可憐で美しい少女な私は怪物が蔓延るこの世界の全てを日記に書き記します〜エルディナの日記〜

堂上みゆき

とある旅人の日記の一部分から抜粋

「ちょっと! ねえ、ちょっとってば! 手を貸してよ! 沼にはまって動けないの!」


 エルディナはこちらに目もくれずに沼地を突き進むアーギルに向かって叫ぶ。ただアーギルは何も反応することなく、その姿は霧に消えていく。


「もう! おっさんだから耳が遠いのね! 分かったわ! 自分で抜ければいいんでしょ⁉」


 もう膝まで沼に沈んでいる。この沼の深さはどれくらいか分からないが、このままでは命を落とすということをエルディナの直観が告げていた。


 うう、脚が全く動かない。駄目だ。ブーツの中にまで泥が入っていて重い。じたばたすることさえもできない。


 ただただ体力を消耗するばかりで、ここから抜け出せない。もう腰の辺りまで沈んできた。これで私は死ぬのかな。せめて綺麗な花畑でこの儚き十五年の生命を終えたかった。


 エルディナはこれ以上無駄なあがきをすることなく、静かに目を閉じる。


 どうせなら安らかに、静かに、逝こう。目を閉じるとこれまで聞こえなかった音が聞こえる。それまでは、降り続ける雨が沼に跳ねる音しか聞こえていなかったが、風の音も聞こえる。動物の鳴き声も聞こえる。沼でさえ独特の音を発している。


 あら、汚くて見どころなんてない場所だと思っていたけど、案外、楽しい所じゃない。こんな状況じゃなかったら、日記に今感じる全てを書き記すのに。


 ん? この音は何? エルディナは今聞こえている音の一つが、その調和を乱しているのに気付いた。こちらにゆっくりと近づいてくる。


「うっ」


 エルディナはおとがいを掴まれ無理やり上を向かされる。


 目を開けると深い海のように蒼い瞳がこちらを覗いていた。アーギルだ。


「小娘、お前に別れの挨拶がてら言いたいことがあったので戻ってきた。一つ、俺は沼地に入る前にお前に警告したはずだ。いつも通りの歩き方では命を落とすことになると。二つ、沼地はベタヌチャの生息地だ。大きな声を出すと寄ってきて、沼に嵌った人間を生きたまま喰らう。奴らは沼の中を移動することもできるから、もう既にお前の下半身をどこから喰らおうか考えている最中かもな。三つ、沼に嵌ったぐらいで自分の命を諦める奴は、遅かれ早かれ命を落とすし、これから先の夢を語る資格もない。四つ、俺のことをおっさんと呼ぶな。これまでも邪魔臭かったお前だが、いい死に場所が見つかって良かったな。ここはお前にお似合いだ。来世では俺と関わらないことを祈る。さらばだ」


 アーギルは立ち上がって再び沼地を物ともせずに先に進む。


 何よ。そんなこと言うためにわざわざ戻ってきたわけ? それに夢を語る資格がない? あんたに何が分かるのよ。私は絶対に父に会ってこれまでどんな風に生きてきたか伝えるんだから。旅をして経験したことを全て記してあるこの日記を見せて、父の旅の話も聞かせてもらうんだから。


 死ねない。ここでそれを諦めてしまうなんてもってのほかだ。絶対にこの沼を抜け出して、あの黒髪のおっさんに泥を投げつけてやる。


 あがけ、あがけ、あがけ。エルディナはこれ以上沼に沈まぬように注意しながら、脚を動かす。なんだ、その気になれば動かせるじゃない。この調子だ。


 ただでさえここまでの道のりで消耗していた体が悲鳴を上げる。


 今頑張らなきゃ死んじゃう。そんなの駄目だ。この沼地が私にお似合いですって? そんなわけないでしょ。美しく、それでいて可愛らしい私にはもっと色鮮やかな場所の方が似合うわ。


 エルディナの体はゆっくりと沼の中から抜けていく。


 もうちょっと……。もうちょっとよ。……よし、抜けた……。


 エルディナの体力はもう底をついており、そのまま沼地に倒れこむ。


 うう、私の純白の髪と美しい顔が泥に浸されちゃった。……そんなこと、今はどうでもいいか。このままじゃまた沈んじゃう。体よ、あと少しだけでいいから動いて。う、動いて……。


