。
揺れる電車。走り抜ける車輪の音。言葉のない空間で、彼女はぴくりとも動かない。
両眼を瞑るその姿は、なにかを終えたかのようで。そんなヒバリを見つめる莉緒の胸の内に、感情が波のように訪れる。
哀しみのような。切なさのような―――。
そうして何かを悟ったように、寂しげな微笑を浮かべた。
やがて莉緒は、ヒバリの肩をそっと抱き寄せた。
深い眠りに落ちた彼女を、優しく支えるように。
沈黙に身を委ねた亡骸を、静かに労るように。
◆
ウネンラギア 里市 @shizuo_
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