南極町へ

ヒラノ

南極町へ


薄い雲のかかった夜空の下、鈍い月明かりに濡れた少女が列車を待っている。

長い髪の先まで冷え切ってしまいそうな、冬と同じ、張り詰めた夜。

冷凍庫の中の様にひんやりとした空気の満ちるそこには、他の人間は誰も居なかった。

然し代わりに、別の先客が立っている。

少女の視界の端っこには、小さな団体客が群れを成していた。


ふわふわとした羽毛が風に吹かれる。

一人で身を竦める彼女に反して、彼らは一塊の柔らかな毛玉となって寒さに抗っていた。

眠そうにも眩しそうにも取れる表情で目を閉じている団体の先客は、コウテイペンギンだ。

輝く硝子の破片の如き粉雪をその頭頂に薄く積もらせて、同じようにホームに立っている。低すぎる気温のせいで駅の看板までもが薄く凍る中、

彼らの羽毛に散った薄橙の毛だけが目に暖かかった。


好き勝手に鳴いている、強い風に煽られれば一斉に転がってゆきそうな塊を一瞥し、

次いで少女は手元の切符を確認した。お洒落なテーブルクロスの様な淡い紺の切符の端には、金の印字で「南極行き」の文字が刻まれている。それ以外の紙面は、細かい銀箔を散りばめた様な、銀色の星空になっていた。


――この駅は、特別だ。

月光を返す青い大理石で作られたホームには、軈て海へ出る電車が到着する。

この駅を出て、海の線路を走って、幾つもの街も島も過ぎて、終着駅が「南極の町」なのだ。


少女が南極の町へ行きたいのは、世界の果てを見たいから。

地球儀の端っこに位置する場所に立てば、この世界の果てが見えると信じていた。

成長し、世界は詰まらないものに成り果てた。帰りたくないという思いを抱きしめたまま、

到着時刻を指す時計の文字盤を幾度も見上げた。

コウテイペンギン達が南極へ行きたいのは、生まれた場所に帰る為。

偶然乗り合わせる人間の少女を引き連れて、彼らは氷の町に帰る。


軈て灰色の寂れた電車が滑り込み、中から車掌が降りて来た。

平べったい手をした、オットセイの指先が切符を促す。

手に持つそれを差し出して、列車に気付いて集まってくるペンギン達に囲まれて、

鼻先をうずめたマフラーの隙間から白い息を吐き出して、

物憂げな少女はぽつりと言った。

「南極まで」


*

どんなに小さな溜息もはっきりと目に見える湯気となって立ち昇っていく、冷えた空気の世界。僅かな時間だけでも、ぐるぐる巻きのマフラーから鼻先を出せば、それはすぐに寒さでちぎれてしまうのではないかと思われた。


ここは、雪に覆われた停留所。

駅員が顔を出す小さな部屋もなく、あるのは小さな自販機、プラスチックの白い待合椅子と、駅名を記した看板だけだ。見上げた空には肉眼で見える星々が数え切れないほど瞬いていて、その出来の良さになんだか偽物ではないかとさえ思ってしまう。

目の前のホームだけを見つめる視界の端には、黒い塊がもぞもぞと動いているのが映っている。

高いような低いような背丈をした黒の塊は、コウテイペンギンの群れだった。ドキュメンタリー番組で観た南極ほどの規模ではないが、数羽で寄り集まって、疎らに降っている雪に抗うように、柔らかそうな羽毛を膨らませていた。時折聞こえる、少し形容し難い鳴き声。

ペンギンは居ても、人間の姿は周りにない。自分以外の景色が美しすぎる、そんな、少し現実味のないホームの隅で、私は、どうして自分がここにいるのか思い出していた。

まだ電車の入ってくる気配は微塵も窺えず、マフラーで覆い切れなかった鼻の頭に何度目かの冷たさを感じながら、息を吐きかけることで両の指先を温めて、ゆっくりと、そう古くはない記憶を辿る。





私は、小さな時から、周囲から言ってみれば“変わった子”だった。

私自身は実を言うと然程そうは思っていなかったが、とにかく、周りの人からそう思われていたのは確かだった。その自覚は、不思議とあった。

先ず、ひとつ。海洋生物が大好きなこと。

父が海洋研究開発機構で働いていた影響を受けたのか、私は、ずっと海洋生物が好きだった。可愛らしさと強さを兼ね備えたペンギン達、綺麗な姿で儚げに漂うクラゲ、そして、その大きさを疑ってしまう鮫や、シロナガスクジラ。彼らが同じ星に生きているという事実が、私の心をいつでも浮き立たせ続けてきた。彼らが居るだけで、単なる水の塊に見える海が、大層魅力的なものになっている気がした。

通っていた高等学校でも、私は彼らを愛し続けた。生物の授業が何よりも楽しみで、休み時間は必ずと言っていいほど、自分の席や図書館で、海洋雑誌などの本を広げた。

ここまでなら別に、普通の人間に思えるかもしれない。しかし、この年代の仲間というのは笑える程に典型的で、少しでも周りと違った行動をする存在が居ようものなら、それは呆気なく“変わり者”“異常分子”として見做された。

私には、同年代の子が夢中になるようなアイドルには興味がなく、女の子たちが夢中になるテーマパークのかわいい着ぐるみに会いに行く事へのわくわくも解らない。

同じものに歓声を上げられない私は、このクラスですぐに、”変わった奴”と認識されたらしい。

クラスメイトからそのような認識のされ方ではあったけれど、私は別に、気にしてはいなかった。友人は、全く居なかったわけではないのだし。学校でそんな風に過ごしているだけならばそれは勿論不満も募ったであろうが、私には、誰にも言えない、そして、変わり者と言われても仕方がない秘密があった。


「彩ちゃん、また明日ね。本ばっか読んでないで、前見て帰るんだよ」

傾いた陽が、放課後の教室を橙色に照らしている。蝉の声もとっくにしなくなった秋。全授業が終わった放課後、なんとなく授業の疲れですぐには帰ろうとしない私に、数少ない友人の一人である少女が声をかけてきた。

彼女の名前は一色梓紗。初めて話したのはいつだったか忘れてしまったが、ひいろ、も、あずさ、も、どちらを名前にしても素敵な気がする、と私が何気なく褒めたのを偉く気に入ってくれたらしく、向こうからよく話しかけてきてくれるのを受け取っていると、いつの間にか最も言葉を交わす存在になっていた。彩ちゃん、とちゃん付けで呼んだり、あや、を文字って、あーや、と呼んだりしてくれる。名字で呼び合うよりも当然ながら親密で、私は私で嬉しく思う。

「また明日。梓紗も、彼氏と仲良くね。待ち合わせあるなら、早く行ってあげてね」

そんな彼女に、私は同じ笑顔で返した。眼前で照れている梓紗は、大学生の彼氏と付き合い続けている。可愛い子に年上の彼氏なんて、本当に漫画のような話である。クラスで変わり者と称されている私と、名前を褒めたくらいでどうして仲良くしてくれるのかと不思議ではあったけれど、大切にしたいと思った子だ。互いに軽く手を振り返して別れたあと、午後五時のチャイムを遠く聴きながら、私もゆっくりと席から立ち上がる。

教室にはまだ数人の生徒が残っていて、放課後のおしゃべりに興じていた。関係もないので、黙ったまま部屋を出る。廊下に並んだ窓から射し込む夕陽を受けながら、そのまま校舎の外に出た。

秋の陽は釣瓶落とし。

家までの道のりをだらだらと歩いているうちに、まだ輝いていた空はあっという間に色を変えていた。薄紫色に染まっていく空を見上げると物寂しくて、私の心を落ち着ける“秘密”の行動をとるために、私はひとり、歩みを速めた。


通学距離は、徒歩圏内。電車は勿論自転車にも乗らなくていい距離に、私の家は建っている。一軒家で、庭の隅に物置。何の変哲もない家だけれど、この物置こそに、私の秘密が隠されていた。下校してきた流れで家の中に入るのではなく、私は、そのまま真っ直ぐに物置へと足を向ける。

木造の物置小屋の中は、使わなくなった物で溢れかえっていた。今は使っていない、捨てるのを怠った分厚いテレビ、足の片方折れたダイニング用の椅子、埃をかぶった化粧ケース。もう二度と役目を果たすことはないであろうそれらの中に、上下にドアの付いた、大型の冷蔵庫が一台佇んでいた。

古びているとはいえどそれなりの大きさで、仕切りや、内部の引き出しなどは既に全部取り払われてしまっている。白かった本体は傷と埃で薄汚れ、上の方のドアは製氷皿がガタガタとひっかかって何をしても開かない。現在キッチンで使われている新しい冷蔵庫が来てからは、ゴミにも出しそびれてここで余生を送っている。新品のものは所謂ピンクゴールドと呼ばれるぴかぴかした色をしていて、もし二つを隣同士に並べたら、この古い冷蔵庫はよっぽど惨めに見えるだろう。それでも私は、完全な白ではない汚れた色と四角い姿、この冷蔵庫に南極の流氷を思い出し、実を言うと気に入っていた。

物音ひとつしない小屋の中、私は問題なく開く下の方のドアを開けると、学校の指定鞄を両手で胸に抱き、ゆっくりとその空間の中に足を踏み入れた。クラスで一番ちびの私は、胎児のように体を丸めれば、中身を全部取り払った冷蔵庫の下段という空間に、大した窮屈さは感じなかった。奥行だって、見た目よりはある。電気が入っていないのでもう扉を開け閉めしても明かりの変化はないが、中にいても凍え死ぬようなこともない。中に入り込んで扉を閉めてしまえば、そこはもう私だけの安息の場所だった。

物置小屋の明かりが隙間から射し込むだけの暗い空間で、鞄を胸に抱いた私は目を閉じる。体育座りをして膝を折り曲げると、本当に胎児に返った気分になった。

海洋の世界には、人間が持つような建前や無理な付き合いなんてない。ただ、壮大な命の営みがあるだけだ。海に思いを馳せ始めて、ようやく心が静かに凪いでいく。

胎児のようだけど、周りを満たす羊水の音は聞こえない。それでも、私の頭の中には、水中を立ち昇る気泡の音が届いていた。

自分の息遣いしか聞こえない中、狭い所に身を落ち着ける。かつてひんやりとした冷気で食品を守り続けていた冷蔵庫。扉の内側で私は、その冷気が私自身を冷やしているさまを思った。どんどんと冷蔵行の中の気温は下がって、指先が悴んで、私の長い髪が凍って毛先から白く染まり、吐く息さえも冷やされ、私は冷たい南極の生き物に生まれ変わる。

学校には、友達が居ないわけではない。だけど、おしゃれや芸能人、恋の話に敏感な同年代の周りの子から、自分が浮いているという自覚は一応あった。

おしゃれは嫌いなわけではない。新しい洋服を着るのはわくわくする。

芸能人には疎い。男性俳優は、誰もかれも同じ顔に見えてくる。

恋の話なんて興味がない。誰かと一緒にならなくても、人生は充分謳歌できるのに。

周りに合わせられない娘と、困ったように笑う両親の顔。

それらから密かに傷つけられている心は、もう冷たくない冷蔵庫の中、そんな想像することで落ち着けられた。

これが、私の秘密だった。冷蔵庫に入るだなんて、誰にも、梓紗にも両親にも言わない。

私が、自分を“変わり者”と称されることを否定も悲しみもしない理由だ。

自分は不幸ではないと思いつつも、どこか満たされてはいなかった。

必要最小限度で生きていたはずの私は、恐らく疲れていたのだろう。




*

吹き付けていく風に身をすくめて、顔を上げる。電車はまだだった。空の色も星の数も同じままで、ホームに群れるコウテイペンギン達だけがよちよちと散歩をしていた。

視線を上げると、案内板の上にかかった時計が月光に輝いている。

静かだった。通過していく車両もない。恐らく、私が乗る列車が来るまでこのままだろう。

「!……わ、」

と、不意に、ブーツを履いた私の足先が仄かな温かさを増す。驚いて声を漏らしつつも視線を戻すと、一羽のペンギンが爪先に乗り上げていた。柔らかいお腹が、脛にも触れている。くるる、と高く、長く続く鳴き声を出しながら、羽毛に隠れてしまいそうな瞳を細めているペンギン。おずおずと手を触れると、羽毛に指先が絡めとられた。そのうちつつかれるかとも思ったが、眠っているのかと思うくらいにペンギンはじっとしている。


ペンギンに触れながら、私は自分がここに居る理由を思い出す。

もうじきやって来る列車に乗って、私はこれから世界の果てへと向かうのだ。これでもかというほど防寒した格好で、このペンギン達と一緒に南極の町へ行く。

旅に出る決心をした理由は単純だった。十何年も生きてきたのに大して好きにもなれない“自分”という存在でしか居られないまま、このまま同じ毎日を何十年も繰り返していくのだという事実に嫌気がさした。それだけだ。それだけだけれど、私は大いにうんざりしたのだ。

可愛くなれば人生が輝く。体を動かせば気分が明るくなる。

そんな言葉もよく聞くが、可愛くなるためにまず自分の姿と向き合った時点でもう嫌になるし、体を動かすと体育の授業でも怪我ばかり。もう碌なことがなかった。

南極を、世界の果てだと思って生きてきた。このまま面白くもない日々を死ぬまで繰り返すくらいなら、私の好きな世界の果てで、面倒な人間ではなく、彼らに囲まれて生きたいと思った。

だから、毎日にうんざりした海洋好きの私に南極行きの切符が訪れたのも、何か一種の運命だと思ったのだった。


くるるるる、と、又眼前のペンギンが鳴く。すると、今度は遠くの群れからも同じ鳴き声が返ってきた。そのまま、足の上から降りて呼び交わす彼らにつられて改めて辺りを見回すと、星しかなかった空に、透明に輝くミズクラゲが泳いでいた。

いつの間にか、ホームに生き物たちが集まってきていた。私とペンギンの頭上をクラゲが漂い、反対側車線にはクジラの赤ちゃんが横たわっている。

いくらか賑やかになったプラットホームは、多くの生き物が電車の来るのを待っていた。


そうしてやがて、ずっと向こうの夜闇の中から、微かに光る白い明かりが見えてきた。それこそクジラの眼みたいに小さい光。

南極町行きの切符を失くしていないか手袋の中で確認しながら、私は椅子から立ち上がった。立つ拍子に息を吐くと、その吐息も真っ白に染まって空へと消える。周りの景色が異なるせいか、普通の街中で生きていた時はなんとも思わなかったそれが消えていくのを、不思議と酷く勿体ないと思った。つるりとした、二車両の小さな列車。


滑り込んできた列車は、無機質な灰色をしていた。重苦しいほどの彩度ではない。だけど、明かりが白いことも相まって、主に感じさせられるのは冷たさだ。

クラゲは空中を漂っているし、ペンギンは何を考えているか読み取れないし、タイミングを図っているうちに電車が行ってしまっては元も子もなくなるので、私が一番先に動いた。座るにあたって地面に下ろしていたリュックサックを背負い直し、椅子のあった所からそう離れていないホームと線路の境界に辿り着くと、ほぼ同時に列車の扉が横に開いた。私は思わず息を呑む。

水族館で見たのと同じ、大きな体をしたオットセイが、開けた搭乗口からのっそりと降りてきた。二足歩行でタラップを踏みしめて。なんだかその体の大きさがいやにアンバランスなものに見えて、私たちが使うバスのそれと変わりなく思えるタラップが重みで割れないかと冷や汗をかいた。

眼前の大きなオットセイにどきどきしつつも、取って食われやしないかとも心配する。

そしてゆっくりと、毛皮に覆われたその手が、私の方に伸びてきた。

「あの、……」

思わず肩を竦めるが、そうではないとすぐに気づいた。このオットセイは列車の車掌だ。

求められたものを正しく理解した私は、握っていた切符と乗車券を差し出した。

「南極まで。帰りの分は、……無いけど、いいです。要りません」

この駅に切符切りは見当たらない。オットセイの黒い手が、ぱちんと切符を切ったのだ。当然ながら生まれて初めてのその光景を、私は馬鹿みたいに口を開いて眺めていた。

そしてそのまま、切符を返されて道を開けられる。タラップを上ると、列車内は、外よりかはほんの少し暖かだった。

続いてクラゲが頭上を通って中へと入る。鳴り始める発車のベル。遠くで群れて佇んでいたペンギン達が、ベルに気づいて慌てたように危なっかしく歩いてきた。それに気づいて動きを止めるオットセイ。そのなんとも間の抜けたペンギンに、私の緊張は自然と緩んでしまう。タラップに躓いてよろめいた歩幅のまま歩いてくる一羽に、「大丈夫?」と呟いた。

