七話

 それから、気が付けばあっという間に夜会当日となっていた。

 本当なら左京がパートナーとして同伴してくれる予定だったが、急な仕事が入り、両親も懇意にしている方の別の夜会に出席することになっていたので蝶子は一人で夜会に出ることになってしまった。

「本当に、本当に一人で大丈夫?」

「大丈夫よ」

「心配だわ……」

「心配しすぎです、お母様。私だって伯爵家の娘ですよ。この大和で壁の花になることに関して私の右に出る者はおりません」

「それはそれで問題なんだけど」

 蝶子の社交スキルレベルをよく知る母が頰に手を当てて息を吐く。

「まあでも、その姿なら大丈夫でしょう。今日は一段と綺麗よ」

「ありがとうございます」

 この短期間で織子があらゆる手を使って仕上げさせた蝶子の戦闘服────首元を詰めた濃紺のドレスは腰から大きく膨らんでいる最近瑛国で流行りのバッスルスタイルとなっている。腰の部分には同じ色の大きなリボン、アンダースカートのフリルによって大きく膨らんでおり、夜色の鈴蘭みたいな形だ。

 スカートには星のようなビーズがちりばめられており、裾には星と蔦模様の刺繍。同じ刺繍を施された小さなハンドバッグに、足首にストラップのついた靴、総レースの手袋。

 本来ならゆうに一ヶ月は掛かりそうな一品だ。それなのにわずか一週間で仕上げた卯木屋はさすが、母が最も信頼している仕立て屋さんである。

 ……大変申し訳ない気持ちでいっぱいであるが。今度、何か菓子折りでも持っていこう。

「さ、馬車が待っていますよ。北都、いつまで姉様のドレスにしがみついているの?」

「だって、僕だけお留守番なんて」

「仕方ないでしょう? あなた、昨日からお熱があるんだから」

「もう下がったもん。だから僕が姉様と行く……」

 先程からぎゅっと蝶子のドレスにしがみつく弟の頭を撫でてやる。いつも聞き分けがいい彼は、しかし今日に限っていやいやと蝶子に縋り付いた。風邪をひいてしまって心細いのかもしれない。本当ならばお断りして側に着いていてやりたいのだが、そうもいかない。

「すぐに帰ってくるから。ね? 時雨といい子で待っていて」

 この天使のような弟の、大粒の瞳に涙を溜めて見上げられると胸に来るものがある。

 北都は蝶子の言葉に何かを言いかけたように口を開き、それからきょろきょろと周囲を見回す。不意に蝶子の後ろらへんを見たかと思うと、すぐに蝶子を見た。

「……うん。すぐに帰ってきてね。無理しないでね」 

 蝶子はもう一度弟を抱きしめてから、馬車に乗り込んだ。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

「はい。行ってまいります」

 ゆっくりと馬車が動き出す。するとどこからかミラがするりと馬車の中に滑り込んできて、蝶子は思わず口を覆った。

「びっっっっくりするじゃないですか! 急に現れないでよ」

「ずっと後ろにいたよ。それより君の弟だけど……」

「北都がどうかした?」

「……いや、やっぱ別にいいや」

「?」

 話は終わったとばかりにミラは蝶子の向かいに座る。幽霊なのにきちんと椅子に座るところがなんだかおかしくて小さく笑うと、ミラは「何笑ってんの」と拗ねたように言った。


 会場に着くと、蝶子は久しぶりのこの空気に目を瞬かせた。

 豪奢なシャンデリアが星のように瞬き、毛氈のカーペットの上で煌びやかな貴婦人たちは既にめいめいにグラスを持ち、談笑している。

 ミラは会場に着くなり、見せるように飾られた装飾品を見てすぐにげんなりとした顔を見せた。

「うわ、派手……」

「五十嵐夫人は華美なものがお好きだから……」

「こういうのは華美っていうかケバケバしいっていうんだよ。こんな連中と交流があったなら、僕は生前の僕を心底軽蔑する」

 調度品を見るたびに趣味悪いだの最悪だのと文句を言うミラを小声で宥めながら、蝶子が招待状を見せて会場に足を踏み入れる。すると、どこからともなく「あら」と声がした。

「どこのご令嬢? 見かけない顔ね」

「やだ、あなた知らないの? あの子、例の子よ」

「ああ……久世の」

「珍しいわね。最近では殆ど夜会なんて顔を出さなかったのに」

「ほら、最近あんなことがあったからじゃない?」

「なるほど、次の生贄探しってわけ?」

 忍び笑いがここまで伝染してくる。ミラはご婦人方を見下ろしながら「品位の程が知れるね」と鼻で笑った。

「ちょっと。背中丸めないで。君は歴とした招待客なんだからしっかり胸を張りなよ」

「……うん」

 ミラの言葉に蝶子はほっと息を吐いた。思っていたより緊張していたらしい。

 そうだ、今日蝶子はひとりではないのだ。

 ぐっと胸を逸らして噂話をしているご婦人たちに向かってにっこりと微笑むと、彼女たちは気まずそうに視線を逸らした。ミラが満足げに「やれば出来るじゃん」と言うのがどことなく面映くて、変な顔をしてしまう。

