第27話「私は彼女に忠誠を誓った」

「あ――な――!?」


 あたしとシェラから遠く離れた場所にあった若木が、その姿をレストゥーティンへと変えていく。さっきまでは余裕の微笑さえ浮かべていた整った顔に、今は驚愕と困惑と僅かな怯えの感情を滲ませている。

 頭に黒い布を巻き付けたシェラは、眼を失っているはずなのに、まっすぐと悪魔の方へと体を向けていた。


「なぜだ、なぜ――。間違いなく眼は潰した。貴様は何も見えていない、ただの盲目に成り下がったはずだろう」


 怒りに肩をふるわせながら、悪魔がシェラに問いただす。

 あたしでさえもたじろいでしまう程の、重い威圧を真正面から受けてなお、シェラは涼やかな顔を保っていた。


「たしかに、私は眼を潰されました。ギフトも使えなくなりましたね。まったく、酷いをしてくれたもんですよ」


 いつもの口調に戻り、シェラが言う。

 その軽い言い回しを聞いて、あたしは僅かに安堵する。彼女が彼女ではない何かに変わってしまったかとも思ってしまったけれど、それは杞憂だったらしい。

 しかし、あたしとは違ってレストゥーティンの方はそうもいかない。完全に無力化したと思い込んでいたシェラが、何故今も動けるのか。むしろ、今まで以上の力で圧倒しているのは何故なのか。

 その理由を解明しようと焦っていた。


「別に小細工しなくても教えてあげますよ」


 シェラは、顔の前に伸びてきた蔓を剣で払いながら答える。今の攻撃も、完全に――もし彼女に眼があったとしても――死角から放たれた攻撃だった。なのに、まるで予め知っていたかのように、彼女は的確に迎え撃っていた。

 彼女の泰然自若とした態度が気にくわないのか、もしくは焦燥に駆られてか、悪魔は次々と攻撃を繰り出していく。

 しかし、四方八方から現れる木の枝や蔦の攻撃のどれもが彼女には届かない。

 それだけではなく、シェラはあたしを守ることすら容易に行っていた。


「何故だ、何故なのだっ!」

「だからそんなに焦んなくても」


 シェラが枝を弾く。

 間髪入れず、別の方向から新たな枝が突き出してきて、同時に足下へと蔦が絡まる。それらをするりと避けて、切り落としていく。


「うざったいなぁ。――一回止まれ」


 シェラが睥睨する。

 黒い目隠しの布越しにでも、彼女が睨み付けているのが分かった。

 何故ならば、それだけで植物も悪魔も、あたしでさえも、全ての動きが止まったからだ。


「ギフトってね、進化するんですよ」


 世界の全てが時を止めるなか、ただ一人、シェラだけはゆっくりと歩く。

 風のざわめきも、それに枝葉を揺らす木々もない。静寂の世界で、彼女は誰よりも圧倒的な強者だった。


「絶体絶命の窮地に陥った時。破滅の危機に晒された時。感情が極限まで高ぶった時。圧倒的な壁にぶち当たった時。そう言った状況に直面した時、生存本能が硬い殻を破るそうです」