新幹線のように座席を指定されるわけではなさそうなので、暫し迷った末に、車両の真ん中より後ろに位置する窓際のシートに座ることにした。乗り物特有の、酔いそうな匂いもしないし、外観に反して列車の内装は暖色が多かった。赤茶の木が張られた床はニスが塗られたように光っているし、臙脂色のシートは白いつり革と調和して上品だ。

初めに冷たい色を見てきた後だからか、すっと気分が落ち着いてくる。

少しすると、私の周りは先程のコウテイペンギンで溢れかえってしまった。皆海の生き物だから涼しめの車内なのかと思ったが、これだけぎゅうぎゅう詰めになれば意味がないのではないかと心配になる。ホームに居た時よりも多く見えて思わず座席の後ろの方を振り返ると、ひよこのように一列に並んで、連結部分から二車両目に流れていっているのが見えた。一方それに比べて、ミズクラゲ達は天井近くの高い位置でつり革に絡まっていた。車内に海水が満ちているわけでもないのに、その体は不思議に靡き続けている。

「南極は終点だし、…これだとマフラーと手袋は暫く要らないなぁ……」

私は思わず声に出して呟いた。防止に耳あてにマフラー、手袋、背中にはリュックサック。この姿のまま乗っていると、着く頃には恐らく、ペンギン達の密度で茹で上がってしまうことだろう。

辺りを観察しているうちに全ペンギン達が車内に収まったらしく、やっと列車の扉が閉じた。私もよく知っているベルの音が、ちん、と鳴らされる。

私は、ふうっ、とお腹の底から深呼吸をした。愈々私は、知らない世界へと旅を始める。

世界の果て。南極の町。海に近い、海洋生物のいる町。

当然行ったことがないので脳裏に広がるのはやはり極端な想像だ。

町は一面真っ白で、交通事故の代わりにシャチとぶつかったりするのだろうか。

そうしたら、町のペンギンはどうなるのだろう。住むところ、分かれているのだろうか。


隣のシートにはペンギンが一羽、前を向いて収まっている。

「あなたは、南極町に帰るの?それとも、どこかの水族館から運ばれてきたの?

その町では、あなた達ペンギンはちゃんと生きられているの?」

私が彼らと言葉を交わせたなら、そう尋ねたに違いない。


手袋を外した素手で曇った窓硝子を拭いつつ、列車がゆっくりと動き出すのを感じた。

反対車線に居たクジラの赤ちゃんが、次第に右へと流れていく。

――列車が町に着くまでは、疲れた心を休ませよう。

眠くなったなら眠ってもいいだろう。ここには、学校のように不必要に気を遣う相手は居ないのだから。

古くも心地よい匂いの車内で、シートに身を沈めた私はそう思った。

私のことを知る人が居ない場所へ行くのだ。

帰りの切手は、要りません。その言葉を聞いて、オットセイは何の声も立てなかった。

その言葉は、私の決意であった。

向こうの町で上手く生きられなくても、今よりは良いに決まってる。

列車の中、ペンギンと窓際の壁に挟まれた狭い空間。

物置小屋の冷蔵庫みたいに、私は狭い場所が落ち着くのだろう。

プラットホームを抜けて走り出した南極町行きの列車は、コウテイペンギンとミズクラゲの群れ、オットセイの車掌と小さな人間を乗せて、やがて小気味よい音を立て始めた。

それに重ねるように、私はいつしか寝息を立てる。


*

南極行きの切符が私の元に訪れたのは、冬の日だった。朝夜には、ちらほらと雪が舞うこともあり、受験シーズンの通学時間や下校時間、勉強だらけの日々の中降ってくる自然の変化に、道行く学生が楽しそうに歓声を上げているのをよく見かけた。

その頃私はというと、無事に大学受験を終えて一息ついていた。苦手科目の方が多いし然程優秀な生徒ではなかったものの、私が合格したのは公募受験だったため、クリスマスをも迎える前に、我が家の受験騒ぎは片付いたのだ。また梓紗は、というと、彼女も同じく公募受験で、私とほぼ同じ時期に合格を勝ち取った。おかげで一般受験さえしなくてよい彼女は、例の年上の彼氏と早くも冬を満喫しているらしい。

「彩が年内に合格してくれたから、まず一安心だね」

「学校が決まらないまま年を越すなんてことにならなくて良かったなぁ」

私の大学受験が落ち着いてから、家の中では何度もこの言葉が飛び交った。両親を安心させられたのはいいけれど、私の胸にはすうすうと風の抜ける穴が開いたようだった。

今まで、重大だと三年間言われ続けてきた大学受験を終えて、それに向けて続けてきた勉強をこれまでみたいに必死でするということもこれから先はきっとなくなって、次は何を以て毎日を充実させればいいのだろう。勿論、勉強に追われていた分、好きなことをやればいい。今までなんとなく受験のことが気にかかって心から楽しめていなかったゲームだって、もう好きなだけ出来る。

冬休みを迎えてしまえば、変わり者というより腫物のように私を扱う周りの人間とも、お世辞や沈黙、建前なんかで接しなくてよくなる。

それなのに、と思った。

どうしてだろう。学校へ行って先生の話を聞いていればいい、何かを目指して勉強をしていればいい、と、はっきりとやることが解っていた時期が終わってしまったという不安と、妙な寂しさ。

その穴が開けられる衝撃に、私は然程強くはなれなかったようだ。


だから私は今日も、共働きの両親が出かけてしまうと、一人で物置小屋の冷蔵庫で座り込んでいた。胎児でなければ、拗ねている小さな子にも見えるだろう。膝を抱えて、目を閉じて、大好きな海のことを考える。爽やかな空の色に、黄色の毛交じりのペンギン達。海の色。それぞれが鮮やかなのに、互いの色彩を邪魔しあうことは決してない。

――それなのに、そんな彼らを見ている私はどうしてなのか、こんなに生きにくい人間になってしまった。いつの間にか、自分自身でも気づかぬうちに。

所謂 ”周りに溶け込んでいる” 子たちが見るようなテレビ番組は興味がない。

どうして、絶対に誰かと一緒にならないといけない、なんて風潮になったのか解らない。

ひとりで居るのは不幸、彼氏を作り、恋愛するのが普通だなんて、誰が言い出したのだ。

受験が終わったのはすっきりする出来事のはずが、大きな仕事を終えた途端、余計なことばかりを考える。

いつからか抱えていた歪が、急に大きくなった気がする。

恐らく、気づけばずっと根付いていたものが、受験という大きな壁が取り払われた瞬間を狙って私を取り巻いたのだろう。

自分が好きなものを自分で否定する気も、無理して周りに合わせようとする気も起きないのに、そのくせ、周りと違うということがどうしても、自分の中の違和感を育て上げていく。

冷蔵庫の中、丁度良い閉塞感に包まれて、私は呟く。

「なんか、疲れちゃったなぁ……」

一言で言うなら、ただそれが一番ぴったりな気がした。


暫くして蓄光の腕時計を確かめると、もう夕方の六時を回っていた。いつも両親が帰ってくる時間帯はまだ少し先だけれど、もやもやと考えていつも以上に長く冷蔵庫の中で落ち込んでいたため、お尻が痛い。

冷蔵庫から部屋の中へと出てくると、辺りはもう真っ暗になっていた。夏の六時と冬の六時では明るさが全然違う。

そのまま物置小屋からも出て、庭を通って家に入ろうとすると、ぶるる、と震えるエンジンを響かせたまま、郵便局の配達バイクが停まるのを見た。なんとなく立ち止まったままで見ていると、手袋をした配達員が私を見つけて、手にしていた郵便物を選り分けながら話しかけてきた。

「桜木さんですね」

寒そうな若い配達員。彼こそ、大学生くらいの見た目をしていた。梓紗は、これくらいの人と付き合っているのだろうか。そう思うと、先程の痛みがまたちくりと私を刺す。

「はい、」

うちの郵便物を手の中で探してくれている彼に応えて待っていると、分厚い手袋の指がようやく数枚探し当てて、私に手渡してくれた。

「はい、どうぞ。どうもありがとうございました」

手を伸ばした私が数枚の封筒を受け取ったのを確認すると、配達員はお辞儀をして庭を出て行き、エンジンに震えているバイクに跨った。そしてそのまま去ってゆく。

バイクのテールランプの消えるのを見送り、手に持った封筒の束を裏返してひとつ息をつくと、私の口から洩れたそれが白い煙になって溶けていった。

物置小屋に来る際持ち出していた家の鍵で玄関に入ると、封筒に書かれた宛先が私宛になっているものが一枚あった。

私にこの時期手紙を出して来る人なんてあるだろうか。

塾の先生。中学の頃の先生。何かしら理由をつけられそうな人達を思い浮かべてみるも、どれもしっくり来ないで、ついひとりで首を傾げてしまう。電話台に置いてある共用の鉛筆立て、そこからハサミを取り出すと、私は天井の明かりにかざして封を切った。


口を切った封筒を傾けてみると、中からは丁寧に何かを包んでいると思われる長い紙片が滑り出て来た。浅葱色を薄めたくらいの色をしていて、何も書かれてはいない。その小さな紙の中に、少しの厚みが隠されているのだけが指先から伝わってくる。

手紙が私に届くこと自体が珍しいのに、こんなに、何というのか意図の見えないものが届くのは不思議で仕方がなかった。

「二枚重ねになってる」

独り言を零しつつ、何かを包んでいる浅葱色を解いた。中からちらりと見える星空に戸惑う。

そこに入っていたのは、

「……切符……?というか、乗車券?」

新幹線の切符と乗車券。すぐに思い浮かんだのはそれだった。大きな長方形の二枚組と小さな切符が、お行儀よく重ねられた状態で私を見上げていた。

困惑したものの、その切符は、私が今まで見た中で、最も綺麗な紙で出来ていた。

宵の入りのような淡い紺色の紙に星を模したのであろう銀箔が散りばめられ、金色の文字で印字がされている。

「南極、行き」

声に出して、いよいよ首を傾げてしまった。南極?あの南極だろうか。

南極といえば、氷の大地だ。一度は行ってみたいと思うけれど、行ったところで、……どうしよう。私が海洋生物を好きなのは事実だ。でも、南極に居る間流氷の外の生物から自分を守れるかと言われれば自信はないし、傍に居たペンギンがシャチやアシカに食べられたりしようものなら、私は多分泣いてしまう。流氷の上にも下の海にもたくさんの生き物は居れど、会話を交わせる相手は居ない。そんな私が、一人で南極へ行ってどうしよう。

心の中でそこまで考えて、いやいやと首を振る。何考えてるんだと苦笑して。

「行けるわけ、ないし」

どこの誰から届いた悪戯だろう。そもそも私の名前の宛名だけで出所が書いていないというのは怪しいのに、よく疑われもせず届いたものだ。

また、訝しみつつもまだ封筒が厚い気がして指を差し入れてみると、封筒とほぼ同じ大きさの紙がもう一枚、封筒の中に入っていた。あまりにサイズが近いため、引っかかって同化していたらしい。

指で挟んで引っ張り出したその一枚には、きちんと文字が刻まれていた。

手書きの文字ではなく、これも印字だ。

『南極行き乗車券が届いた方へ』

古いタイプライターが刻んだような、小さく四角い文字が、所々インクを滲ませた跡をつけて並んでいた。本当なのか見当もつかない電話番号の数字の羅列もそこにある。

「『南極町鉄道所より』」

書いてあるのは、ただそれだけだった。怪しすぎるにも程があるが、その手紙の末尾にはペンギンが横向きになった……水中で泳いでいる時の姿の形をしたペンギンの判が押されていた。

「……南極、だよね?」

南極、町、とはどういうことだろうか。そんな名前の町があるとするならば少し安直すぎやしないか。ペンギンが押されているからか、最南端の町という意味などではなさそうだ。南極の町。アザラシなんかが暮らしているところを想像して、私の心は少しだけ落ち着いた。

然し、その日の私の心が本当に駄目になってしまったのは、その後、帰宅した両親と夕飯を摂っている時だった。


「彩、彩。早くこっち来なさい、ご飯だよ」

どうやらあの手紙を読んで自室に戻り、そのまま眠ってしまっていたらしい。寝起き特有の体の怠さを感じながら体を起こすと、母の呼ぶ声がするキッチンの方へとのろのろ歩いて行った。

食卓には既に夕飯が並んでおり、美味しそうな匂いとともに湯気を立てていた。

父ももう帰って来ていたらしく、先に卓について私を待っていた。

「おかえり、お父さん、お母さん」

眼を擦りながら私が言うと、普段通りの夕飯が始まった。寝起きの私は空腹で、普段よりも多い量を平らげた。その分、食卓についている時間が長くなる。

その時、不意に、生き辛い私の胸を突く話題がぽんと挙がった。

「そういえば、うちの裏に住んでいた優音ちゃん、憶えてる?」

「憶えてるよ」

サラダボウルから自分の取り皿にサラダを取り分ける母から向けられた問いに、私は答えた。優音ちゃんというのは近所に住む私の幼馴染だ。ピアノを弾くのが上手で、家には大きなピアノがある。グランドピアノではなくアップライトピアノだけれど、家に楽器のない私は羨ましくて、遊びに行く度に弾かせてもらっていたのをよく憶えている。

家族ぐるみで仲が良い女の子の家庭なので、私達が小さい頃から、一緒にお花見だの外食だのと、なにかと仲良くしていることが多かった。

今は優音ちゃんも受験期間なので、時々メールを交わすくらいしかしていない。

「最近またね、優音ちゃんのママからメールが届くようになったの。元気でやってるって。また受験が落ち着いたら、ご飯にでも行きましょうって話をしていて」


嬉々としてママ友同士の会話について話すのを聞いているうちはよかった。

だけどそのうち、どうして母親と娘の話題というものはどこでもこうなるのだろう、またというのだろうか、どうせというのだろうか、次の母の言葉が私を苦笑させた。

「あ、そうそう。それから優音ちゃんも彼氏出来たみたいよ。早いわねえ」

「そうなんだ、」

自分の喉から出た声が僅かに強張るのを、自分でも察してしまう。

「あんたと同い年なのに大人っぽいからかなぁ。彩は仲良くしてる男の子は居ないの?」

毎度こういう話題が私にも振られるのは、私が周りと同じように生きていけないのを誰にも言わないから。

誰にも言わないのは、余計な心配をかけるし、私も”普通じゃない”を自分の手で浮き彫りにするみたいで、心細いから。

だけどそれが結局自分自身を苦しめることになるのだと、私が本当に痛感したのはこの夜だった。言葉にしなければ、私の当惑は当たり前ながら他人に汲み取ってはもらえない。


父親も、どこでも同じなのだろう、この手の話になると、テレビを観ながら焼き魚に醤油を垂らしていた父も言葉を合わせてくる。

「いや、でもあっという間に大きくなったし、いつか彩が結婚するのが楽しみだなぁ」

「あんた頼りないんだから、ちゃんと真面目に向き合ってくれる人を探すのよ」

うん、うん、と上辺だけで頷き、苦笑いに近い顔で私は微笑み続けた。

――恋愛が苦手な私に、結婚出来るだなんて到底思えない。

それにもし恋愛して、付き合ったのに、もし振られたりなんてしたら惨めだ。そうならないようにするには、可愛い子だと思われ続けなくてはいけない。

私がそんなことを出来る人間だとは思えないし、自分の心を無理にすり減らしてまで相手に気に入られているのなんて絶対に疲れてしまう。

だけど、生きているとたくさんの恋人達を私は目にする。それだけ皆、誰かと上手く恋愛しているのだ。皆、なんて器用に生きているのだろう。

それが解っていたから、この話題は私の心をきつく絡めてぎりぎりと締め上げた。

でも、私が悪いのだ。

自分に感じている違和感。

そしてこの違和感を他人に打ち明けたところで、こんな考えに苛まれる人間は少なくて、きっと変に思われる。

怪訝に思われないように相槌は絶やすことなく笑い続けて、ようやく自分の分の夕飯が片付いた。ずっと気を取られていたせいか、丁度良く焼けていて美味しかった魚も、ドレッシングとの相性が抜群だった瑞々しいサラダの味も、メインディッシュだった大好きなスパゲッティも、殆ど味わえた気がしなかった。