「とりあえず、主催の方にご挨拶しないと……」

「主催ってあれ?」

 ぐいっとミラが顎で示した先には、数人に囲まれた五十嵐夫人と巴がいた。巴は真っ赤なドレスを身に纏っており、遠目からもすぐにわかった。彼女を夜会で見たのは久々だが、相変わらず派手だ。

 蝶子が近寄っていくと、先にこちらに気づいたのは夫人の方だった。紫の生地に黒と赤、それから金の刺繍を施した豪奢なドレスに、大きな薔薇の花飾りを胸に付けた夫人は蝶子を見るなり、唇に笑みを乗せて「まあ!」と大袈裟に両手を広げた。

「久世のお嬢さん。ようこそいらっしゃいました」

「本日はお招き下さり、ありがとうございます」

「いつも娘がお世話になっていますわ。先日はお気の毒様。でも蝶子さんはまだお若い上にお父上もお母上もご健在だもの、これからまたいい縁談があるでしょう」

 くすりとすぐ隣の巴が扇の向こうで笑った。

 蝶子も笑みを崩さず「お気遣い、ありがとうございます」と返した。

「それで、今日は静様はどちらに? 今夜は静様のご婚約のお祝いに馳せ参じましたので一言お祝い申し上げたく」

「あら? そういえばどこに行ったのかしら。静?」

「ここですわ、お母様」

 聞き覚えのある声に蝶子が振り向くと、すぐ後ろに蘇芳色のドレスを着た女性が軍服を着た男性に寄り添って立っていた。巴のものより落ち着いた色合いではあるものの、襟ぐりの大きく開いた大胆なデザインで、白い肌が艶かしく、蝶子はぎょっと目を見開いた。

「え、静様……?」

 目を丸める蝶子に向かって、真っ赤に引かれた唇が三日月のように弧を描く。

「ええ、久しぶりね、蝶子さん。お元気でいらした?」

「あ、はい。おかげさまで……」

「フフフ。なあに? どうしたの、そんな冷や水をかけられた猫みたいな顔をして」

「いえ、以前と随分印象が変わられたな、と」

 少なくとも去年に蝶子が知っている静は巴とは逆にどちらかと言えば控えめで、まさに名前のような静かな女性だった。きっちりと首元までボタンで留めたドレスを好み、色だって赤といえば巴の色で、姉の静はいつも深緑や濃紺が多かったのに。

 それに、顔立ちは変わらないものの、表情は随分と様変わりした。控え目、貞淑といった表現がしっくり来るような彼女からは想像もつかない程、蠱惑的な化粧とドレス。近くに寄ると、どこからか頭が痛くなる程の甘い香りがした。まるで彼女自身が強いお酒にでもなったかのようだ。

「随分お綺麗になられたので驚きました」

「お上手ね。でも、ありがとう。蠍の心臓のおかげ」

「え?」

(蠍の心臓?)

 突然飛び出してきた言葉に、蝶子は首を捻った。蠍と言えばここからまだずっと南にいったところにある砂国さこくに生息する尾に神経毒を持つ昆虫、だっただろうか。その心臓のおかげとは一体。

(……食べるの?)

 瑛国の方では過去に若さを保つために少女の血を浴びて処刑された伯爵夫人もいたらしいと聞くし、滋養のために下手物を食べる……ということも無きにしも非ず。まあ、人それぞれである。

 蝶子は話題を変えようと彼女の隣にいる青年に目を向けた。

「ところで、そちらの方がお相手の?」

「ええ。古賀誠一郎さんというの」

「初めまして、古賀誠一郎と言います」

「久世蝶子と申します。この度はおめでとうございます」

 お互いに挨拶を交わす。古賀誠一郎はいかにも生真面目そうな好青年だった。以前の静ならお似合いだと思うが、今の彼女と並ぶとどうも静の印象が強すぎてぼやけてしまう。

「そういえば、蝶子さんのお父様とお兄様も軍人さんでいらっしゃいましたわよね? 誠一郎さんも、軍にお勤めなんですよ」

「そうでしたか。父も兄も陸軍に所属しておりますが、もしかしてご存知ですか?」

「勿論です、私も陸軍所属なので。陸軍に所属している者で、久世少将を知らない者がいたら新人かもぐりですよ。三十年前の胡国戦争で活躍した英雄ではないですか。何を隠そう、私もあの東和の鬼神に憧れて入隊したクチでして」

 三十年前、東和の従属国であった胡国との戦争は当時入隊したばかりだった夏彦も参戦した。当時、所詮従属国と侮っていた胡国との戦争は思っていた以上に思わしくなく、多くの死傷者を出した。

