第26話「私は光を失った」

 森の最深部は、まるで綿をぎゅうぎゅうに詰め込んだ人形のようだった。互いを押し退けるようにして木々が生え、その僅かな隙間を蔦と苔が埋める。奥に何かを守るように、それは堅固な壁となって立ちはだかった。


「ああああっ!」


 しかし、それがどうした。

 あたしが振るう戦斧は、密になった植物を束ごと刈り取っていく。溢れ出る自信は力になって、まるでバターを溶かすように、緑を削ぐことができた。

 きっとこの奥に彼女がいる。

 周囲は緑に包まれ、背後を振り返れば、急成長した草木によって退路が断たれている。空も見えず、方向感覚など、とうの昔に失っていた。

 それでも、あたしは確信を持ってただ進んでいた。


「この先に、絶対にいる!」


 ポーチに入っていた、小さな石ころ。シェラが、傭兵を始める時に買ってくれた、片割れとの距離と方位を指し示してくれる魔導具だ。

 それの震えが激しくなるほど、対となる石との距離が近づいてる証拠になる。そして、あたしの手に握られた呼び石は、盛大に震えていた。


「いいかげんっ! 退きなさいっ!」


 戦斧を振るう。

 レセイクの仕事ぶりは、本当に素晴らしいものだ。どれだけ木々を切り倒し、蔦を断っても、その銀色の刃は透き通ったように美しいまま、切れ味も微塵も落ちていない。

 蔦を蹴倒し、木を切り払う。

 ポケットに突っ込んだ呼び石が、ブルブルと震えている。

 再会は、もう少し――


「だぁぁぁあああっ!」


 いきなり、開けた空間に出る。

 まず最初に見えたのは、蔦と苔に侵蝕された巨木。

 その周囲には低草の生い茂る地面があり、細い若木が何本も生えている。そのどれにも傷がつけられ、折られ、焦げ、周囲には凄惨な景色が広がっていた。


「姫様!?」


 異様な光景に唖然としていると、聞き慣れた声が耳に届く。


「シェラ――」


 声のした方へ振り向き、走り駆けた足が止まる。

 シェラは――黒髪を乱し、眼を真っ赤にして、傷だらけでそこに立っていた。防具はズタズタに切り裂かれ、肩口が露出している。頬も剣が掠ったようで、血が滲んでいる。

 双剣も、片方は刃が欠け、片方は中程で折れている。

 今まで、傷一つ付けなかった彼女が、満身創痍で立っていた。


「お前がやったの?」


 湧き上がる怒りを抑えながら、シェラと対峙する小綺麗な男を睨む。

 社交界に出る貴族のような、いけ好かない出で立ちの男だ。白い手袋を嵌めて、ステッキを握っている。


「姫様、今すぐ逃げて下さい。ここは危険です!」

「イレーネと呼びなさい。それに、あたしは危険だからここに来たのよ」


 枯れた喉を振り絞ってシェラが警告するが、それを素直に受けるわけにはいかない。彼女の体は、今すぐにでも医者の治療を受けなければならないほどだ。

 あたしが連れて帰らないと。


「お前、名前は」

「名乗っても、現代には伝わっていないようですが」


 誰何すると、男は肩を竦めて首を振る。

 あたしは老樹の方を一瞥し、再び彼を見る。


「“緑爪の悪魔”レストゥーティン」


 その名を呼ぶと、男は驚いた顔で目を見開いた。


「なんと、ご存じでしたか」

「この森の管理者はリットランド王家よ。第三王女のあたしが知らないはずがないでしょ」


 まさか、悪魔が甦っていたとは露程にも思わなかったけど。

 けれどレストゥーティンがこの場にいるのなら、この異常現象にも説明がつく。あれは植物の悪魔だ。大地の生命力を吸い上げて、緑の波で人々を喰らい尽くす。

 リットランド王家が勃興するよりも遙か過去の時代に、このヴォールティルグの森に封印されていたため、その存在は古文書の記述にしか確認できなかったけれど。

 口惜しいことに、あたしが知っているのはその名前と能力のあらましくらいのものだ。ここに姉様が居れば、もっと詳しいことも教えてくれただろうに。


「なるほど、王女様でしたか。それは失敬」


 芝居がかった口調で、大仰な礼をする悪魔。

 あたしは今すぐにでも斬りかかろうと、戦斧を振りかぶった。


「――では、まずは雑兵を片付けましょう」

「がっ!? ぁぁああああああああっ!」


 鮮血が吹き出し、絶叫が耳を劈く。

 あたしの目の前で、シェラが崩れ落ちる。

 彼女の両目を、鋭い木の枝が抉っていた。


「シェラ!?」