「ごちそうさま」

皿を持って立ち上がる私に、「また優音ちゃんに、冬が明けたら連絡しなさいね」という母の言葉が飛んできた。それにもまた返事をして、……ああ、本当に疲れちゃう。



電気が消えたままの自分の部屋に再び戻り、ベッドの上に仰向けに倒れた。そして、体勢を変えて横向きに寝転がる。食べたばかりのお腹が重たくて、溜息をついたら、私の重みで凹んだ布団を滑り落ちてきた紙切れが、ちくりと手元に触れた。

「あ、これ……さっきの、」

先程開封した封筒の中身。不思議な切符と乗車券。行先は南極。

私はそれを再び手に取ってみた。

こんなの、どこに持って行ったら乗車できるというのだろう。

――いつからか、恋愛にお洒落にと楽しげな”皆”と同じように生きられなくなって、

両親はそんな私の恋愛なんかを期待していて(親だからこそだとは解っているけれど)、昔から一緒だったはずの子は、一足先にもう大人になりかけている。世の中は、まるで恋愛をして色々なことを知るのが大人なのだと言いたげなのに、そのくせ仮に同性同士が共に居るのを見聞きすれば、異端だと決めつけるではないか。そういう所も、嫌い。

でも、その苦しみと違和感は、いざ打ち明けようとすると言葉にできない。

世間一般的ではないと言われる。結果、いつでも私の心だけが妙な孤独に包まれていた。

誰も私のことなど知らない場所で、ひっそりと私自身をやり直したい。受験だけ周りより一足先に終えた私は、強制登校ではないので言ってみればもう冬休みだ。

――莫大な時間の余裕が、私に行動を起こさせた。

肘をついてそっと体を起こし、ベッドの上に座り直す。電気のついていない私の部屋を、開け放したカーテンの隙間からさす弱弱しい月明かりだけが鈍く照らしていた。


南極の町に行こう。馬鹿らしい話だけれど、本当にその時そう思った。

そこには流石に、私の人間性を知っているような者は居ないに決まっている。どうせ冬休みも家にこもってつまらない過ごし方をするくらいなら、少しくらい意味が解らなくても、違う行動を起こしてみよう。もし何か悪いことになったら、それもやっぱりこんな私らしいということで、その時はその時だ。

思い返せば半分自棄である。私は、壁際のコンセントで充電ケーブルに繋いでいたスマートフォンを取り上げた。画面には、私と同い年の有名人気モデルの女の子が新しいブログを開設したという、ブログサイトからの通知が来ていた。神様は平等、二物を与えずなんていうのも多分嘘。また、ほぼ無意識に溜息が出る。

「スマホからかけても、大丈夫かな」

小さく呟き、切符と共に入れられていた手紙に記載されている電話番号の数字を押していく。間違えないように一文字ずつ目で確かめながら入力し、ペンギンの判子の部分まで辿り着くと、半信半疑、恐る恐ると発信ボタンを指先でタッチした。

画面表示の電力で生温かくなった本体を耳に押し当て、プルルルル、と始まり出した呼び出しのコール音を無言で聞く。自分の心臓が激しく鳴っているのが伝わってくる。

そしてやがて、ぷつりと呼び出し音が途絶えた。息を詰める。

電話の向こうから聞こえてきたのは、静かなさざ波のような音だった。ずっと前、祖父と祖母の元へ出かけた際、港の前で波を見つめていた時を思い出す。

波の音に胸を高鳴らせて固唾を飲み、じっと待ってみる。

しかし、電話を取られてすぐに聞こえてくるであろう「はい、こちら……」と名乗る声は、電話の応答にしては長い程の時間待ったが聞こえてこない。

暫く延々と波の音を聴いていて、途端に、いよいよ馬鹿らしくなった。

「何してるんだろ、私」

スマートフォンを一旦耳から離し、散らばっていた紙類を纏めて拾い上げた。本物の電話番号でないのなら、何のために届いたもので、こんなに綺麗なのに使えない切符なんて、どうしておいたらいいのだろう。

つまらないなぁ、と何度目かの息を漏らした、その時だった。

《こちらは、南極町鉄道所……》

遅れに遅れて届いてきた声に、私は思わず両手でスマートフォンを耳に当て直した。

《ご連絡頂いた、……券をお持ちのお客様、……》

電波が安定していないのか、向こうの電話が悪いのか、声が所々で途切れてしまう。私は息を殺して耳を澄ませた。電話口の声は、男とも女ともつかない。穏やかで、ただただ落ち着いた声音だった。

こちらは、南極町鉄道所。ご連絡頂いた、乗車券をお持ちのお客様。

この次は何だろうと、身動きもしないままで待っていると、

《南半球行き、鉄道ホームからのご乗車を……》

波の立つ掠れた音声でそれだけを述べると、それきりぷっつりと電話の音声は切れてしまった。

夜は刻刻と更けていく。静かになった電話口の向こうからは、それきりもう何の音も聞こえては来ない。私が一人、電話をかける姿勢で座っているだけ。

ドッキリか何かだとすれば、これはあまりにも手の込みすぎている冗談だ。

半端に見放された気にもなって、私はスマートフォンを片手にふらりと立ち上がった。椅子に引っ掛けてあった厚いカーディガンを掴んで部屋を出、夜のバラエティ番組で盛り上がる両親の背を横目にリビングの前を通り過ぎ、洗濯物を干す時などに履く外履きのサンダルをつっかけると、風の冷たい庭へと出た。

肌寒い風を受けながらカーディガンを羽織る。本日二度目になってしまうが、疲れてしまったり落ち着きたい時には物置小屋の冷蔵庫、という方程式が、私の中ではもうすっかり馴染みのものになっていた。


外は寒いが、物置小屋の中にはそれなりに暖房器具も放り込まれているし、ちゃんと使える流し台もある。こんな夜に凍死までしてしまっては本当に情けないので、私は、背の低い衣装ケースの上に転がしてあった湯たんぽを拾い上げると、それを抱いて中に入ることにした。

流し台からお湯を注いで蓋を閉じ、カバーごと抱えると、スマートフォンも忘れず手元に持って、いつものごとくドアを開いた。

適度な閉塞感のある古い冷蔵庫の中は無音で、膝を折って湯たんぽを抱きしめた姿で収まっている私は、なんだかこのままどんどんと小さくなっていくような気がした。

毎日生きていく度に、誕生日を迎える度に、年齢や学年の事実上なものだけが大人になっていき、私の心の方はいつまで経っても幼いままだ。

こんなことしなくても体が小さかった頃はよかった。何も気にしないで生きていた。

いっそ、大好きな海洋生物にでも生まれていれば、広大な海で好きなように過ごせていたのだろうか。果てしなく広い海には、種族こそは同じでも、全く同じ生き方をする生物なんか一匹たりとも居ないはず。

ああでもきっと、私みたいなのは、仮になれたとしても小さな動物で、きっと鮫やクジラに食べられちゃうんだろうな……

身動きしないで居ると、ゆったりとした眠気が覆い被さって来た。妙に寂しく、ウォークマンでも一緒に持って来ればよかったかなぁ、などとまだ考えているうちに、いつしか私は瞼を閉じた。

初めの辺りはまだ浅い眠りで、私はゆらゆらと夢を見た。

夢の内容は、だいぶ昔に読んだ気がする物語――

かの有名な文豪が描いた、銀河鉄道の夜のような夜の世界。

閑散としているのに美しさが何よりも際立った見知らぬプラットホームで、私はコウテイペンギンの大群に埋もれていた。




*

ふと目を覚まして車窓から視線を投げかけると、駅を出た列車はもう全く知らない所を走っていた。車内は相変わらず暑くも寒くもない空気で、隣を見るとコウテイペンギンが目を細めてシートに収まっていた。静かな呼吸をしている彼のまんまるに膨らんだ羽毛に、思わず手を伸ばしかけてしまう。

改めて自分のシートの周辺を確かめると、ツアーバスのように、前の座席の背凭れ裏にあたる部分に、備え付けの小さな机とフックがついていた。脱いだ帽子をそこに引っ掛けて、机を広げると、なんだか遠足みたいだと思った。

オットセイに確認された夜空模様の切符を机上に置いて、私は再び外を眺める。

童話の世界に似た空だった。どこにぶつかるでもない流れ星が細く尾を引いていくつも流れていて、ついうっとりと眺め入る。

かたん、かたん、と特有の、列車が走る小気味よい音が聞こえてくる。空があまりに壮大で、まるで飛んでいるようにも感じるけれど、恐らく下にはきちんと線路があるままだ。

「どれくらい、かかるんだろう……」

「終点までかい?」

「はい、終点の。……南極町って所みたいなんですけど」

星を眺めたまま零した私の呟きに質問が返って来、流れるようにそれに応じてから、一拍置いて私は飛び上がった。

低くも高くもない穏やかな声だった。どこか楽しそうなその声音と自然な会話をしたことに驚いて、私は窓から勢いよく振り向いた。

「だ、誰……?」

私以外に、この列車に人間は居ないはずだ。それなのに、まぎれもない日本語でのやり取りだった。

困惑を隠しきれずに恐る恐ると元に直った私の視線の先で、こちらを見ていたのは一羽のペンギンだった。信じられない思いで私は顔を近づける。

「なんだ、そんなに近づいて。目が悪いのかい」

「悪くない。……いま私に返事したの、……あなた?」

先程と同じ声でさらりと失礼なことを尋ねてくる目の前の生き物に問いかけると、彼(話口調からしてやはり”彼”だろう)は細い嘴を動かして又もや応じる。

「そうだ。君が何か知りたそうだったから応えてやろうと思ったのさ」

さも当たり前のように、眼前のコウテイペンギンが私と同じ言語で話している。

自然すぎるほどに、意思の疎通が出来ている。信じ難いにも程がある。

「あ、……ありがとう……」

反射的に一応といった様子で出て来たお礼の言葉に満足したのか、コウテイペンギンは、今度は自分から言葉を紡ぎ始めた。眠たげだった頭をふるりと振って、胸の羽毛をまた膨らませて。

「お前さんの行きたがっている終点の南極町までは、この列車一本じゃそれなりに時間がかかるよ。かといって、遠すぎるって程でもないけどね。その様子じゃ、知らないだろう。窓の外を見てごらん」

悪い奴ではなさそうだと思って彼の喋る言葉を聞いていた私は、促されるままにまた窓の外を見た。流れ星の空から一転、車窓の外は海中だった。

「え、え!?海……いつの間に潜ったの……?」

少なくとも、水の中に潜る衝撃なんかはなかったはずなのに、と驚いていると、隣のペンギンがまた口を開く。

「流星群の道が終わったのさ。そのあとは、この海中線路を通って、教会のある島を過ぎて、そうしてやっと南極町だ」

「ここ、本当に海の中?窓が割れたり、しないの?」

発車前のプラットホームも発車して直ぐも星ばかりを見ていたせいか、突然の景色の変化についていけない。海中だといわれても、もしも水圧で窓が割れたりしたら、ペンギンでもミズクラゲでもない私は溺れてしまう。微妙に残っていた眠気も忘れ、質問ばかりを繰り返す私に、続けて言葉が紡がれる。

「南極で作られた乗り物は、水圧で壊れるほどやわじゃない。お前さんが心配しているようなことにはならないよ。……おっと」

そこまで話した時、車両の後ろの方からころころとキャスターを押して来る音が聞こえてきた。ペンギンはそれに気づいて言葉を途切れさせたのだ。

「列車の売店だ」

私も一緒に頭を巡らせ、近づいてくるキャスターの音の方を見る。

私もよく知る一般的な新幹線の売店と同じで、お菓子や飲み物らしき品物のどっさり詰め込まれた籠が、ひとつひとつの座席の横を巡って移動して来ていた。

「ひとりでに動いてる……」

そうだった。誰も押す者がないというのに、売店の籠は間違いなく全ての座席の隣で止まって、きちんと仕事をしながら移動していた。

「すごいだろ。どうなってるかは僕も解らないんだが、駅の物だし、気にしなくても使えるのなら知る必要はないからね。君も好きなものを頼め」

そう言ってペンギンは、「鯵スティックを」と籠に要求した。私は傍で身を乗り出して見つめる。すると、籠の中に用意されていたらしい鰺スティックなるものが、ふわりと宙を漂って彼の広げた机上へと降り立ったのだ。それと同時に、私は彼の羽毛の腹部が机につっかえているのも発見する。苦しくないのだろうか。

「あの、でも私、どんな品物があるか知らない」

「魚料理や魚のお菓子、魚ばっかりだが海藻もある。海にあるものが大抵だ」

「えっ、じゃ、じゃあ私も鰺スティックでいいです……」

鰺スティックが何かも解らないまま頼んでしまったが、少なくとも私より多くのことを知っているこのペンギンが別段不味い反応を示さなかったので、同じものを頼んでみる。

私の手元にも浮かぶようにして商品が届き、ぽかんと見ているうちに、物音一つ立てず、もう机上で澄ましていた。そして売店の籠は、私達の席からそれ以外の要求がないことを悟ったのか、隣の通路を通り過ぎ、今度はひとつ前方の乗客の元へと移動した。

前に向き直ると、ペンギンは鰺スティックを一飲みに味わっていた。その様子を見ていると、改めて彼とは生態が違うのだと再認識する。

私は人間であり、丸飲みなど当然出来ないので、一先ず全体を覆っている包装を解き、頭の方から少し齧ってみた。見た目としては鰺に口から胴へと割り箸のような棒が一本抜けていて、スティックという名に恥じない見た目である。というよりもそのままだ。

そしてその味は、

「お、思ったよりなまぐさい……」

「なまぐさいも何も、生きてはいないってだけで調理的な意味では生さ。南極へ向かう生き物の列車だぞ?ここには魚を調理して食べる奴は少ないからね」

「う、なるほど」

列車が走り続けている間、私は軽い気持ちで頼んだ鰺スティックと格闘した。

長い時間がかかると言われた移動時間を潰すのには最適だったかもしれない。

「……それにしても、あの駅から南極町にどれだけの時間がかかるか知らなかったり、鰺スティックを知らなかったり、お前さんは本当に初めてここに居るんだね。それに人間だ」

「鰺スティックってそんなに有名なの?」

「あっちでは我らがペンギンに人気だよ」

ペンギンだから、人気になるのもまぁ当然か……と頷いていると、彼は続けて私に問うた。

「あの町へ行く人間なんてとても珍しいんだ。お前さんはどうして行こうと思ったんだい?」

窓の向こうに広がる海底の景色は、主に濃いターコイズ色をしていた。澄んだ水の中を大小さまざまな魚たちが泳いで渡り、質問の答えを考えるふりして窓に顔を押し付け上の方を見ると、水面のほうが光って煌めき、非常に綺麗だった。あれは太陽の光だろう。

そして、次第に駅に停まり出すようになった。先程から、初めに一緒に乗車したミズクラゲ達の一部がふわふわと出て行き、代わりに黄色い体の可愛らしいクラゲが車内に交じっている。

「解らない。でも招待されたの。……あまりよく憶えていないけれど、なんだか、酷い気分になることがあって。そんな時に、この切符と乗車券が手紙で届いたの。だから、遠くへ行きたいと思って、……それだけ」