 より強くなってきた雨に打たれながら、エルディナは目を閉じた。




 パチパチパチと鳴る焚火の音に目を覚ますと、少し開けた場所でアーギルがキャンプを張っていた。沼地地帯はまだ抜けていないが、雨は止んでおり、比較的ここ一帯の地面はしっかりとしている。


「きゃっ! なんで裸なの!」


 木にもたれかかって寝ていたエルディナには薄い布がかけられていたものの、体には何も纏っていなかった。


「私の服をどこにやったのよ!」


 のん気に焚火で魚を焼いているアーギルに話しかけると、アーギルはこちらに目をやることもなく口を開いた。


「お前も、お前の服も泥で汚らしかったから、そこの川で洗った。服はそこだ。もう渇いているだろう」


 アーギルが指さした方を見てみると、確かにエルディナの服が焚火近くの木に吊るされていた。


「意識のない乙女の服を脱がすなんて最低ね。ここがそれなりの街だったら、あなた捕まってるわよ」


「お前みたいな小娘に欲情なぞするはずがない。それに法を求めたいならさっさと俺に付きまとうのを止めればいいだけだ。俺はお前を見捨てた。どこに行こうが自由にしてくれ」


 相変わらず減ることのない口だ。今更アーギルに裸体を見られようがどうってことはないが、一応、木陰に隠れて服を着る。ブーツの中までしっかりと洗われている。アーギルは見た目に寄らずに細かい。


 着替えを終える頃にはアーギルは焼き魚をかじっており、焚火の近くでもう一匹、綺麗に焼きあがっていた魚をエルディナは取って、口にする。野宿ではこれくらいの食事でもありがたいと思うしかない。


「ねえ、さっき言っていたベタヌチャってどんな怪物?」


 この世界には怪物と呼ばれる、動物とも人間とも異なる生物が存在する。普通の人間は怪物を恐れ関わらないようにする。いや正しくは関わったらほぼ死ぬので、生きている人間はほとんど怪物を見たこともないし、関わったことはない。ただアーギルはやけに怪物に詳しく、また怪物を狩ることでお金や食料を稼いだりしながら旅を続けている。


「……ベタヌチャは人間ほどの大きさの四足歩行型の怪物だ。特徴は手と足の水かき、それに鋭い牙。家族単位で行動し、その数は一グループにつき三から四匹。小さな村の住人全員を一晩にして喰らったという記録もある。それに噂だがとある植物の匂いに引き寄せられるとも聞いた」


「アーギルはそいつらを狩るの?」


「いや、今回はたまたま沼地を通っているというだけで、そいつらの存在なんてどうでもいい。それに奴らは狂暴で手ごわい。関わらない方が賢い選択だ」


 アーギルが関わらない方がいいと言うのならそれなりに危険な怪物なのだろう。エルディナは沼地で叫んでしまったことを思い出した。自分のミスでアーギルまでも危険に晒してしまった。自分はついてくるなと言うアーギルに無理やり付きまとって旅をしているのに、迷惑をかけるなんて情けない。


「……沼地でのこと、ごめんなさい。ベタヌチャのことを考えずに叫んだし、アーギルがいなければ、私はあのまま命を諦めていた」


「別に気にすることはない。お前の夢とやらがあれしきのことで揺らぐものだと分かっただけだ。命を落とす覚悟がないなら今すぐ故郷に帰れ。命を簡単に諦めるなら今すぐここでその安い命を絶て」