 木々の間をすり抜けて、彼女はレストゥーティンのすぐ側までやってきた。

 格好のチャンスだろうに、悪魔は顔を真っ赤にするだけで小指すら動かすことができないでいる。


「普段使っていない頭を超高速で回転させて、あらゆる可能性を、成長の余地を模索する。そうして、神から受け取ったギフトが、更なる力を得る」


 シェラは紳士のすぐ側まで顔を近づける。口元に余裕の笑みを浮かべ、ふっと息を吹き掛けて挑発した。


「“黒竜殺し”ロアルは、その二つ名を得るきっかけとなった戦いの最中、四肢をもがれ、血を流し、命果てる間際で〈硬質化〉のギフトが〈黒鉄〉へと進化しました。

 “骨砕き”ペストリカは、老巨人トゥマの巨鎚に打たれる直前、〈仇討ち〉が〈復讐〉に。

 “魔封じ”テジムは、魔狼ヤーカの炎に焼かれている時に、〈減衰領域〉が〈消失領域〉に。

 “伸びる手”カカシは、アガト戦争の最中、〈人形遣い〉が〈支配者〉に。

 名のある傭兵たちは皆、死地でその力を覚醒させました」


 彼女の口から紡がれたのは、金級傭兵の中でも更に別格とされる“二つ名”持ちの猛者たち。あたしが、彼女と出会った日に並べた名だたる強者。


「要は、極限まで活性化した生存本能が、ギフトの本来の使い方を発見するわけです」


 分かりましたか、とシェラは悪魔の曲がったかぎ鼻を指先で押す。


「それが何だというのだ。貴様のギフトは魔眼だ。そもそも、眼球そのものを失えば、ギフトがいくら進化しようと意味がないだろう」


 レストゥーティンは唾を飛ばして叫ぶ。

 シェラはそれを汚らしそうに身を逸らして避け、肩を竦める。


「まだ分かりませんか。悪魔というのも、案外大したことないですね」

「なんだとっ」


 顔に血管を浮き上がらせる悪魔。

 それを前にしても、シェラは動じない。


「それじゃあ、私のギフトの――本当の名前を教えましょう」


 そう言って、シェラは人差し指を立てる。

 あたしと悪魔の視線が、その細く、傷だらけの指先に向かう。

 彼女は指を、すっと頭上へ差し向けた。


「空――?」


 思わず声が漏れる。

 シェラはあたしの言葉に素早く反応し、振り向いて口元に笑みを浮かべた。


「ご名答。私のギフトは、空にある。遙か空の彼方から私自身を見下ろす、神の視点を持つギフト――〈天眼〉。――それが、私のギフトの名前です」


 あたしと悪魔の硬直が解ける。シェラが意図的に硬直を解いた。それでも、あたしも悪魔も、呆然として動くことができなかった。


「そんな……ありえない……」

「ありえてますよ。ちゃんと“見識の魔眼”で確認したから正確です」


 頭を抱える悪魔に、シェラは口を尖らせる。


「そんなことが、あるはずが――」

「なら何故あなたは、目が潰れた私に負けているんです?」


 明確な挑発。

 しかし、冷静さを失っている悪魔は容易に乗ってしまう。


「貴様ァ!」


 常人では避けることどころか、反応することすら不可能な、全方位からの巨木の攻撃。突き出した太い木の根が、彼女の体を貫かんと襲いかかる。

 しかし、それはシェラの体に触れる直前、さらさらと白い灰となって崩れていった。


「“灰燼の魔眼”。使えば自身の眼も蝕む諸刃の剣ですが、今なら使い放題みたいですね」

「な、な……」


 己の攻撃が文字通り灰燼と化していくのを目の当たりにして、悪魔がおののく。

 顔を掴み、よろよろと膝から崩れ落ちる。


「“透過の魔眼”を使えば、障害物も意味を成さない。“読心の魔眼”があれば、あなたの行動を読める。“未来視の魔眼”があれば、偶然の産物でも避けられる。なにより――」


 絶望し、地面に倒れる悪魔の元へ、彼女はゆっくりと歩み寄る。圧倒的な強者として余裕を保ったまま、悪魔の側にしゃがみ込む。


「“看破の魔眼”」


 その言葉だけで、悪魔の顔が絶望に染まる。

 仕立ての良い燕尾服を泥に汚し、ぶるぶると震え始める。腰を曲げ、膝を突き、泥を掘るかのように額を強く地面に押しつける。

 つい数分前まで、完璧な強者として、一方的にあたしたちを殺す存在として立っていた偉大なる悪魔が、今は惨めに顔を汚し、泣きながら土下座していた。


「悪魔にとって、真名は命と同義だそうですね。それを知られた者には逆らえない、とか」

「それだけは――それだけはぁ……っ!」


 恥も外聞もなく泣き叫ぶ悪魔を、彼女は見下ろしている。あたしたち人間の視点よりも、更に高いところから。


「あなたにそれを願う権利はありますか? ――貴様は、イレーネに何をしようとしていた?」

「ひぃ……ひぃ……」


 天秤は完璧に傾いていた。

 結局、彼は手を出すべき相手を間違え、殺し方を間違えた。

 彼我の力量の隔絶した差に酔いしれて、自分こそが支配者であると勘違いしていた。



「――バオ・バルト・マコロモキュア・レストゥーティン」

「がっあっ!?」


 長々とした名前を、シェラは淀みなく紡ぐ。

 その瞬間、悪魔紳士は藻掻き苦しむ。

 濃密な魔力の集合体である彼は、その存在が急激に薄らいでいく。真名とは魂そのものだ。肉体という殻を持たない悪魔にとって、それを知られてはならない、秘中の秘だ。

 シェラは――〈天眼〉を持つ彼女は、それを見るだけで知ることができる。手に取るよりも簡単に、彼女は悪魔の全てを知ることができる。

 悪魔にとって、彼女ほど恐ろしい存在はないだろう。


「真名を知る者が命ずる。泥よりも深い地の底で、未来永劫目の覚めることのない、永遠の眠りにつけ」

「やめろ、やめてくれ、やめ、――お願い――」


 レストゥーティンが顔をぐしゃぐしゃにして、シェラの膝に縋り付く。その願いが聞き入れられることはなく、シェラが何か答えるよりも早く、その精悍な肉体は魔力の砂となって地面に溶けていった。