コウテイペンギンは黙って私の話を聞いていた。そして言う。

穏やかながら諭すようにも聞こえる声だ。

「そうか。理由は生き物それぞれだ。だけど、不思議だな……」

「何が?」

「南極の町へ行く”人間”というのは、自分で望んで切符を手に入れて向かう奴が大抵なんだ。だけど、お前さんは違う。招待されたんだろう?我らの町から電車を出しているのは南極鉄道所だけなんだが、鉄道所が”招待”という形で人間を呼ぶのはそれなりに珍しいことなんだ。まあだけど、何か理由があるんだろう。――その切符も偽物じゃないだろうから」


私が見せた切符と乗車券。その数枚に嘴を近づけながら、コウテイペンギンはそう言った。

「そう……。どうして、私が町に招待されたんだろう……南極に行くのは初めてだし、住所を教えたことなんか絶対ないのに、これが入っていた封筒もちゃんと私の家に届いた」

つり革を持たない黄色いクラゲが、時折気ままに、私達含むシートに居る乗客の方にもやって来る。ひらひらと長く脚を揺らめかせて揺蕩う姿は綺麗だったけれど、私の脳内に生まれた疑問は消えなかった。

「ねえペンギンさん、あとどれくらいで南極に着いて?」

その時、頭上で澄んだ声がした。聞き慣れない、お上品な言葉遣い。

顔を上げると、そこには黄色いクラゲが漂っている。

彼女(だと思われる)も同じ場所を目指しているらしい。ペンギンに次いでクラゲも話す姿に驚いていることはさておいて、海が好きな私は彼女についてもよく知っている。菜の花色の体が可愛らしい。

「やあ、クラゲさん。あの駅からだと貴女もここまで長旅だね。……どれどれ、ああ、もうすぐ海底トンネルも終わるよ。そうすれば、ものの数分でもう教会の島、そのまま直ぐに南極の町だ。ここまで来ればもう少しだから、海底を出ると同時に下車の支度を始めればいい」


丁寧に応えるコウテイペンギンに、彼女は声まで可愛らしく礼を述べた。

「ありがとう、町へ着いたら真っ先に仲良しの子に会いに行くわ」

「ああ、あの町にしか居られない子も居るだろうからね。楽しみだな」

そしてクラゲはそのまま、再び上の方へとまた昇る。

「詳しいね」

私がぽつりと言うと、彼は可笑しそうな声音で言った。

「まあね」

「どうして?」

「いずれ解る時が来るさ。僕も列車にはよく乗るからね」

*

次に私が目を覚ました時、窓の外はもう海底ではなかった。

列車は再び、陸地に敷かれた線路の上を走っていて、見えている景色の中には主立って真っ白な建物が目立つ。

列車の中も、水中とは違い、真っ直ぐで明るい光が燦燦と降り注いでいた。

それに、黄色いクラゲも居ないし、ペンギン達の数も格段に減っている。

「ここは……?」

二度目の目覚め、まだ落ちようとする瞼を持ち上げつつ見回すと、隣から聞き覚えのある声がした。

「もう着くぞ、いまは教会の島だ。ここからはクラゲに言った通りあっという間だから、降りる準備をしろよ」

「あ、……ペンギン」

なんと呼ぼうか迷った末にそう言うと、彼は器用に机をたたみつつ、私を振り返った。

「南極の町は広いがね、お前さんはこの後はどこへ行くんだい」

「どれくらい広いの?」

「そりゃあ、もうこの辺一帯は全部私達の町だ。広すぎて、自分の家に帰れない仲間もよく見る程だ」

――心配になってきた。住人でさえも迷うなら、初めて降り立つ地、おまけにどこへ行くにも方向音痴の私が迷わないというのは、この町では難しいかもしれない。

「……解らない。招待されたから、列車に飛び乗ってしまっただけだもん。向こうに着いてすることも、何もない」

「……」

「ああ、でも、私を招くことを決めた人には会いたいかも」

「お前さんはちょっと心配だな。上手くやるんだぞ」

見知らぬ、しかも人間でない者からしても私はしっかりした奴ではないのだなと溜息をつく。しかし、案じてくれる言葉がその後に続くと、単純な心はすぐさま僅かに軽くなる。

「ありがとう」

素直に零れ落ちたお礼の言葉にくすぐったさまで感じながら、私は窓に顔を寄せる。

と、窓など今まで注意深く見なかったせいで気付かなかったのか、座って顔を寄せた時の丁度頭上に来る位置に、開閉用の金具があるのを発見した。

窓を開けてみようと思い立ち、なにげなく金具を外してみた。

しかしこれが、ひとつ失敗だったのである。

がちん、と固い音を立てて金具が外れると同時に窓を上に押し上げ、私はそれを一瞬で後悔した。

窓の外に流れている風は、想像よりも遥かに強かったのだ。鼓膜の中にまで届いているのではないかと思うくらいの風量が、びょうおうと音を立ててすぐそばを流れていく。

加減が解らず全開に近くなった窓の外から吹き込む風は列車内にも届き、どこの駅から増えていたのか、通路に並んでいた小さなアデリーペンギン達がころころと数羽転げる。

「!わ、ぁっ、」

私は私で髪を乱され、帽子が脱げ、慌てて元の通りに窓を下ろした。

この列車、こんなに早く走っていたなんて。初めは動きの解らない夜空ばかりを見ていたし、海底では水を受けていたのかそう速くは感じなかったので、列車の本来の速度を知る機会が全くなかったのだ。

ペンギン達がよちよちと起き上がり、奇妙に静まり返る列車内。

「お嬢さん、これに懲りたらもう窓は開けないことね」

風の収まったあとに漂ってきた黄色いクラゲが、おかしそうに笑い声を立てた。

「ごめんなさい、知らなかった」

私は苦笑して、隣で羽毛を膨らませているコウテイペンギンと、私のせいで転がしてしまった別の群れにも声をかける。

「ごめんね、皆、……大丈夫?」

「海に落ちちゃったかと思った、びっくりした!」

わいわいと返事をする彼らからの返事を聞いていると、やがて列車の速度が落ち始めた。

「あら、もう停まるわね。それじゃあね、人間さん。最後に面白かったわ」

私がもたくさと机をたたんで、切符と乗車券をまとめていると、くすくすと笑みを零しながら、クラゲが一足先に車両前方の方に漂って行ってしまった。次に会っても同じクラゲを判別出来る自信はないので、私も殊更丁寧に別れを告げる。

「さよなら、クラゲさん。またいつか」

そして、他の生き物達に塗れて、下車するべく廊下を進む。

その際、足元で双方から話しかけられた。

右からコウテイペンギン、それよりも低い左側から、私が転がしたアデリーペンギン。

「君、そういえば何の為にここまで来たんだい?」

まずは左からの問いかけに、私は腰を屈めて応じる。

向き合うと、黒い羽毛に隠れそうな小さな瞳が愛らしい。

「はっきりした目的はまだ解らないの。だからまず、降りたら町を歩いてみるつもり」

「もしずっとずうっと行く当てが見つからなくて困ったら、郊外の民宿へ行ってみな!

あそこのはちょっと愛想のない奴なんだけれど、お客さんを困らせることはあんまりないぜ」

そして右から、コウテイペンギン。

「私はこの駅を出たらまた別のところへ行くからお前さんとはお別れだが、実のある旅に出来るといいな」

「……ありがとう」

なんだかんだと言いながら、乗車してから一番言葉を交わしたのは彼だ。

私がこの位置のシートに座ったのも、その隣が彼だったことも、きっと何かの縁である。

少しばかり寂しさのようなものを感じながら、私は元の姿勢に直って言う。

「また会えるかな」

アデリーペンギンよりも少しばかり背の高い種である彼は、ぱたぱたと翼を動かして言った。

「どうだかね。きっと知っての通り、我らは驚くくらいの種があるから、また会えるかもしれないし、もう会えないかもしれない。それにお前さんは少し心配だな」

「さっきの窓みたいなへまは多分もうしないよ。また会えるといいな。短い間ありがとう」


南極は、夏でも気温が零度を下回る。私は手袋をはめ直し、帽子を深くかぶり、マフラーを巻き直し、列車が駅に入るのを見守った。

朝日が眩く辺りを照らしている。なんだか美味しそうだ。お日様の下のバニラアイス。

オットセイの車掌がドアを開け、私はペンギン達のしっぽを踏まないように注意深くタラップを降りた。車内で温められた頬が、ひやりとした空気に晒され、つい顔をしかめる。

下車して早速私と反対方向へ行こうとするコウテイペンギンに向かって、私は最後に言った。

「鰺スティック、いつか会ったらまた食べようね」

*

駅を出ても別段急いで行かなくてはならない行先があるわけでもないので、私は駅周辺を暫く歩き回った。

南極町の駅舎は全体が真っ白で、上に十字架を立てれば、外見だけだが直ぐに教会にすることも出来そうだ。白い壁に光が当たって、仄かに黄色い輪郭を持つのが目に温かい。

駅舎に居る駅員は、列車と違いオットセイではなかった。体に合わせて小さな駅帽を頭にのせた一羽のカモメが、台の上にとまって、一枚一枚乗車券をあらためていたのだ。駅舎を出る際、私も恐る恐るそれを差し出した。

人間は私だけだったので、悪いことをしているわけでもないのに緊張したが、カモメは乗車券を嘴の先でつついて抜き取り、何かで引き止めることもせず先に促してくれた。

「ようこそ」と私に言ったその声は高く楽しげで、改札を出て振り返ると、カモメはもう次の動物に話しかけていた。仕事が好きなのだろうなと思った。


南極町の中は活気に溢れていた。地球の端、それこそ氷のように静かな町だと予想を立てていたので少しばかり私は驚く。散策を続けていると、駅舎だけでなく町の建物全体が白いことに気が付いた。それでも屋根の色は鮮やかなものが多く、何本もの色絵の具をキャンバスに散らしたようで心が晴れる。

行き交う住人は当然ながら動物たちばかりで、誰もかれもが友好的だ。手紙をくわえて郵便配達の帽子をかぶって飛んでいく別のカモメや、危なっかしく階段を移動するマカロニペンギン。人間である私に「やあ」と挨拶をしてくれる者まであって、それだけでも充分に嬉しかった。

ここに住んでいる生き物達は、誰一人私のことなんか知らないというのに。

歩きながら、やがて私は思い出した。

そうだ。私は、誰も私のことを知らない場所へやってきたのだ。じわじわと記憶が明瞭になる。今まで過ごしていた場所が、ひたすらに息苦しかったから。

それに比べて、ここはどうだろう。

種族の違う生き物たちが溢れているというのに、見たところ誰も彼も、人目を気にしている者が居ないではないか。

ああでも、列車のペンギンはアザラシが苦手だと言っていたっけ、などと考えながらも、私は密かに感嘆の息を吐いた。

踏みしめて歩く地面は、滑らかで真っ白だった。白いけれども、明らかにざらざらとした感触があるので、恐らく氷ではない。スケートリンクでは立つことさえ苦手な私が転ばないのが何よりの証拠だ。その割に、靴の裏に伝わる温度は微かにひんやりとしている。しかし霜焼けになってしまうなどと言うほどの冷たさではない。不思議なものだなあと私は瞬く。そして、スケートくらいのことが出来ないのに、南極に来るのに、よく今までそれを思い出さなかったなあと苦笑した。地面がつるつるだったらきっと今頃笑い者だった。



頭上のすぐ近くを、気球のようにまた違った種類のクラゲが飛んでいく。

青くきらきら輝いて見えるそれは、カブトクラゲと呼ばれるものだ。

ちかちかと小さい光に包まれたような姿は私のお気に入りでもあって、綺麗でしょ、とつい他人にも写真を見せたくなってしまうことが多々あった。

「ねえカブトクラゲさん。あなたの体の色、綺麗だね」

否定し合う者が居ないという安心と魅力に誘われたのか、言ってみれば初対面のカブトクラゲに、私は思い切って声をかけた。すると、穏やかに泳いでいたクラゲから声が返ってくる。

「ありがとう、君の巻いている布もおしゃれだ」

私は、布?と一瞬首を傾げたが、ああこれのこと、とマフラーに触れる。嬉しかった。

なんて心の安らぐ町だろう。

人間たちの世界みたく、人の持ち物に難癖つけたり、少しでも自分と違う見た目の周りを気にして怯えることもない。

私は久々に心が軽くなるのを感じて、すれ違う生き物に時折挨拶をして回った。その度、屈託のない言葉が返って来て、私は満たされていった。


そして思った。

最も技術を進歩させ、頭の良い人間と言われているのをよく耳にする、私達人間。

私達は最も頭の良い種族らしいくせに、人間の世界はどうしてあんなに生き辛いのだろう。

どうして、もっと皆に生き易い世界を作れないんだろう。

頭が良い種族と自ら謳っている割には、人のことを考えられなかったりするし、もっと心にとって楽な生き方が出来ていいはずなのに。そんなこと謳われていないここの生き物たちの方が、事実目の前でいま、よっぽど落ち着く場所を作り上げているではないか。

人間の世界では、少しでも周りと違っていたら変だと思われ、矯正され、そのせいで、自分の思いを殺してまで皆と同じふりをしようとする。無理して笑って、話に乗って。

そんな人がたくさんいる。

そして私も、例外なく、そうだ。同じだ。だから、嫌になる。

頭が良くても、それでは仕方がない。


いつの間にか生物たちに声をかけるのも忘れて黙々と歩いていると、やがて、道の両端に高い建物が増えてきた。相変わらず白い色はしているけれど、駅の周りはもう少し背の低い建物が多かったので、建物の高さだけで随分印象が変わるものだと少しばかり驚く。

そして、

「……なんか、随分歩いた気がする……」

呆れるほど好き勝手に歩いてふと気が付くと、先程の駅通りよりも幾らか静かな道の真ん中に立っていた。知らぬ間に生き物の数は減り、風が吹く代わりとでもいうように、ごぼりと音を立て、透明な泡が傍らを通り過ぎていく。

どうやら、調子に乗ってあまりに好き勝手歩いた挙句、駅から遠いところまで来てしまったらしい。

南極町に始めてきた私にしてみれば、ここはどこもかしこも「知らない場所」であり、

いつでも「迷子」になれるということを忘れていた。つくづく実感する。私って。

「どうしよう……」

通り抜けては立ち昇っていく泡を追って上を見上げてみるけれど、高い建物と雲に阻まれて、太陽がなかなか見えない。

列車の中でコウテイペンギンが言っていた、「広すぎて自分の家に帰れなくなる者がたまに居る」という言葉を思い出したが、そもそも私は自分の家どころか南極町に来たばかりで、私が迷うと普通の生き物たちより厄介になるということを今更実感して血の気が引いた。

それはそうと、迷子の時は不用意にうろついてはいけないというけれど、兎にも角にも開けたところに出たいと歩き回っていると、少し遠くの方で、両側に立つ建物が途切れているのが見えた。

「!」

私は弾かれたように走り出す。

滑りそうな地面を靴底でしっかり掴んで、背中で波打つリュックの振動に耐えて。走る度露わになっていく道のその先に、水面が見えた。海だろうか。

あの先端まで行けば、何か見えるかもしれない。

そう思って走っていくと、不意に足元の地面が途切れた。

「わぁっ!」

目的とした所はまだ向こうにあるのに、突如私が足を出そうとした地面から、何かがひょっこりと顔を出したのだ。

私はあまりに驚いて後ろにしりもちをつく。

この白い地面は存外脆いらしく、氷みたいだと思った通り、前方で呆気なく割れている。

「な、なに……?」

通ろうとした道が目の前で割れるという異常な光景を目にした私が戸惑っていると、

地面の裂け目から顔を出していた何かが言葉を発した。

「ああ、なんだ人間か。驚かせやがって。何してんだ」

今までで一番低い声。

混乱しつつあった私の脳内には、そんなつまらない感想が真っ先に浮かんだ。

列車で隣に座ったコウテイペンギンは少し高めの落ち着いた声。

窓を開けた私を窘めたクラゲは、女の声。

街ですれ違ってきた生物も、眼前の彼ほど低くはなかった。

「なんて顔で、ぼうっとしてやがる」

馬鹿みたいなことを考えて、また、顔も同じようなことになっていたのか、その生物は再度私に声をかけた。

「あ、あのいえ、すみません……」

驚きで激しく脈打つ心臓を押さえて、ようやく私はその言葉だけを発した。


地面が割れて数分後。私は、入り組んだ細い道を歩いていた。

先程地面を割って下から現れたのは、体にぶちのあるアザラシだった。

彼は、丸い体で、すいすいと私の前を進んでいる。可愛い顔と形の体に見合わず、言葉はなかなかにぶっきらぼうな奴だった。

ところで、私が迷っていたところにこのアザラシが現れたのは全くの偶然だった。

「何してんだ」と訊かれていたのを思い出して、道に迷った旨だけを伝えたら、町の真ん中まで案内してくれるとのことだった。周りに興奮したり、同じ事ばかり考えて歩いていたせいで、駅から遠く、知らないうちに町のはずれまで出てしまっていたらしい。