「あ、が、ぁ……」


 悪魔を忘れてシェラの元に駆け寄る。

 土の上に倒れた彼女を起こすも、その顔面は真っ赤に濡れている。いくら血を拭っても、傷は癒えない。ドクドクと流れる赤い体液を、あたしは止めることができない。


「貴様、なんでシェラを――!」

「いい加減、面倒でしてね。戦いを始めてかれこれ三日三晩。人間にしては大層タフで、埒が開かない」


 悪魔は気怠そうな顔で飄々と言う。

 その態度に、心の奥で憎悪と憤怒の炎が吹き荒れる。


「特に魔眼。あれはタチが悪い。だから、封じさせて頂きました」


 にちゃりと粘着質な笑い顔。

 シェラのギフトは〈心眼〉だ。魔眼系のギフトは、眼を潰されると効果を失う。


「あたしのせいだ……」


 あたしがやって来たから、シェラに隙が生まれてしまった。

 彼女が眼を――ギフトを失ったのは、あたしのせいだ。


「シェラ、冷静に。止血に専念しなさい」

「あ、あ、イレーネ様――」


 あらぬ方向に手を伸ばすシェラ。その頼りない動きを見ているだけで、視界が滲む。

 けれど、あたしまで目を閉じるわけにはいかない。


「イレーネと呼びなさい。あいつは、あたしがぶっ倒す」


 戦斧を構え、悪魔を睨む。

 燕尾服の男は口を弓形にして、蛇のような目を金色に輝かせた。


「さぁ――」

「ふっ!」


 挑発を受けるよりも早く、男に肉薄する。

 振りかぶった斧が首元を捉える。


「そんなものでは死にませんよ」


 真横から声。

 さっきまで男の姿をしていたものは、ただの若木に変わっていた。

 幻術。ちがう、この周辺一帯の木々全てがヤツだ。

 ならば――


「らぁぁあああっ!」


 空気を捉えるように、斧を大きく旋回させる。

 達人の域に達した技によって放たれる、真空の裂波。

 刃を離れ、飛び広がる斬撃が、周囲の若木全てを切り倒した。


「なるほど、なかなか――」

「がぁぁあああっ!」


 男の声が聞こえ、その姿を見つけた瞬間には斬りかかっていた。

 獣を越えた俊足に、全ての勢いを乗せた斬撃。

 悪魔の首が、体から離れる。


「速い! しかし、首が離れたくらいでは」

「知ってる、わよっ!」


 放物線を描く頭をかち割って、頭部の千切れた胴を細切りにする。

 それでも奴は死なないだろう。

 悪魔とは、悪意を持った魔力の高密度集合体だ。その身に宿す魔力すべてを消費させない限り、いくらでも再生する。


「くそ、何が姫だ。強すぎる」

「お生憎様。あたしは最強なのよ!」


 流石に人型を細切りにされれば、多少は負担が掛かるらしい。

 少し離れた場所にあった若木が、ぶくぶくと膨れて苛ついた顔の悪魔へと変身していく。

 それを再び切り刻む。

 二体に増えれば、二体とも切り刻む。

 今や、戦斧はあたしの手足と同義だった。歩くように、息を吸うように、ものを掴むように、一瞬すら遅いくらいの時間スケールで、悪魔を刻んでいく。


「ぐぁ――」

「呻き声を上げてんじゃないわよ!」


 潰れる肺などないくせに。

 あたしは斧を鈍器としても用いて、顔を潰し、腕を折り、足を擂る。再生するたびに悪魔の魔力は浪費され、弱体化していく。

 それでも、あたしがここまで一方的に戦えているのは、シェラが三日もの間、彼と戦い消耗させていたからだ。

 今、彼女は眼窩から血を流しながら倒れている。少しでも早く、城へ連れ帰る必要があった。


「おらあああああっ!」

「――そろそろ、満足して頂けましたか?」

「っ!?」


 傷だらけの悪魔に斬りかかろうとした、あたしの背後で悪魔の声がした。目の前の悪魔を斬り、背後を振り返る。

 そこには、服にほつれ一つない、小綺麗な悪魔が立っていた。


「どうして……」

「随分と、愚かな質問ですね」


 驚くあたしに向けて、奴は嘲笑する。


「ワタシは悪魔だ。悪魔は、人を誑かす。人は、上手く行っている時ほど、付け入る隙が大きくなる」


 悪魔の額に鬼人族のような角が生える。細く先の尖った尻尾が現れる。笑みの隙間に覗く歯が、犬のように尖る。


「とても気持ちよかったでしょう。封印されていた悪魔を一方的に嬲ることができて。だからこそ、心に隙が生まれる。――生まれた隙に、ワタシは染みこむ」


 悪寒が全身を走る。

 急激に戦斧が重くなり、思わず手から離してしまう。