 アーギルの言葉が心に突き刺さる。だがエルディナはアーギルから目を離さなかった。


「……早く食え。じきに出発する」


 言われてみれば今は朝だった。昨日はずっと雨の中を進んでいたので正確な時間が分からず、さらに沼から抜けた後の記憶がないので完全に時間間隔がなくなっていた。


 エルディナは出発の準備を始めたアーギルに置いていかれないように、素早く川魚の身に噛り付いた。


 エルディナとアーギルが再び沼地を進むこと半日、小さな集落に到着した。


 ただ人影は見当たらず、辺りは静かだった。


「ん? アーギル、どの家の玄関にも同じ植物が置いてあるけど、これはなに?」


 アーギルが木造の少し古い家の前まで行き、入り口の植物を見る。


「これはデートバイスという植物だ。別名、悪魔を呼ぶ花」


「悪魔を呼ぶ花? なぜそんな名前なの?」


「分からない。文献にはそうとしか書いていなかった」


「へえー、不気味な花ね。それより、どうして誰もいないのかしら。捨てられた集落にしては生活の痕跡がはっきりと残っているのに」


「……待て、誰もいないというわけではないようだ」


 アーギルは足音を殺して、近くの物置倉庫に近づき、後ろに背負った剣に手をかけながら一気に扉を開けた。


「やめて! 何もしないで!」


 倉庫の中には子どもがいたようだ。縮こまって怯える少年を見てアーギルは剣から手を離す。


「大丈夫、何もしないよ。ほら出てきて?」


 エルディナが手を差し伸べると、少年は震えながらも外に出てきた。その様子を見てか、いくつかの家から六歳から大きくても十二歳ほどの少年少女が出てくる。ただ大人は一人もいないようだ。


「ねえ、私はエルディナ、このおっさんがアーギル。私たちは旅をしているの。だからこの村のことを教えてくれる?」


 少年が頷き、少し震えながらも口を開く。


「この村はサザンド村って言うの。お父さんが言うには、もともとは農業をやってたんだけど、時間が経つにつれて周りがどんどん沼地になっていったんだって」


「そう、今の状態からは考えられないわね。お父さんや他の大人はどこにいるの?」


「お父さんたちは昨日、みんな揃って街に行ってくるって言って出ていったよ」


「どうして?」


「もうこの村で暮らすのは限界だから街に引っ越すための準備をするためって言ってた。街まで丸一日かかるけど、すぐに戻ってくるから子どもだけで大人しくしときなさいって」


「とんでもない大人達ね。一緒に連れていってあげればいいのに」


「この沼地は子どもが歩いて渡るには厳しい。街で移動用のそりか何かを調達してくるつもりだったのかもな」


 アーギルが口を挟む。興味なさそうな顔をしていて、なんだかんだちゃんと話は聞いてるのね。


「ご飯は大丈夫? それになぜ玄関に花を置いているの?」


「ご飯は二日分用意してくれたよ。玄関の花は、出発する前にお父さんたちが置いていったの。魔除けだって僕達に言ってた」


「アーギル、そうなの?」


「いや、聞いたことないな。さっきも言ったが、これはデートバイス、悪魔を呼ぶ花だ。この地方の宗教に使われているとも聞いたことはない」


「この村で独自に発展した宗教って可能性は?」


「可能性としてはなくはないが、この村の住人も元は近くの街出身のはずだ。世代交代も終わっていないのに、文化が変わるとは考えづらい。なぜそこまで気にする?」


 エルディナはアーギルの疑問に上手く答えられる気がしなかった。ただ悪い予感がする。そう直観が告げるだけだ。


「……いえ、何となくよ。じゃあ行きましょうか。みんな、村の外に出ちゃ駄目よ。お父さんやお母さんが帰ってくるまで大人しくしてるのよ」


 少年少女は頷いて、またそれぞれの家に戻る。


「……行くぞ」


 そう言って歩き出したアーギルと共に村を出る。このまま大人が帰ってくるまであの子達に何もなければいいが……。




 その後、数時間また沼地を歩き続けると、ふと変な感触を足裏に感じた。この辺りはこれまでの沼に比べて浅いようなので、何か木の切れ端でも沈んでいたのだろうか。試しに沼に手を入れて、沈んでいた物を取る。


「きゃっ!」


 見間違いではない。それは体から離れた人の手だった。


 アーギルがつい悲鳴を上げてしまった私に近づいてくるが、その途中でアーギルも沼に手を入れて何かを引っ張り出す。


 それは人の脚だった。


「死んでからまだそれほど時間が経っていない。それにその手の持ち主とこの脚の持ち主は服の切れ端から見るに別人だな。タイミングと場所を考えると、昨日出発したというサザンド村の大人だろう。ベタヌチャに襲われたな。傷口に鋭い牙の痕がある」


「……」


 一瞬何も考えられなくなった。人の遺体は旅の途中で何度も見たが、慣れるものではない。


「待って、道中で襲われたとしたらもしかして全員⁉」


「ベタヌチャに沼で襲われたらとてもじゃないが逃げ切れないだろうな。残りの人間が街にいるのか、沼の底にいるのか、ベタヌチャの胃袋の中にいるかは知らないが」


「サザンド村に戻りましょう」


「戻ってどうする気だ? 村の子どもを助けたいならこのまま街に行って、救助を要請するほうがいいんじゃないのか?」


「あの子達は明日には大人達が帰ってくると思ってる。このまま私達が街に向かっても救助が到着するのは何日後か分からない。あの子達が村の外に大人を探しに行く前に伝えなきゃ」