「人間があんなところで何をしていたんだ」

何と言われても、目的が漠然としすぎている。

「初めてここに来て、えっと……珍しくて、夢中で歩いていたらあんな所までって感じ、です」

言いながら、ポケットに手を入れてみた。

ここの駅に着いた時、乗車券は駅のカモメに渡してきた。それが元々入っていた封筒だけが、私の手元に残っている。私がこの町に来るきっかけでもあった大事なそれがなくなっていないか、指先だけでそっと確かめた。

私の言葉を聞いて、アザラシが前方で隠そうともせずに溜息をついている。

「あのな、ここに住んでいる奴らでさえも、時々道に迷って自分の家に帰れないなんて俺の所に来たりするんだ。だから、ここに住んでいない人間は余計に迷う。気を付けてくれ」

そして、またも聞き覚えのある内容が聞こえてきた。よっぽどなのだろう。

そこまで広いのなら隅々まで歩いてみたい気もしながら、再び迷う自信しかないので、大人しくしておこうと私は心に決める。

「どうして、迷った人はあなたの所に来るの?」

「俺の家は民宿なんだ。だから、地図もあるし、俺自身も地形には詳しい」

「詳しいんだ?」

「迷子の世話をしていない時でも、色んな所から泊りに来るのが居るんだ。ずっとそいつらと関わる仕事をしていると、自然とここ全体のことが頭に入っていた」

すごいね、と素直に零すと、アザラシはフンと鼻を鳴らした。なんだか人間くさい。

「ところでお前、駅までは送ってやるが、そのあとはどうするんだ」

「どうって」

「駅まで連れて行ってやったら、そこからは自分で何とかなるのか?俺のことも知らないってこった、初めて来たんだろ。そう何度も迷子になられても俺が困る」


私は言葉を切った。よく考えると、南極町には来たものの、何度も言うように明確な目的は本当にない。夜、感情に任せて電話をかけ、気づいたら列車に乗っていて到着していた。

今の時間さえも解らないし私の元の家がどうなっているのかも確かめようがないけれど、兎に角私は私として家や学校で過ごすのに疲れて、飛びだしてやろうと思って……それだけだ。切符やらを手配して私を招待した誰かには会いたいと思っているけれど、現実が理想よりも難しいと実感したいま、本当に出来るかどうかも自信がないので、保留状態にさえしたくある。つまり言い訳せずに言えば駅からの予定など微塵もはっきりしていない。

「……あの、怒らないでほしいんだけど」

「おう」

「私、本当に、来ただけであってまだ、泊まるというか、落ち着く場所もなくて」

「……もう答えが見えて来たから怒っていいか?」

再びの溜息と共に、進むのを止めたアザラシは、体ごと私の方を振り返った。

「しかしまあ、この大きな町で行く当てナシ、というのは、そのうちどこかで野垂れ死んじまうよ。それじゃお前にとってもいけないし、町の奴らも驚いちまう」

「はい……」

びたびたと尻尾が地面を打つ。私は彼の言葉を待つ。

列車のコウテイペンギン、ごめんなさい。私はやっぱりなんだか心配された通りの人間です。場所が変わっても私は私か。

怒るというよりも呆れられているなと感じ始めた私は、対面しているので頷くことで相槌を打つ。打ちながら、我ながらこの計画性のなさはなんだろうとその凄さを痛感する。

アザラシは言った。

「俺の民宿の部屋を一部屋貸してやる。その調子じゃ、ここのこと何も知らねえだろ」

「!……いいの?本当に泊めてくれるの?」

私は目を見開いた。このまま、このアザラシについての話と、不用意な私へのお説教を受けながら駅まで行って、それでおしまい、また振り出しに戻るのだと思っていたのだ。

降って湧いた幸運に思わず屈みこみ、アザラシの目をまじまじと見る。


「どうせお金すらもないんだろう。こんなことはお前以降、二度としないがね」

「あ、あの、どうもありがとう」

お礼を言って、改めて体勢を立て直す。そのついでに周りを見ると、駅は少し違う方向に屋根が見えていた。これは初めから、彼の民宿へ連れて行こうと考えてくれていたのか。

お礼を以て歩みが再開される。私も、先程と同じように後ろを歩き始めた。

だいぶ駅の近くまで戻ってきたのか、私達以外の気配も再び感じるようになってきた。

そしてやがて、向こうの方に、白いとんがり屋根が見えて来たのだった。


不愛想なアザラシに連れられて、やがて、彼の言う民宿らしき場所へと到着した。

白い建物ばかりだったのに比べて、民宿は薄らと茶色がかった見た目をしていて、二階か三階建てのように見える。目に落ち着くその色合いは、まるで何かの和菓子みたいだ。


備え付けられている玄関扉には、私達が普段使っていたようなものと同じドアノブもきちんとついていて、アザラシの彼がどうやって開けるのかと見守っていると、彼は器用に上体を伸ばして鼻先でそれを押し下げ、そのまま向こうへと平気で開いた。手前に開くのではなく、鼻先で押せるようになっているのだろう。私は密かに感心する。

「お邪魔します」

小さく呟いて、後から続いて中へと入る。玄関を入った正面には彼の物であろう大きな低い机があり、開いたノートが置かれていた。そして天井からは、仄かに白く濁った傘が守る、淡い黄色がゆで卵のような色合いのランプ。

奥の方を見やると、いくつかの部屋に続くのであろう通路が伸びていた。そして一番端には、上の階へ続くのであろうスロープ。

「客じゃなくて、特別に置いてやる形だから、何の記入も要らない」

アザラシは言った。机の上のノートは、訪れたお客の記録用だった。

「他に誰か、今ここに泊っている人は居るの?」

平気で通路を行こうとするアザラシに遅れぬよう、慌ててブーツを脱ぎながら私は問う。

通路の奥からは、他人の家でよく嗅いだことのある、温かくもどこか余所余所しい匂いがしてくるようだった。それから少し、潮の匂い。自分の家の匂い以外というものには、いつでも少し緊張させられる。

「この階には居るよ。だがお前に居てもらうのは上の階だ。互いに然程気にならんだろう」

「そう、ですか」

玄関の床にブーツを揃えて端に寄せ、お腹で歩いていくアザラシに相槌を打つと、

彼はスロープの下で歩みを止め、私を振り返った。

「ここを上がって、踊り場を左のつき当たりまで進んだ部屋を使ってくれ。前にもう一つスロープが出てくるが、そこは上らなくていい」

私は頷いて、彼の後ろからそっと上の方を見上げた。

「俺は下で仕事がある。食事の時間は客と合わせるから、それまでに休むなり今後の計画を練るなりするんだな。当然、客が増えたらそっちを優先せにゃならない」

それきりアザラシは、玄関の方へと引き返して、私が行くことのなかった方向の部屋へと姿を消した。

それを見送って、私も再びスロープを見遣る。これも色は白いのだけど、今まで歩いてきた外の白と比べて、随分と光沢がある。外の地面と違ってまさか氷で出来ているなんてことだったらどうしよう。


しかしずっとここに居るわけにもいかないので、足を踏み出す勇気を作るのに数回呼吸を落ち着け、私は漸くスロープに足を踏み出した。

そして、

「あっ、」

そんなに大袈裟に滑りはしなかったものの、やはりスロープなだけあって氷で出来ていたのか、自分の爪先の力が思いの外頼りない感覚に襲われるのを感じた。そして何より、私が背負っているリュックサックの重み。旅に出るにあたって必要になるであろう最低限のものしか入れていないはずなのに、重心が取られて大きく後ろに傾いた。

もう一歩足を踏み出して体勢を整えようとしてみても、如何せん片足立ちになると背中が重い。そして前の足が滑る。

ここで転げ落ちるなんて、そんな綺麗なお約束になってたまるものか。

後ろ向きに、そして頭から落ちるという最悪の事態だけは阻止しようと、私は暫く踏ん張った。

そしてよく見ると備え付けられてあった短い手すりに気づき、それに捕まるより先に……

……声を上げた。

「……あ、アザラシさん!」


やがて声を聞きつけたのか、違う部屋からこちらを覗いた彼の呆れた顔と言ったら。

迷子として連れて来てもらい部屋まで与えてもらって、それでも手間をかけさせるとは素直に申し訳なく思ったけれど、何しろ私は氷上の生まれではないのである。







*

あれから私は、呆れた顔をしたアザラシに後ろから押してもらって、なんとか上の階へと上がって来た。

別に南極町に民宿が一軒だけというわけでもないらしく、ここに人間が泊まりに来ることは大変珍しいため、この建物の造りはどちらかというと南極の生き物向けに作ってあったのだそうだ。例えばこの上階に泊まっているペンギンやらオットセイ、彼のようなアザラシあたりは、このスロープをお腹で滑るなりなんなりして降りてくるのだろう。小さい頃に幼稚園などでやたらと流行った、急勾配の滑り台を通常の階段ではなく逆から駆け上る遊び、あれをもう少しやっておいたら良かったかもしれない。


そんな馬鹿なことを考えながら、私は改めて、自分に与えられた部屋の内装を隅まで確かめてみた。

和風の造りに見えた予想通り、玄関だけでは解らなかった客室の内装も、造りは見事に和風だった。

畳ではなく、白い床に毛足の長い絨毯なのだけが浮いていて気にはなるが、間取りで言えば六畳一間の客室、その壁に開けられた丸い窓からは、まだ明るい外の光が射し込んで、柔らかな陽だまりを作っている。そしてその陽だまりを受けているのは、赤茶色っぽく塗られたつややかなテーブル。その上には小さな湯呑。氷の南極町にアンバランスに混じる和の雰囲気に触れて、私の心は密かに懐かしさに満たされた。


部屋の隅には布団が畳んで積まれ、床の間のようなスペースには氷で出来た小さな花の彫刻。天井から下がっている灯りは、玄関で見たのと同じものだった。

そして、六畳の端っこから繋がっている板敷きの狭い通路を数歩で、随分と低い位置に洗面台があった。水の受け皿の部分に触れてみると、これはドライアイスのように冷たい。

どちらにせよ、私は少し窮屈な姿勢で使うことになるだろう。

テレビはないが、先程のテーブルに小さなラジオが置いてあり、その本体で、客に向けた使用方法の書かれた紙が机上に固定されていた。


床に腰を下ろしてみると、長い絨毯の毛の感触がした。お尻も然程冷たくない。

あらかた部屋を確かめ終え、座り込んだ床の上でリュックサックを降ろすと、ふうっと肩の力が抜けた気がした。

そっと上着のポケットに手を入れると、駅から色々あったせいで、乗車券と切符の入っていた証明になる封筒はくしゃくしゃになってしまっていた。戸惑いが勝って実感していなかった私の疲れを代弁しているかのようにも見える。

見知らぬ土地の民宿の部屋で味わう懐かしさに身を任せていると、いつの間にか、外からの日差しは薄い橙色に変化していた。

「スロープ、上る練習しなくちゃな……」

下の階には他のお客が居るということだったので、階を変えてもらうのは不可能だろう。

他の計画を早く立てないといけないのに、先に出たのはその言葉だった。

それから、運としか言えない形であるけれど、一先ずは住むところを得た私の生活が始まった。

初めてここに来た時、アザラシによって先客と違う階にされていたことからてっきり顔を合わせてはまずいのかと思い込んでいたが、食事は大広間で一緒に呼ばれるようだった。

「私、こういうお食事って自分の部屋だけで食べるものだと思ってた」

「飯」とさながら母親の如き言葉と共に顔を出しに来てくれたアザラシに向けてそう呟くと、「刑務所じゃねんだから」と答えが返って来た。可愛い見た目をした口からそんな言葉が出て来たことと、南極町にもそういう概念はあるのかと驚いていると、「この町にだって秩序くらいあるからな」と続けざまに、心を読んだかのような返事が返って来た。



食事をとるために呼ばれた大広間は一階にあり、お尻で滑るようにしてスロープを降りた私が顔を出すと、既にそこには賑やかな光景が広がっていた。

大小様々、種類も様々なペンギン達が何羽も集まって、既に運ばれていた自分達の料理を楽しんでいたのだ。

その日の夜は、私も彼らとは反対側のスペースで食事をとった。大広間にペンギン達が集っているとは言っても、喧しい類の賑やかさではなく、彼らの楽しげな様子を見ていると、なんだか私の心はとてつもなく癒されてしまった。


部屋が和風なら料理も和風、献立は魚がメインだった。もっとも、行きの列車で食べたあの串刺しのスティックとは違って、ちゃんとした料理の姿で出されたので少し安心する。そして美味しい。私が座っている座席の左にある丸窓からの夕陽も、心を落ち着けてくれる。

一体、誰が料理を作っているのだろう。この宿の何もかもをアザラシが行うというのは流石に無理があるだろう。彼が料理をするところは、少し見てみたいけれど。

切られた魚を口に運びながら、私は又ペンギン達の宴会を横目で見る。

もみくちゃに盛り上がる集団の中には、喧嘩になったらどうするのだと心配になるような、大きなコウテイペンギンと小さなケープペンギンが混じっていたりするのが見えて、数時間前も巡らせた考えが頭の中に舞い戻って来た。

色々なことがあって暫く忘れてしまっていたけれど、考え慣れているそれは容易く頭の中に戻って来た。

――あれが、普通なのだ。

どんな種類のペンギンであろうが、誰に窘められることもなく一緒に居る。

ペンギンの輪をよく観察していると、自ら進んで和の中に入っている者も居れば、一緒に座っては居ても一羽で静かにしている者もある。

それでも何も言われない。盛り上がる周りと同じようにしようとして、無理に輪に入ることもない。無理をする必要がない。

そして、彼が時折輪に介入すると、それは柔らかく受け入れられ、再び、そっと元の場所に返してもらえる。彼が望んでいるのなら、それは冷たくもなんともない。

あんなに簡単なのに、どうして私達人間は、学校に居る皆は、その皆と同じようにすることが普通だと思っている私の家族は、「世間一般」と言われる過ごし方を理想とする社会は、それを解ってくれないのだろう。

今でもどこかで、私だけがおかしいのだと思ってしまう節がある。

種類も大きさも性格も入り乱れて楽しんでいるペンギンの集団を見、手元の更に視線を戻し、私が発せたのは結局のところ、ただの独り言だけだった。


「帰りたくないなぁ……」


昼間見た街の様子と、今、目にした彼らの様子。それと、何度目か舞い戻って来た自分が感じていた息苦しさを比べて、自然と漏れた言葉だった。

こんな考えに取りつかれるのは珍しいことではなかったものの、地球の中にこんなに居心地の良さそうな町があるだなんて知らなかった。


アザラシはそれなりに仕事があるらしく、食べている間は姿が見えなかった。

誰とも会話をせずに夕飯を食べ終える頃には、窓の外は群青色になっていた。


その夜、部屋に戻ると、部屋の隅に積まれていた白い布団が広げられていた。

きっとアザラシだろう。彼からすれば行きずりの迷子をたまたま保護しただけなのに、つくづく申し訳なく思うと共に、明日からは自分でしようと決めた。

それにしても、どうやって伸ばしてくれたのだろう。

眠る支度を整えてから敷いてもらった布団へうつ伏せに寝転がると、仄かに香る潮の匂いに包まれた。潮の匂いは大好きだ。昔、父に連れて行ってもらった港で嗅いだのと同じ匂い。