 それどころか、立つことさえ難しくなり、膝から崩れ落ちる。


「あ、あ……」

「恐ろしいでしょう。怖いでしょう。悪魔に油断してはいけません。気付いた時にはもう遅い。貴女は悪魔に絶望してしまう」


 だめだ。

 だめだ。

 心が蝕まれる。

 ボキボキと折られ、踏みにじられる。

 急激に世界が暗くなる。

 悪魔の笑いから視線を離せない。全身がガクガクと震え、立ち上がるどころか、腕を動かすことすらできない。

 悪魔の力は、あたしにとって天敵だった。

 心が折れてしまえば、〈無窮の練武〉はあらゆる力をあたしから取り上げる。

 今ここに倒れているのは――ただの14才の生意気な女だ。


「目の悪い人間は扱いやすい。適当に木を斬らせるだけで、簡単に高揚する。自分が強いと思い上がる。本当に、扱いやすくて、反吐が出る」


 髪を掴まれ、強引に持ち上げられる。

 ブチブチと何本かが千切れるのにも構わず、奴はあたしの視線を固定した。


「さあ、ここでじっくりと見物しましょう。あの女が事切れるところを」


 草の侵蝕が加速する。

 倒れているシェラの体を包み込み、締め上げる。


「や、やめて……」

「なんですって?」

「やめて、下さい。シェラは――助けて……」


 気持ちの悪い笑い声が聞こえる。

 奴が笑うたび、奴に髪を引っ張られているあたしも揺れる。


「悪魔に願いますか! 代償は重いですよ?」

「いいから……あたしを殺して……シェラを……」

「イヒィ。イヒヒヒッ! ならば代償を差し出し、要求を明言しなさい。真名を告げ、同意すると宣誓しなさい。そうすれば契約は履行しましょう」


 悪魔の背中から蝙蝠のような翼が広がる。

 今や、奴は人間の顔すらしていなかった。

 ぎょろりとした金色の目が、あたしを見下ろしている。鋭利な牙の並んだ歪な顎が、引き攣ったように笑っている。

 それでも、彼女の命が助かるのなら――


「――良いわけないでしょう。アンタ、姫様でしょうに」

「は?」


 不意の声。

 悪魔の間抜けな顔が、一瞬硬直し、砕け散る。

 奴の手から離れたあたしは、再び地面に転がった。


「立ちなさい。立って、立ち向かいなさい。イレーネは、誇り高き“武姫”なんでしょ」


 あたしに差し伸べられた、傷だらけの手。

 それを掴むと、彼女は優しく引っ張ってくれた。


「貴女――」

「目を潰されたくらいで、私が死ぬとでも?」


 驚き、まともに言葉も出ないあたしの目の前で、両眼を隠す黒い布を巻き付けたシェラが、口元に笑みを浮かべた。


「な――。なぜ、貴様が立っている!?」


 首を再生させた悪魔が、離れたところで吠える。

 シェラはあたしを守るように前に出て、毅然とした立ち姿で声を張って答えた。


「眼ェ潰されたくらいでタマ取れるワケねぇだろ蝙蝠野郎。悪魔様も気ィ緩みすぎなんじゃねぇか? そんなんだと、その辺の石に蹴躓いて、クソ撒き散らしながら頭かち割って間抜けな面晒すぞ」


 どれだけ苛立ちが籠もっているのか、その辺の貴族令嬢なら耳が腐ると言って失神しそうな程乱暴な口調のシェラ。

 あたしも彼女の言動に、思わず状況を忘れて立ち尽くす。

 眼を隠したシェラがこちらを振り向く。


「イレーネはその辺で待ってて下さい」

「えっ、シェラは!?」

「ちょっくら倒してきますよ」

「そんな、危ないわ!」


 シェラを引き留めようと、その腕を掴む。

 彼女はそれを優しく払いながら、口元に笑みを浮かべた。


「安心して下さい。私は銀級の傭兵で、元あなたの護衛騎士だ。それに――さっきよりちょっと強くなりました」

「あんた、何を……」


 余裕の理由が分からず、首を振る。


「何を突っ立って喋っている! 纏めて殺してやるっ!」


 あたしたちを取り囲む、無数に増殖した悪魔。

 その幾重にも重なった声を聞いてなお、彼女は微笑を崩さない。


「――るっせぇなぁ。ガタガタ鳴いてんじゃねぇよ雑魚が。ちょっとは大人しくお座りしとけってんだ。野良犬でもできることだぞ。脳みそにウジでも湧いてんのか」


 睥睨し、低い声でシェラが言う。

 その瞬間、全周囲を取り囲んでいた悪魔の群れが、一瞬にして砕け散った。

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