 父は前線で戦いながら数々の武勲を挙げ、それがまさに鬼神の如き戦いぶりだったことからその名がついた。彼の働きによって重要拠点をいくつも奪還し、戦争は東和の勝利となった。

 当の本人は当時の話をするのをあまり好ましく思っていないようだが、誠一郎のように彼に憧れて入隊する若者は未だに多いのだという。大好きな父を褒められて悪い気はしない。

「父をお褒め頂き、光栄でございます。自慢の父なので」

「そうでしょうとも。ぜひ、機会があればご挨拶させて下さい。それでは」

 そう言って二人は再び挨拶周りに行ってしまった。静の変わりように驚いたが、案外いい夫婦になるかもしれない。

 巴たちは既に別の方と話していたので、蝶子はそのまま料理のテーブルへ寄っていった。早速壁の花になる気満々である。

「ミラ、誰か見覚えのある人はいる?」

「うーん……」

 肩らへんにふよふよと浮いていたミラはくるりと一回転して、じっと周囲を窺う。男も女も酒と浮かされた熱が入り混じり、香水と笑い声、それから煙のような噂が一欠片。フロアは独特の雰囲気に包まれている。

 ミラはややあって、肩をすくめて首を振った。

「そう……」

 では、ミラの家は鎖国派の家柄ではないのかもしれない。五十嵐家主催の宴ともなれば鎖国派のほとんどの家が出席していた。普段から巴の取り巻きをしている五反田、五色家は勿論、あれは海軍少将筑波つくば家のご夫人、あっちで巴の側でワイングラス片手に彼女を女神を崇める狂信者がごとく褒めそやしているのは、美園みその財閥の次男だったか。

 しかし見事に敵陣アウェイである。

「あ」

「うん?」

 突如降ってきた声に斜め上を見上げれば、彼はちょいちょいと向こうを指さした。

 追ってみれば静が会場を出ていくところだった。夜風にでも当たりに行ったのだろう。

「男といる」

「そりゃあ、そうでしょう」

「君の頭はその真珠の髪飾りを置くための台座か何かなの?」

 ついっとミラが顎をしゃくった。古賀は会場の隅で同じ年頃の若者と談笑している。

 つまり婚約者と違う男と外で密会してるから言ってるんでしょ、それくらいわからないの? と不遜な幽霊(美)少年は仰っているのだ。だんだん、この幽霊の言葉の裏を読み取る技術が上がってきた気がする。なんて不本意な。ある意味、生存本能の成せる技か。

「よし、見に行こうよ」

「なんて野暮な……」 

「だって飽きた」

 誰のためにわざわざ敵陣まで飛び込んだと思っているのだ。それを言うに事欠いて飽きたとは。しかし、ミラは蝶子の返事も待たずにふらふらとそっちへ人魚のごとく優雅に泳いでいく。ああ、もう。蝶子は憤然としながらも彼を連れ戻すべく後に続いた。

 会場から庭へ続く石畳の道を進んで、すぐ向こうに生垣に囲まれた噴水がある。明かりは燦然さんぜんと輝く月だけで、この場で睦み合う男女は意外にも静たちだけではなかった。柱の影や生垣の隅、はたまた庭を眺めるためのベンチですら顔も判別出来ないような影があちらこちらにあった。

 その中でミラはすぐに見つかった。建物をぐるりと囲む外廊の手摺りに、ミラは見えないのをいいことに堂々と足を組んで座っている。

「ちょっとミラ……」

 彼らの邪魔をしないようにそっと柱の影に近寄って、この出歯がめ幽霊を嗜める。ミラはじいっとある一点を見つめていた。

 彼の視線の先には、静の白い背中があった。襟ぐりだけでなく、背中まで開いているデザインのようだ。その背中に男の手が枝に絡みつく蛇のようにするりと這う。彼女の首筋に顔を寄せる男が何かを囁く。葉の垂れ下がる木陰にいるせいか、暗がりで顔までは判別出来ない。けれどその白い背中に添えられた手の甲は、月明かりに照らされてくっきりと浮かび上がっていた。

「……蠍の刺青」

 ぽつりとミラがこぼした。……刺青?

 その瞬間、ミラは急に子供が目の前のおもちゃに興味を失ったように、くるりと踵を返した。後ろにいた蝶子にも「戻るよ」と有無を言わさず連れ出す。一体何なんだ。

 ミラの気紛れに蝶子は溜息をひとつ。そして来た時と同じように────一度だけ静の方を見て────そろりと足音を立てずにその場を立ち去った。

 その時、蛇のような視線がこちらを向いていた気がしたが、月の支配する宵闇の中。

 気のせいだろうと、蝶子は片付けてまた喧騒の中へ戻っていった。

 

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くじら座の少年 朝生紬 @hyd0

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