部屋についている窓に顔をくっつけて外を見ると、上の方に満点の星が瞬いていた。

都会と違って夜の灯りが少ないので、溢れんばかりの煌めきが一面によく見える。

漸く落ち着いた、と私は思った。

きっと、少しばかり心が疲れていたんだ。

南極町に居れば、無理に周りに合わせて過ごそうと、今日だって一度も思わなかった。

初めて来た場所で、ここに居た人間は私だけだったというのに。

南極町は多分、人間の町より、自由な場所なんだ。


ミズクラゲが二匹泳いでいくのを見送り、再び布団に戻って、掛け布団に首までくるまった。

その夜私は、航海に出る夢を見た。

水平線まで果てしなく続く水面に見えるのは時折浮かぶ島だけで、特別なものは無かったけれど、夢の中の私は何に怯えることもなく楽しそうに旅をしていた。

それから、私はアザラシの民宿で働き始めた。初めの数日こそ、町の空気に浮かれてお客のように過ごしていたけれど、この宿に居ることになった事情が事情であるだけに何もかもがタダなのだということを思い出し、ある朝、身支度をして階下に降りるなり私は言ったのだ。

「アザラシさん、私に出来ることって何かない?」

その頃にはもう来てから日数も割と経過していて、階を行き来することにも抵抗はなくなっていた。手すり伝いに気合で上って、お尻で滑って降りてくる。上手く行くようになると、ペンギンの仲間入りを果たしたかのような気分になって密かに嬉しかった。

「お前に出来ること?またどうして」

玄関近くのあのテーブルに上体を預けていたアザラシは、私の言葉を聞いて髭を動かす。

「だって私、行く場所がないとはいえ、この宿に上げてもらってからずっとタダ飯状態で……」

思っていたところを正直に打ち明けると、彼は、ああ、と気の抜けた声を漏らした。

「そうだった。お前は客じゃなかった」

「……忘れてたの?」

「やることが多いんでな。すぐ忘れちまう。お前はそういや迷子だったな」

「……ハイ」

悪気はないのだろうが、我ながらつい苦笑いするしかないような言葉を受けながら、自分が先程尋ねたことへの答えを待つ。そっぽを向いて何やら長い間思案していたようだが、やがてアザラシは丸い目を私に向けた。

「生憎だが、もし俺のこの宿を手伝おうって思っていたなら、それは大丈夫だぞ」

「えっ」

「南極町が今くらい賑やかになる前からの宿だし、俺が責任を取るようになってからも、仕事は親父からしこたま叩き込まれたからな。俺一匹でも大抵は何とかなる」

「あ、ああ……そっかぁ」

意図せず、明らかに困った声が出てしまった。雑用でも良いのでやらせてもらえれば申し訳ない心地も消えるだろうと思っていたのだが、どうやらそう上手くはいかないらしい。

それに言われてみれば、というか、日々このアザラシの働きぶりを見ていると、泊まるお客から文句を言われている姿も、手が足りずにあたふたしている姿も、ここまで一度もなかった。余程要領が良いのだろう。その機敏さを少し私にも分けてほしい。

それにしても、困ったな。

「部屋も貸してもらってご飯も出してもらって、ずっとタダで泊ってちゃ迷惑だと思ってたから」

彼の様子を窺いながら、話を持ち掛けた理由である言葉を続けると、私の意図を汲んでくれたのだろうか、アザラシは、今度は成程と言いたげな声音で又唸った。

「そうさねえ。しかし、俺以外の働いている奴にしても、手が足りないなんてことはここ最近聞かねえからなぁ……」

――現実は、理想・想像よりも遥かに厳しい。

私がいつも胸の中に置いている言葉だ。理想を浮かべたり、こうなるかも、と想像したりした未来より、現実は一回りも二回りも厳しいことが多い。下手に期待をしちゃいけない。

その考えがあるので、私は、今回もそうかと引き下がった。

「ま、何かありゃ頼むかもしれねえ。どちらにせよ今はいいや、ありがとう」

ぶっきらぼうなお礼を返してきた声は、迷子として保護された初日に比べれば幾分トゲがないように思えた。そんな声の主は言う。

「心底置いておきたくねえ奴ならとっくに追い出してる。細けえことは気にするな」

その言葉に驚くと共に、よく意味を噛み砕いて、私も「ありがとう」と笑って返した。


それでも、あまり大袈裟でない程度に、彼の仕事への貢献はしたつもりだ。

勿論、ペンギン達に加えて他の宿泊のお客も来るため、玄関や廊下には羽毛やら海からついて来たらしい海藻やらがよく落ちている。それを私が拾ったり、食事の大広間の食器を運ぶだけでも運んだり、小さなことを彼へのお礼にして過ごした。

南極町はいつでも氷に覆われて、季節感をなくしてしまう。曜日感覚なんてものは既にない。

そういうものは、恐らくここではあまり重要ではないだろうという気もしていた。


あの日、方向音痴が発動して迷子になった以外には、大きなヘマもしていない。

私の駄目な部分や、受け入れられない考えを知らない生き物たちばかりの町で、誰かに合わせようとびくびくする必要もなく、私はその楽しさに、暫らくは自分の元の家のことさえ忘れていた。


*

もう過ぎ去った大学受験が始まる二年前、つまり高校に入学した年のこと。

私には、特別な子が居た。

共学の学校だったけれど、その子は女の子だった。長い髪をしていて、快活によく笑った。利発そうな目が笑みの形に細められるのを見るのが、私は好きだった。

声変わりしたり、体操服の布から覗く体つきがごつごつとしてきた男の子達のことは、入学してすぐは正直、格好良い子などは居ないかと思ったりもしたものだが、気づいたら、もう割とどうでもよくなっていた。

私は彼女の為なら何でも出来るし、したいと思っていた。喜ぶ顔が見たかったし、彼女が風邪で早退なんかした日は寂しかった。彼女には悲しいことや辛いことなんて起きてはいけないと思っていた。それこそ、悲しいという感情を感じてはいけないとさえ。

私のそんな思いは、何と名前の付けられるものだったのか、今となってはもう解らない。

恋は、今よりもまだ正しく解っていなかった気がする。

愛というには尚更大袈裟で、そもそも相手の感受性までもコントロールしようと思うことの何が愛か。それに、自分が他の人間関係に引き回されている時は、一転して、時折彼女を放っていたこともあった。

だから、どれとも違った。

ただ、手を繋げば安心して、傍に来ると香る彼女の匂いに落ち着いた。

驕りではなく、彼女が一番一緒に居るのも私だった。頼ってくれたし、全て受け入れてくれていた。

母が学校に来る用事がある日でも、私達は変わらなかった。手を繋いでいた。

私の母も、そんな私達の様子を、仲の良いものだと思っていたらしい。

「お母さんも昔、学校で仲の良い子とよく手を繋いだわ」

だから、普通のことなのだと思っていた。少しばかり、他の子よりも特別なだけだと。


それから少し経って、私にも初めての彼氏が出来た。入学したてはあの彼女と居るのが好きだったというのに、何が起こるか解らないものだ。

人間的には良い人だった。趣味も合う、異性とは事務的な会話ばかりだった自分には珍しく会話も弾む、何度か一緒にも出掛けた。

最近学校でどうしてる、と訊いてくる家族に、「仲の良い男の子が出来た」と素直に話すと喜ばれた。私も、少し大人になったのかと思った。


――だけど、直ぐに駄目になった。

手を繋ぐのも、肩を寄せ合うのも、次第に受け付けなくなっていった。

理由は解らない、ただ夢から醒めたように――そう、夢から醒めたようだった。

はっと我に返ったような感覚がしたのだ。

私はどうして、いつの間に、こうして異性と身を寄せ合うのが平気になっていたのだろう。

そんな考えと共に湧き上がって来たのは、私をまだ「子供」だと思っているに違いない両親への罪悪感だった。そして、そんな罪悪感を持ちながらもまだ彼の手に触れたり、又、彼から求められたりしている自分自身をも、とても嫌なものに感じるようになった。

別に、体の関係を持ったわけではない。だけど、私をそんな気持ちにさせるには、その交際だけで充分だったのだ。


直ぐにベタベタしたがる周りのカップルも、無意識に自分を思い出してしまって駄目になった。

非現実な恋愛コメディの映画や少女漫画を、冷めた目で見てしまうようにもなった。


そこから私は、家の中で彼についての話をしなくなった。

入学したては女の子にべったりで、それに加えて、あまりにも急に私が異性についての話をしなかったせいか、母に、いつの日か言われたことを未だに憶えている。

「あなたまさか、女の子が好きなんじゃないよね?」

初めて、凍り付いた瞬間だった。

「まさか」

小さな声で、いつかの私は笑った。

笑ったけれど、その時から、何かもやもやとしたものが胸中に生まれた。そして気づく。

母は、母自身やその他の家族が安心する娘であることを、私に求めている。

世の中では、「女の子は素敵な男の子と一緒になる」のが幸せだと言われているのだ。

母も、いや母だけじゃない。父も。きっと私の家族中、そうであってほしいと思っている。

そう思っている親に、皆が青春したがる年齢のはずなのに、男の子と一緒に居ても楽しさどころか罪悪感と自分への嫌悪感に苛まれていて、普通ではないかもしれないと感じているなど、口が裂けても言えなかったのだ。

大抵の親が我が子に望む事だから仕方ないだろうな、とも思ったが、私にとって、それは現在も私の胸中を占める、窮屈なものになってしまった。

頭では、解っているのに。


それからだ。周りに合わせることが、本格的に出来なくなり始めたのは。

アイドルやお洒落に夢中になるよりも海洋生物が好きだという、スマートフォンにプリクラをべたべたと貼っているような、一般的な女子高生とは少し違った趣味を既に持ち合わせていた私。

そんな私が、あの時から更に臆病者になった。

自分の変化に気づいてからは、身の回りの空気にも敏感になり始めた。

思春期真っただ中の同級生の話題に参加していなければ、やっぱりあの子は何か違う、と弾かれてしまうかもしれない。

恋愛に対する違和感と、人間関係に対するそんな不安。

こんな話を誰にも言えないまま過ごして来て、その矢先、自棄になった私が南極の鉄道所にダメ元で電話をかける前には、幼馴染の優音ちゃんに彼氏が出来たという話題。

皆が、「普通」のレールを辿って大人になっていく。

私が、誰にも言えなかったのが悪かったのだろうか。

だけど、言ったところで良い方向に転がるとは到底思えないこんな話、面と向かって自分から打ち明ける勇気なんてどこにあっただろう。


鰯のように、皆が皆、同じ方向を向いて生きている。

同じ行動をする人の数が多い事柄こそが正しい。

皆と同じようにしない人が異端で可哀想だなんて、いつから誰が決めたのだろう。

別に、私が、恋愛が苦手だからといって、皆と違うものに夢中になっているからといって、モラルに欠ける異端になっているわけでもないのに。

ただ、”一般的に皆が望む幸せ”や、”一般的に皆が好きになるもの”以外のものでも、堂々と持っていられる、そんな世界なら良かったのだ。


穏やかな、波の音が聞こえてくる。

私は両腕で、ぎゅっと自分の二の腕を抱いた。

私はもう、親に「抱きしめて」と素直に言える小さな子ではない。

かといって、親の代わりに抱きしめてくれる異性も作れないし、

友達が居るといっても、本心ではどう思われているのか、今となっては解らない。

入学した頃特別だったあの子とは、暫く会ってさえいない。

ふと思った。

私は寂しくなった時、誰に抱きしめてもらえばいいのだろう。



*

穏やかな波の音が聞こえてくる。

アザラシの民宿で朝食を終えた私は、太陽が高くなると共に、外へ散歩に出かけた。

ここは町のはずれだ。私が以前、迷子になってアザラシに出会った場所の近く――

――あの時、自分が迷子だと気づいていなかったらそのまま進んでいたであろう場所だ。

少し遅くなってしまったけれど、アザラシが氷を割って現れた地点よりももっと海側のその場所に、私は立っていた。

毎日同じで、荷物の入ったリュックを背負ってはいるけれど、その背中以外には、大した荷物は何もない。

私の手持ち無沙汰の両手は、無意識に自らの腕を抱いていた。


前方には、民宿の窓から見るのと同じ、広大では手のない海がどこまでも広がっている。

この場所からは少し離れた駅の方からは時折、出発する列車の汽笛も聞こえてくる。

手前は心なしか淡く、向こうに行けば行くほど濃くなる群青の波が揺れていて、その姿はなにやら幸せそうに見えた。

幾ら眺めていても変わらない単調な波の動き。それに洗われる遠くの氷の上には、一列になって歩くペンギンの姿が見える。そういえば、南極町に来て一番驚いたことは、彼らとカモメ、アザラシやその他の大きな生き物達が、食べたり食べられたりもせずに一緒に暮らしていることだった。

テレビで自然のドキュメンタリーが放送される度に私が見て来たのは、番組内に必ずといって良い程、含まれている、ペンギンの雛が襲われている場面だったのに。

平和でよかったと深く息をして足元、自分の立っている氷の元を見ると、水面近くを流れているクラゲが水面から透けて見えた。やっぱり私は海が好きだと実感する。こんなに綺麗な景色までも、タダで見ていて良いのだろうか。


ふと、潮の香りが強くなった。風に靡く髪を片手で払いながら視線を巡らせる。

高い鳴き声がして、つられて少し上の方を見遣ると、自分の心で話題に挙げたばかりの、真っ白なカモメが旋回していた。

「おはよう、人間さん」

「おはよう」

朗らかに声をかけてくる彼に、私も挨拶を返した。

カモメの仲間の中では大き目な種類の彼は、町の郵便局員のうちの一羽だ。南極町の郵便物全般は主に、飛ぶのが得意な彼ら鳥類に任されており、朝から夕方まで、多くの鳥たちが配達をしている姿を目にする事が出来る。

溌溂とした仕事熱心な態度と、頭の上にちょこんと載っている帽子や配達鞄を提げた姿との対比がいつ見かけても可愛らしい。

「今日も配達なんだね」

僕らの仕事ですから、と元気に応えるカモメに、私は問い掛ける。

「アザラシさんのお宿への郵便物はない?」

それを聞いて、近くの建物の塀に降り立った彼は、くちばしの先で鞄の中身を探ってくれる。町の中で配達員の鳥達を見かけたら、宿に帰る際に持って帰れるものがないか、私はいつも尋ねるようにしていた。私はそれを直ぐに宿へと持って帰る事が出来るし、配達員の鳥たちはひとつ回るべき場所が減る。

「うん、今日僕に割り当てられている荷物の中には見当たらないですね」

確認を終えた彼が背筋を正すと、再び潮の匂いが強く漂う。

成程、これは彼からのものだったのか。翼を持つ彼ら鳥達は、地面がない海の上も平気で飛ぶことが出来る。潮の風をたっぷり吸いこんだ羽は、風に吹かれて柔らかに揺れていた。羽毛布団、という言葉を思い出して、なんだか無性に布団が恋しくなったのは秘密だ。

「そう、ありがとう。いつも呼び止めてごめんね」

「いいえ。それでは行ってきます!」

会話が終わったタイミングで、私は手を振った。配達員のカモメは屋根の上でばさりと翼を広げ、再び飛び立って行った。

潮の香りが遠ざかっていくのを感じ、カモメが既に前を向いて飛んで行ったと判断した私は、もう少し同じ場所で海の遠くの方を眺めて居ようと前に向き直る。

その時だった。

びゅう、と風が鼻先を掠めて行き思わず目を細めたその視界に、再び何か白いものがよぎっていった。雪のように、花弁のように軽く、ふわりふわりと空から舞ってくる。

「わあ、なんだ、何か降って来た」

気づけば先程遠くに居たペンギン達が帰って来ていたらしく、空から降るものに気づいたらしい小さなアデリーペンギン達も声を立てて騒いでいる。

「いてっ」

突然起こった出来事に私もぼんやりとペンギン達の様子を眺めていたが、頭のてっぺんに何かが当たり、そちらの方に意識が向いた。

海へ落ちず、私の靴の先に舞い落ちて来たそれは、一枚の葉書だった。

「なんで葉書……?」

それは絵葉書のようだった。ここに来てから暫く足を運んでいない、南極町の白い駅舎の絵が描かれていて、上の方には淡い青空。繊細な使いで描かれた絵だ。そっと裏返すと、知らない住所の宛名が書かれている。