 これが正しいのかは分からない。ただ今はサザンド村に行くべきだ。エルディナはそう強く感じ、来た道を戻る。


 アーギルもエルディナについて村に向かう。




「みんなー、出てきてー! 昼に会ったエルディナよー」


 再び村に戻るとすっかり夜だった。ただ灯りが点いているものの、村の様子がおかしい。いや、おかしいのは匂いだ。この鉄のような匂いは人の血だ。


「みんな⁉」


 血の匂いが強い方へ急いで向かい、家の陰を覗くと、怪物と目が合った。人間ほどの大きさで、口から、そしてその鋭い牙から血が垂れている。


 脚が動かない。このままでは私も襲われる。ベタヌチャがその口を開けて飛び掛かって来た時、私は死を覚悟して目を閉じた。


 グチャ!


「命を簡単に諦めるなら今すぐにその安い命を絶てと俺は言ったが、お前はそうしなかった。小娘、次にお前がその命を諦めるのなら、俺がお前の命を絶つ」


 目を開けるとベタヌチャがアーギルの左腕に噛みついていた。いや、アーギルがベタヌチャに腕を噛ませているのだ。


 アーギルはその状態のまま、右手で剣を持ち、ベタヌチャの首を突き刺し、絶命させる。


 腕からは血がボタボタと垂れているが、アーギルは震えるエルディナの前にかばうように立つ。


 アーギルの目線の先にはもう二体ベタヌチャがいた。


 それからの戦闘は壮絶だった。二体のベタヌチャを相手に獅子のように立ち回るアーギル。エルディナは暗闇に飛び散る血しぶきがアーギルのものでないことを祈った。


 戦闘が終わり、三体のベタヌチャの死体が地面に転がる。そしてこの村の生命はエルディナとアーギルの他になくなった。


「ベタヌチャが灯りの点いている集落を何もなしに襲撃をするとは考えられない。俺たちが到着する前に、綺麗に全ての家の扉が壊されていた。おそらくデートバイスの花に引き寄せられたんだろう。デートバイスの別名の悪魔を呼ぶ花の悪魔とはベタヌチャのことだったんだ。そんな花がご丁寧に家の前に用意されていた理由。この村の大人達は最初からベタヌチャに子どもを喰わせようとしたんだろう。この村から街に移り住むにはある程度の金がかかるが、周りがこの沼地ではろくな農業も金稼ぎもできない。食い扶持を無理やり減らしたんだ。子どもには戻ってくると嘘をついてな」


 エルディナの目から涙がこぼれる。泣くな、本当に悲しいのは親に裏切られ、なすすべもなくベタヌチャに喰われたあの子達だ。


「人間は残酷だ。本能に従っている分、この怪物の方が可愛いとさえ思える。お前が書くという日記は輝く景色や経験ばかりにはならない。残酷、血、そして死。この旅は常にこれらと隣合わせだ」


 座り込んで立てないエルディナの首にベタヌチャの血で濡れた剣が突きつけられる。


「小娘、お前が弱いのはどうしようもない。ただお前がこのまま泣き喚き、生に向かって足掻くことを止めるなら俺は今お前の首を貫く。最終選択だ。お前はどうする?」


「私は……私は……」


 決めるんだ。この旅では残酷な光景も見ることがある。それに目を背けるのは簡単だ。


「私は足掻くっ……。生きて……生きてこの世界を書き記すっ……。どんな光景にも目を背けない!」


 エルディナは立ち上がり、アーギルを強く見つめる。


「その覚悟を忘れた時がお前の生が終わる時だ」


 アーギルが剣を下ろし、地面に穴を掘り始める。


「埋葬だ。少年達の魂をかの世に送ってやる」


 死んだ魂はかの世に行くと言う。これはどの宗教でも同じだ。


 子ども裏切った大人の魂、大人に裏切られた子どもの魂。どちらも同じ魂だが、かの世ではどのように生きるのだろうか。私にはその答えが分からない。いつかそのことも日記に書き記すことができるだろうか。


 エルディナとアーギルの旅はこれからも続く。この世界の表と裏、人間と怪物、この世とかの世を見つめながら……。

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