 レストゥーティンの姿が消えると共に、森に蔓延っていた緑も急速に枯れていく。水分を失い、褐色に変わり、皺と共に萎んでいく。

 精霊樹を縛めていた苔と蔦も、砂のようになって風に吹かれ消えていく。


「――終わりましたね」


 森が本来の平穏を急速に取り戻していく。

 その中心に立って、シェラが言う。

 彼女が振り向き、私の方へ顔を向ける。


「そう怯えないで下さい。イレーネ」


 さっきまでの冷徹な表情は消え、いつもの少し疲れたような笑みを浮かべて。シェラは困ったように口を曲げて、首元を掻いた。


「――ありがとうございます」

「あ、あたしは……何も……」


 感謝の言葉を受け取る資格は、あたしにはない。敵も知らずに駆け付けて、結果として彼女の眼を失わせてしまった。


「眼を失ったおかげで、新しい眼を得ました。それに、イレーネが居なければ、私は確実に死んでいました。そうなれば、悪魔が復活し、王都も」

「そんなこと――!」

「私、未来が分かるんですよ。だから、信じて下さい」

「その時は〈天眼〉は無かったでしょ」


 シェラは口元に笑みを浮かべる。

 今も、あたしには彼女がなぜ〈心眼〉以外の魔眼が使えるのかは分からない。けれど、あたしは確かに、彼女に助けられた。

 それなら、今度はあたしが助ける番だ。


「シェラ」

「なんです?」

「あなたに改めて、あたしの護衛騎士を命じるわ」

「んえっ」


 あたしの言葉に、シェラはたじろぐ。

 どうやら、この未来は見てなかったらしい。


「どうせ、この後すぐに行方を眩ますか、死ぬ予定だったんでしょ」

「なんでそれを……」

「あんたの事だから、〈天眼〉が身に余る力だと思ってるんでしょう」


 たしかに、彼女の覚醒したギフトは強い。

 複数の魔眼を、おそらくはノーリスクかそれに近い状態で使うことができる。目潰しは効かず、奇襲は意味を成さない。

 シェラがその気になれば、あの悪魔のように国を滅ぼすことすらできるのかもしれない。


「でも、あんたはあたしには勝てない。なぜなら、あたしは最強だから」

「イレーネ……」


 彼女がどれほど強かろうと、あたしが最強であればいい。

 彼女を縛る鎖として、あたしがいつまでも彼女の側にいればいい。


「もう一度言うわ。シェラ、あたしの騎士になりなさい」


 彼女をまっすぐに見上げる。

 あたしより背が高いのは癪に障るけど、彼女は素直に跪いた。

 戦斧の腹を彼女の肩に載せる。

 小さすぎるあたし。大きすぎる戦斧。それを肩に載せるシェラ。

 端から見れば酷く歪で、不格好な光景だろう。けれど、あたしたちにはこれがいい。


「天に誓って、貴女に忠誠を」

「忠誠を誓う相手を間違ってるわよ」


 彼女はぴくりと体を揺らす。そうして、口元を緩めて、言い直した。


「貴女に誓って、貴女に忠誠を」

「よろしい。ならば、我が騎士としてその命果てるまで、長く、付き従いなさい」


 礼儀も形式もかなぐり捨てた、まるで児戯のような儀式だ。

 それでも、二人にとっては十分だ。


「じゃ、帰りますか」

「雰囲気無いわね……」


 シェラはすっくと立ち上がり、歩き出す。

 先ほどの神妙な空気との変わりように愕然としながら、あたしもその隣に追いついた。


「イレーネはまず、王様に謝らないとですね。トゥーリさんもカンカンです」

「げ、マジなの?」

「千里眼で見ましたから」

「便利なのか、厄介なのか、よく分かんないわね……」


 彼女のギフトは危険だ。だから、なおさら彼女にはあたしの隣が相応しい。彼女が強くなればなるほど、あたしも強くなろう。いつまでも彼女の少し先に立つ、彼女のための主人として。

 あたしはたった一人の護衛騎士と共に、少々重い足取りで帰路に就いた。

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