思い返せば、南極町に来るための乗車券と切符の入っていた封筒は、ちゃんと私の家の住所で届いていたっけ。

そんな事をも思い出しつつ顔を上げると、白い何かが降り止んだ空を、違う方角から何かが突っ込んで来るのが小さく見えた。

「えっ、」

私は思わず声を上げ、みるみるうちに大きくなって近づくそれを避けるべく、広い場所へ行こうと辺りを見回した。しかし、先程渡って来たアデリーペンギン達はそこかしこで休んでおり、徐々に焦燥に駆られ出した私は充分な場所を見つけられない。

だけど一先ず、

「危ないよ!」

咄嗟に私は、アデリーペンギン達に声をかけた。

「なに?」「なに?」

「よく見えないけど、遠くから何かこっちに来てる。止まらなかったら、君達に突っ込んじゃうかもしれない」

その声に、条件反射のようにぴくんと反応した彼らは、騒ぎながらも素直に、各々遠くへ散って行った。ある者は建物の陰、ある者は又少し向こうに。白いケーキの上に等間隔に並べられたブラックベリーみたいだ。

これで先程の何かがペンギン達に突っ込んで来る事態は避けられたと満足した私は、自分でも呆れる程迂闊であった。

アデリーペンギン達を追いやった私が再び海に向き合ったと同時に、先程こちらへ向かって来ていたものが、鼻先にまで迫っていたのだ。



尻もちをついたお尻が痛い。

気がつくと私は、遠くへ散って行ったはずのアデリーペンギン達に囲まれて、地面に座り込んでいた。

「大丈夫?」「人間さん、どこ打ったの?」

わらわらと集まって来ていたアデリーペンギン達から声をかけられながら、思い切りぶつかって来たと思われる白い塊を見下ろした。

私の顔にぶつかった後そのまま落ちたと思われるその白いものは、

「……あれ?」

配達鞄を提げて、水を飛ばす犬のように首を振っている先程のカモメだった。

座り込んだ私の上から降り、漸く地面に立ったカモメは、酷い目に遭いました、と溜息をつく。

「あの、どうし、」

尋ねようとしてた口の少し上、勢いよく布が押し当てられた。

驚いて手に取ってみると、ハンカチの切れ端のような布は赤く染まっている。

「血が出てるよ」とぐりぐりそれを押し当ててくるアデリーペンギンの一羽の言葉を聞く限り、すごい勢いを持っていたのだろう。どうしようもなく私は苦笑した。



「僕、あなたとお別れしてから直ぐに、ちょっと余所見をしてしまったんです。そしたら、次に前を向いた時にはあそこの風見鶏に鞄が引っかかってしまって、外そうとしてぐるぐるしているうちに目が回って……。真っ直ぐも飛べないので、一先ずちゃんと足の付く地面に降りようと思って、なんとか帰って来ていたんです」

そうしたらぶつかってしまいました、と申し訳なさげに項垂れるカモメと、そのスピードを直に受け止め鼻に布を詰められる運びとなった私と、野次馬ならぬ野次アデリーペンギン達。海から少し離れた休憩所で、三種類の生き物が集まっていた。

カモメの言う、あなた、とは私の事だ。

私が、宿に持って帰るものはあるかと尋ねた直後の事だったのだろう。そこからぶつかるまでのいきさつを説明してくれた配達員のカモメの持っている配達鞄は、風見鶏に引っかかったと見られる箇所の糸がほつれ、布地が破れていた。よく見ると、鞄と言ってもあまり丈夫には出来ていないあっさりしたものだった。恐らく、破れたその部分から、残っていた手紙や葉書が零れ出たのだ。

私の掛け声で至る所に散らばっていたらしいアデリーペンギンの群れが、随所にばら撒かれたそれらを丁度拾い集めていたらしく、それらはもう、穴の開いた配達鞄に形だけは戻って来ていた。

「大変だったね」

しょぼくれているカモメを窺いつつそう言うと、時折垣間見えていたようにとても律儀な性格らしく、「怪我までさせてしまって」と又も謝られてしまった。

よろめいていて少しスピードが落ちていたのだけが救いだったみたいだ。それに、くちばしがストレートでぶつかっていたらと思うと、気にしないでと言いながらも少しだけ背中が寒くなる。

ただ、幸いといって良いのかは解らないけれど、私も余所見をして前を向き直した時にはどこかにぶつかるだとか、走って転ぶだとか、この程度の怪我は今までも沢山して来たゆえに、びっくりして泣いて余計に困らせるなんて事態にはならなかった。それだけでも、この仕事熱心なカモメを少しは救ってくれていたらと思う。


爽やかな風が、休憩所に舞い込んで来た。

ここは、南極町を活気づけている市場の傍にある休憩所だ。扉は開け放されており、誰でも自由に出入りしておしゃべりをしたり休んでいく事が出来る。飲食も可能となっていて、休憩所内の隅のお店では軽食が売られていた。南極町に来る際に乗った列車の中でコウテイペンギンと食べたものと同じ鰺のおやつもそこにある。群れの中でも飽きて来たらしい数羽が楽しげに買いに行っているのを見送りながら、私は随分と懐かしく思えた。


「これからまた、配達へ行くの?」

私達を取り囲んでいたアデリーペンギンの一羽が、カモメに尋ねた。カモメは困った顔で目を落とす。その傍らで、見知らぬ大きなオットセイが可愛らしい苺のアイスを食べていた。

「うーん、本当は勿論、直ぐに行かなくてはいけないんです。……ですが」

「どうしたの?」

「鞄が使えなくなってしまったので、郵便物を持ち運ぶ術がなくて。くちばしで挟んで行ける枚数には限度がありますし。……!ああでも、そうだ、出来るだけ急がないと、夕暮れの回収に間に合わなくなってしまうのか……」

カモメは問いかけに応えながら、後半は独り言と化していた。

引っ掛けて破れた、配達員カモメの配達鞄。空っぽのそれをひっくり返したりして眺めていたペンギンからそれを手渡してもらい、私もしげしげと、よく眺めてみた。

確かに、持ち帰られた残りの郵便物の量は、この鞄では無理だろう。そうかといって、くちばしで挟んで運んだりなんかしたら、今度はカモメの顎が外れそうだ。

「南極町にも、ちゃんと回収の時間が決まってるんだね」

耳にした会話の中から当たり前のことを呟いて、これは午前の分なのだと改めて思い出した。まだ夕方の回収時間には少し間がある。

だけど、これが間に合わなければ、夕方の配達も丸ごと遅れてしまう事になるのだろう。それでは、仕事熱心な彼が余りにも不憫だ。

「怒られちゃうの?」

ペンギンが何の気なしに問うたのであろう言葉に、カモメは何度目かの溜息をついた。

「どうでしょう。今まではこんな事、なかったんです」

それを見て、相当落ち込んでいるのが見て取れた。そして、気づいたら、言葉を紡いでいた。

「……それって、私が行っても問題ないのかな」

意気込んだわけでも、元気良く閃いたわけでもない。

まるで吐息の如く、自然と零れた言葉だった。



「私が、代わりに配達するよ」

その時、タイミングを見計らったかのように休憩所の窓から射し込んだ太陽の光。

ペンギンの群れも私もしょげたカモメも皆、見た目以上に柔らかそうに染まって、まるで絵本の夢みたいに綺麗だと思った。

そして、カモメ自身が負ったダメージの事も考えた私は、宣言通り、その日の”一日”、否、”半日郵便配達員”となったのだった。大きな荷物は疲れに繋がるので、リュックサックは残るカモメに見守っていてもらう事にした。

*


「じゃあ、私、行ってくるね。カモメさんはゆっくり休んでいて」

その後雲が出て来て姿の見えなくなった太陽は、今もまだ高めの位置にあるはずだ。

預かった残りの郵便物を手に持ち、休憩所の出入り口で後ろを振り返った。

カモメは、先程皆で座っていた場所に残って、何度もぺこぺこと頭を下げている。

「本当に助かります。……僕がぶつかったのに、何とお礼を言えば良いんでしょうか」

「お礼なんて大丈夫だよ」

丁寧すぎる程の彼に思わず笑みを零してしまう。初めにそれを見た時こそ彼のくちばしと顎を心配したものの、人間の私が手に取ってみれば、残りの郵便物の厚みも大した事はなかった。

「それじゃあ」

残っている者達に手を振り、改めて外に出て行こうとする、と、不意に足元に小さな体温がまとわりついた。

「!どうしたの、」

「あなたがひとりで行くの?」

転がるように追いかけて来た一羽のアデリーペンギンが言う。見た目は皆同じなので、正直いつ何をしていた一羽なのかは全く見分けがつかないけれど。

黒と白の毛に覗く小さな瞳がとてつもなく愛らしい。実は私が一番好きな種類だ。

「う、うん……そうだけど」

そんな私の返答を聞いて、そのペンギンは驚いたように更にくっついて来た。

「ダメダメ、私も行く」

「どうして?」

「だってアザラシさんから聞いたの」

「何を?地図も借りてるからひとりでも心配ないよ」

「先月だったかな、この町に来た人間のお客さんが、一人で歩いていて迷子になったんだって。だからあなたもひとりで歩いちゃ迷子になるかもしれないよ」

これには本当に、苦笑するほか何も出来ない。

それにしてもアザラシさん、誰に何を話しているのか本当に。

「私達は生まれた時からこの町に住んでいるから、もうなんてことはないけど、やっぱり人間のお客さんってきっと慣れてないんだと思うの。だからあなたも迷子になったりしないように、私が配達について行ってあげる」


そっとカモメの方を見ると、私がアザラシの宿について質問した事を思い出しでもしたのか、彼は彼で合点が行ったらしく複雑な様子で手を振ってくれた。

「うう……じゃあ、お願いしようかな」


そうしてひとりと一羽、私とアデリーペンギンは休憩所を後にして歩き始めたのだが、いざ彼女について来てもらうと、配達仕事は思っていた以上に捗った。

私と違って彼女は一度も道を間違えなかったし、民宿の階を移動出来るようになったとはいえまだまだ長いスロープを上れない私の代わりに手紙を届けて来てくれることも何度かあった。

「ありがとう、ついて来てもらって良かったよ」

「そうでしょう。それに私本当はね、この仕事、一度やってみたかったの」

単に、私にとっても配達の仕事が存外楽しかったというのもある。だけど、誰かのために動けている、誰かの力になれているという事実が、その何倍も嬉しく感じた。


配達を始めてから漸くじわじわと、太陽の位置が変わり始めた。

アデリーペンギンは時折海の中に潜っては飛び出しを繰り返しながら、楽しげに私について来る。

その様子を見ていると、良かったと真っ先に思えるのは「配達をしてみたかった」と言っていた彼女の事だが、私も内心、生まれてこの方配達の仕事などした経験がなかったので程良く楽しんでいた。

抜けるように高い空。私達の頭に近い位置を、数匹のミズクラゲがふわりふわりと漂っている。変わり始めた空の色彩と、透けているクラゲ達の体。その体が空を映しているのを見て、私の口からは違った種類の溜息が漏れた。

見惚れていると、違う所から泳いで来たらしいクラゲが一匹、私達の方に近寄って来た。

「こんにちは、人間さん」

「ミズクラゲさん、こんにちは」

小さい頃に戻ったみたいに素直な挨拶を交わすと、その一匹は特に目的も持たずに漂っていたのか、気ままに私達と並んでついて来た。

「ねえ、人間の暮らしってどんな感じ?」

「人間の暮らし?」

「そう。だってあなた、この町の生まれじゃないでしょう?どんな風に暮らすのか知りたいの」

「うーん、でも、人間もそんなに変わらないよ。ここで仕事をしている生き物達と同じように働いて、食事をして、遊んで暮らすの」


「喧嘩もするの?」

「喧嘩もするよ。偶に、国と国の間でも大きな喧嘩が起こったりもする」

人間が特別な生き方をしていると思っていたらしいクラゲは、拍子抜けした様子で「そうなの」と返事をした。

「疲れる時もある?」

「勿論、あるよ」

なんだかインタビューみたいになって来た、と私は小さく笑みを浮かべる。

「あなたは、自分達の暮らしが好き?」

ただ、その質問だけが、私を少しの間黙らせてしまったけれど。

人間達の暮らしか。

人間の社会の中で……と考えて、思い留まる。本当に、社会だなんて言葉を口にする大人程長く生きて来たわけではない。

私はまだ子供だ。だけど、そんなまだ浅い私の人生の中だけでも、嫌いな部分ならそれこそもう、嫌という程見聞きしたし数えて来たけれど、楽しいと言っても良いのだろうか。悩んだ結果、

「うーん、私はまだ子供だから、言い切れるほど、ではないかも……」

なんだか自信のない答えになってしまった。それでもミズクラゲは納得してくれた様子で、「そう」と返事をしてくれ、そのまま、南極町では誰もが知る、大きな湖の前まで一緒について来た。下から見上げると、相変わらず空が透けて美しい。


「私はここまで。あっちにお家があるから帰らなくちゃ」

そして、私達が行こうとしていた残り数軒のある方向ではなく、道の分かれる交差点を右に曲がってふわりと浮かび直した。「お話楽しかったわ」

「そう、それなら私も安心したかな。気を付けてね」私はそっと手を振った。アデリーペンギンも、その足元で真似をする。


「ねえ、もうあと少しでおしまいだね」

自分が引き受けた役割をきちんと果たせそうな喜びに任せて足取りを跳ねさせて、私はアデリーペンギンを見下ろして言葉を紡いだ。

「そうだね。私、飛べないけど郵便屋さんになりたいなぁ」

彼女は、頭の上に配達物を載せ、湖の浅い所を子犬のように揺蕩っている。

「なれるよ、きっと。それでもし駄目でも、海の中の配達をすればいいんじゃない?泳いだら、あなた達はジェット機みたいに速く泳げる」


――きっとこれは私の悪い癖で、私自身も、ずっと忘れていたものだったのかもしれない。

いや、はっきりと自覚していたかさえも解らない。

「結構量があるように見えたけど、無事終われそうで良かっ、」


不意に、足が軽くなった。

踏み出した足は、南極町に来て随分と馴染んでいた、砂糖のような白い地面を捉えはしなかった。



瞳に映る景色が揺れ、ざばん、と飛沫が上がった。何が起こったのか自分でも一瞬解らなくなるうちに、氷の手に掴まれたかのように、体中が縮み上がった。

耳が痛くなるほどの冷たさに射貫かれる。

落ちたのだ、と、少し経ってから気が付いた。

目の前には、少し深さのある白い壁。その上を私達は歩いていたのだ。


町の中心にあれだけ大きく陣取っていた湖に落ちるなんて、どれだけ私はぼやぼやしていたのか。

驚きと戸惑いも手伝ってはいただろうが、突如として体を包んだ水の温度が冷たくて、顔を出しても上手く息が吸えない。南極の水温は、時と場合にもよるが、以前何かで読んだ記憶では、夏でも三度ほどだったはずだ。

夏になったばかり、どちらかといえば春寄りの気温でのプール開きも学校では経験した。その時には今と同じく、呼吸が少しばかり、ひゅ、となった事もあるけれど、流石に比べ物にならなかった。

そして、湖と呼ばれてはいても、言ってみれば南極の町に空いた大きな穴だ。あまりに深く、それが更に私を焦らせた。


地面に手をかけるくらいはしたいと冷えた手足をめちゃくちゃに動かすと、下の見えない深さによって、私の心は本格的に恐怖に囚われた。上の方が、微かに騒がしくなって来た気配がする。

どうしよう、どうしよう、どうしよう――――


――浮いている事が出来なくなって来て、大人数でも恥晒しでも何でも良いので助かりたいと祈ったその時、靴に締め付けられ、水温により一瞬で冷え切った私の足が使い物にならなくなった。鼻も痛い。自分の馬鹿さを痛感する心も痛い。


「人間さん!」


アデリーペンギンの声がする。先程水中で楽しんでいたはずの彼女の声は、壁の上から聞こえて来ていた。人の郵便物を気にして、飛び込めないのだろう。先程楽しそうに飛び込んでいた時だって、それらは頭の上にあって、濡らさないように彼女は気を付けていた。

助けてくれないと恨むつもりは微塵もない。

少しばかり忘れかけていた自分の情けなさが、これを機にと湧き出して来た事の方が悲しい。


馬鹿だと思った。

鰯みたいに皆同じ事しか受け入れられない社会を嫌って、それに適応できないと自分も嫌って、結局こういう事にしかならない。


今だって、私にペンギンのようなジャンプ力があったら自力で飛び出して行けるのに。

私が、ペンギンだったら。

私が、皆と同じように、”周りが望む幸せ”を手にして喜べる人間で、今みたいな人間じゃなかったら。



私が、人間になんか生まれなかったら。

いつもこうだ、きっと悪い癖だ。

いつだって私の為す事は、上手く行きそうな所でダメになる。

それも全て、他の誰が悪いわけでもない。


何もかもが冷たくて泣きたくなった、その時だった。




耳も痛くてもはや方向も解らない方から、再び水の立てる、ざばん、という音がしたかと思うと、私の体が、先程とは比べ物にならない浮力で押し上げられた。

深い深い場所から、分厚い壁がせり上がって来たような、そんな力だった。



ぐらりと視界が傾いで、

上の方に見えていた壁に額をぶつけるのではないかと思う程の力。

実際ぶつけたかもしれない。

驚いて、がぼりと水を飲むとほぼ同時に、目の前で星が散った。



*



――人間じゃないか。それも子供だ。

――この子は一体どうしたんだ。


――人間なんて久しぶりに見たなぁ。


――この人間さんは良い人だよ。私、この人間さんの事がすごく好きになったの。

――何があったんですか。


――湖の中に落ちて、上がれなくなっていたみたいで。

――手紙はここ。

――ああ、ありがとうございます。僕が自分で行っていれば――


――なんだ、君こそ何かあったのか。

――すみません。恥ずかしながら、配達中にぶつかってしまって――

――夕暮れの回収には間に合うかい。

――ええ、大丈夫みたいです。




――さあ、さあ道を開けてくれ、どいておくれよ。この人間は僕の知り合いだ。














*

目が覚めると、私の体は既に温められていた。仰向けに寝かされていて、身じろぐと、どうやら体には毛布が幾重にも巻き付けられており、部屋の中も出来る限り暖められているといった風だった。

服は元のままのようだが、部屋を見る限りあらゆる手を尽くされたらしく、濡れて寒いという事ももうなかった。

――ここは一体どこだろう。

湖に落ちて、それがうんと深くて、寒くて上がれなくなって――

そこまでは憶えている。そして、何かが水の中から私を押し出した事も。


見上げた天井は、まるでログハウスのように赤茶色に塗られており、視界からも温まる事が出来そうだ。部屋の中心には足の長いダイニングテーブルのような机がひとつと、セットだと思われる椅子が四脚。一瞬ここが南極の町だという事を忘れそうになる程に、人間の住む部屋と変わりなかった。

足の指先を、丸めたり伸ばしたりしてみる。水中で悴んでいた指も、もうすんなりと動くようになっていた。

そして軽く左右に視線を巡らせると、直ぐ左の壁に窓が取り付けられていて、そこからこちらを覗いていたと思われる、一羽のペンギンの姿を見つけた。


「あの……」

頭の黒い部分とくちばししかここからは見えない上に、見える角度も限られているため、何ペンギンかも確認出来ない。

だけど、すっきりと意識を取り戻した私の目は、そのくちばしの大きさを見逃さなかった。

「目が覚めたかい」

低くも高くもない穏やかな声だった。聞き覚えのあるものだった。私は頷く。

顎の先に触れた毛布がとても柔らかい。

それと同じくらい柔らかそうな羽毛に包まれたそのペンギンは、ふるりと頭を振って言葉を続けた。

「列車を待っていたんだよ。そうしたら、湖の方がなんだか騒がしいじゃないか。聞けば、人間がひとり水の中に落ちているという」

私は頷く。

「それで、僕はもしやと思って向かったのさ。駅からは少し遠かったがね、コウテイペンギンは泳ぐのも滑るのも得意だから」

私は頷く。

「そうして辿り着いたら、やっぱりお前さんだった」

そうして飛び込んだんだよ。

私はそれを聞いて頬を緩めて、少しだけ微笑んだ。

こちらから訊く前にあの時の状況を話してくれた眼前の大きなペンギンとの会話は、決して初めてではないともう気が付いていた。不思議なことに。

「あの時のコウテイペンギン」

「そう、僕は君がここに来る時の列車で隣に座っていたコウテイペンギンだ」

南極行きの列車に乗ったのはいつの日だったか。アザラシの宿にお世話になるようになって、小さな貢献を重ねながら幾日も過ごしたのだろうが、どれくらい前の事だったかもう忘れてしまったようだった。

それなのに私の耳は、彼の声まで忘れてはいなかったらしい。

「そういえばどうして中に入って来ないの」

「お前さんが今居るのは、今回みたいに、人間に何かあった時に療養させる為の建物なんだ。僕らみたいなこの町に生まれ育つ生き物は、そんな暖かい所には入れないよ」


全ての糸が綺麗にほどけていく。合点がいく。

私を助けて運び込んだのがこのコウテイペンギンなら、湖の中でもがいていた私を水中から押し上げたあの物凄い力も、同じく彼だったのだ。

ペンギンは、種類によってはとても高いジャンプ力を誇るものがある。

アデリーペンギンはあんなに小さいけれどその高いジャンプ力を持つ種の仲間で、今話しているコウテイペンギンは、私達人間には到底潜れない海の深い所でも、ジェット機のように逞しく泳げる。加えて、大きな翼の力が何よりも自慢だ。

その力強い翼で水中へ潜り、勢い付けて私を壁の外へと救出してくれたのだろう。

そして暖かい部屋の外から、見守ってくれていたのだ。


してお前さん、と、羽毛の中で目を細めたコウテイペンギンが問いかける。

「鰺スティック、列車を降りて、あれから食べたかい」

「食べてないよ」

大層な迷惑をかけた後だし、列車でもそう何時間も話し合っていたわけではないのに、懐かしさのようなものを感じて、くすくすと思わず笑みを漏らしてしまう。

「でも、休憩所で売ってたのは見たよ。よく思い出すとやっぱり慣れない見た目だけど、もう一本くらいは買ってもいいかな」


私がそう言うと、次の言葉は帰って来なかった。少しばかり続いていた会話のキャッチボールがすうっと止んでゆき、心地よい静寂が舞い戻って来る。

ところで、一緒に手紙を配達していたアデリーペンギンはどこに行ったろう。

鞄の破れた配達員のカモメは、クビにされたりしなかっただろうか。少し離れていた間の事が様々に思い出されて気にかかる。

もう大丈夫だろうかと頃合いを図って、私は寝かされていたベッドの上で上体を起こした。遠かったコウテイペンギンの顔は、こうして座高に変わる事で、より真っ直ぐ見られる。

「鰺の話はさておいて」

コウテイペンギンは言った。

「お前さんに大事な話があるんだ」

「大事な話?」

「お前さんの、帰り支度の事だよ」


――その言葉を聞いた途端、ぼやけ続けていた焦点が、すっと定まった気がした。

「私の帰り支度……?」

先程の鰺の会話から一転した話題に、我ながら笑ってしまう程に頼りない声が出た。

そして、そんな声を出した自分の心にも驚く。


「……お前さん。本当に、帰るつもりなかったのかい」

「えっ」

そして、コウテイペンギンが紡いだその言葉は、私を三度目の驚きに包み込んだ。

一度目は、私を助けて運び込んだのが彼だったという驚き。

二度目は、帰り支度との話題を出された時。

そしてこの三度目は、そのどれよりも、私の思考と動きを止めるのに効果的だった。

――そうだ。だんだんと思い出して来た。確かに私は、この南極の町へ向かう列車に乗る時、帰りの分の切符は要らないと言った。

何も、南極に連れ去って帰らせないなどという誘いの切符にも見えなかったので、それなら当然、帰りの切符も普通は乗車券などと一緒に同封されているものだろうと後から気づいたものの、あの時自分が居る場所全てを嫌っていた私に、そんなものは必要なかった。


だって、生き辛くて何もかも自棄で、どこにでも行ってやろうと思って電話をかけたのだ。

だから、あの列車の車掌に、こう告げたのではなかったか。

「帰りの分は、……無いけど、いいです。要りません」


私は暫く、言葉を失っていた。そして、一拍遅れてどっと溢れる。

「どうして、知ってるの。私が列車に乗る時、そう言った事……。だってあの時、ペンギンの群れは私よりずっと後になって慌ててついて来たんだよ。ベルが、……そう、発車のベルが鳴ったのを今でも覚えてる。貴方は私より後に来たはずなのにどうして」


何かの予感に取りつかれたかの如く話し出す私を見てもコウテイペンギンに慌てる素振りなど微塵も見えない。それが又なんだか、私だけが追い詰められていくような気がして心臓がバクバクと騒ぎ出す。

そして彼は口を開いた。そもそもペンギンがくちばしを動かして話している、ずっと見て来たはずの光景さえも今更訳が解らないもののように思えて来て、ぐちゃぐちゃに混じり出す心を押さえるつもりで、私はぐっと窓の方に身を寄せた。

私が大人しく言葉を待っているのを確認して、穏やかな声は続けた。

「黙っていて悪かったよ。僕はこの、南極町の駅長なんだ」

「駅長……」

「そうだ。この町の駅を管轄する駅長さ。

だから、帰りの分は要らないとお前さんが言った車掌も、僕の仕事仲間だ。……あの後、その言葉を聞いた彼が心配して僕に言ったんだ。”招待用の切符と乗車券を持って乗り込んだ人間が、帰りの分は要らないと言っていた”、”本当に帰るつもりはないのだろうか”ってね」


解らない事が、泡の如く緩やかに浮かんで来る。

「……招待用って、何のこと」

「お前さんの持っていた切符と乗車券。あれは、南極町の駅から特別に送った物なんだ」

憶えているかい、と問われて、紙の感触まで思い出せるそれを記憶に蘇らせる。

沢山の時間を過ごして来たように思うけれど、忘れるはずがない。

紺色の紙面に、金色の印字。文字のない部分には、一面の銀箔。

あれはまるで、月のある夜の星空だった。


「憶えてるよ」

そう言った私に見えるよう、窓の外のコウテイペンギンは一枚の紙切れを見せた。

「……これって」

「南極町行きの普通の切符と乗車券だ」

言われなくても、勝手に少しずつ、事実が染み込んで来る。

今新たに差し出された小さな紙は、私の家に封筒で届いた物とは似ても似つかない物だった。

夏の夜明けを思わせる水色の紙面に、視力が落ちたら読めないのではないかと思ってしまうような白の印字。消えてしまいそうなコントラストだ。

そして文字のない部分には、――何もない。

正真正銘、私の貰った切符とは作りが全く違っていた。

成程私が受け取ったのは、やっぱり”招待”のために作られた物だったのだろう。

そして、切符と同じように、彼が正真正銘の駅長なのだと理解すると、列車の中でいつかそれらを見せた時に言っていた、

「その切符も偽物じゃないだろうから」という言葉にも納得がいく。

駅長が寄越して来た、駅で使う物が、偽物であるはずがないではないか。


それにしても、と思った私は、満ちてきた緊張を少しでも逃がしたくて、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「じゃあどうして、私に切符と乗車券を送って、列車に……この町に招待したの?駅長の貴方の権利、でしょ、そういう事が出来るのは多分」


それを受けて、コウテイペンギン――南極駅の駅長は、そうだと口で返事をする代わりに、あの時と変わらない胸の羽毛を膨らませた。湖に向かう時のものだろうか、ここに来る時のものだろうか、クリーム色のそのお腹に、薄い汚れがついている。

彼は言う。

「お前さんに、僕がこの南極町行きの列車の招待券を送った理由かい?」いやに説明くさい訊き返しに戸惑ってしまう。

そして彼は戸惑う私に向けて、力強く、諭すように、極めつけのような言葉を告げた。

「それは、お前さんが一番よく解っているはずだ」


――瞬間、体中の血液がごうごうと音を立てて廻り出すような錯覚を感じた。

そんな事があるのかと、呼吸も忘れてしまったように思えた。

眼前に居る、駅長のコウテイペンギンは、全て解っていたのだろうか。


私が南極行きの切符と乗車券を、少しは怪しみながらも受け入れたそのきっかけ。

実際ここに来てからだって、何度も何度も思い出したではないか。

封筒が届いたあの夜、私は何に苦しんでいた?


家族に友人。自分の事をよく知る人達に囲まれながらも、私個人が本当に抱えていた違和感や苦しみは誰にも言えないまま、――言えるとは到底思えない環境が、もう自分を変えようという気にもなれない環境が息苦しかったのではなかったのか。

忘れてはいなかった。忘れた事はなかった。


それを思い出すと、尚更、今のこの”帰り支度”というその語句が、私には受け入れられなさそうなものに思えて来た。

帰らなくてはいけないのか。

招待する権利を持つなら、もしかすると帰す事も、駅長には出来てしまうのだろうか。

そんなの、

「嫌だ……」

「思い出したかい」

「忘れたことなんてずっとなかった、」


お腹を押されるみたいにして、ふう、と細い吐息が漏れた。私はまだ帰れない。

帰って、どうすればいいのか、その一歩目すらも解らない。

大体、ここに来てどれくらい経ったのかという事さえも、考えなかった。

今更思い出した存在に、お腹の底が冷える気がした。

だってそんな事まで忘れるくらい、


「帰りたくない」

「何故だい」

何故って、

「ここは」

そう、だってこの町は。

「……ここは、私には居心地が良すぎたんだ。


ひとつの町に、こんなに色んな種類の生き物が生きているのに、同じ生き物の集団で居てそれぞれ違うことをしている子も居たのに、そんな誰かを誰かが咎めたり、変な奴だって扱ってる所なんて一度も見なかった。町でだって、アザラシさんの宿でだって……

もしかしたら、本当は仲の悪い子達が居て、私が見ていない所ではそういう事もあったのかもしれない。でも、私が居た人間の社会では、誰かの”幸せ”の形さえも決められているみたいで、それが正解みたいな見えないルールの中で生きてるみたいで……少しでもそれに倣わない人が居たら、皆がそれをおかしいって言うんだ……!」


堰を切ったように、普段到底言えない言葉が溢れ出てくる。

だから、帰りたくない。

気づいたら、息が上がっていた。水に落ちた私を温めるべくこの部屋も暖められていたはずなのに、体の内側は暑いくらいだった。

「……やっと、お前さんの本心が知れた気がするな」


次に何を言えばいいのか解らなくなっている私の耳に、落ち着いた声が届いた。

私の本心。

感情は混乱しているのに不思議と、本心という、その言葉に対しての違和感は感じなかった。

そうだ。これが私の本心なのだ。


「お前さんは列車で会った顔をしていた時、今にも消えてしまいそうな顔をしていた。もし僕が放っておいたら、あの列車のあの座席にいつまでも座って、どこまでも、それこそ終点のここを通り過ぎて車庫まで行っちまうんじゃないかと思うくらいには、空っぽだった」


「……」

「解るんだよ。不思議とね。……だけど、お前さんに招待用のあれを送って良かったと思っている。お前さんは、この町で何を見た?」


幼い子供に話しかけるかのような、穏やかな声音。

作り声ではない、彼の本質が現れた声だ。自然と心の中に入って来るのに、それはちっとも無遠慮なものではなくて、強く反発し続けていた私の心が、彼の言葉に反応して素直に何かを考えようとするようだった。


「お前さんがこの町で見たものはきっと、多様性と呼ばれるものだよ」

「たようせい」

繰り返すと、ああ、と返事が返ってきた。

「僕はこの町の駅長を務めるにあたって、町の事をまずは深く知ったんだ。お前さんは見たことがないかな。大きな生き物が、姿に反して可愛らしいものを好んでいたり、反対に、こんな小さな生き物に出来るのかというような事を成し遂げていたりするところを」


感情が高ぶっていつの間にか滲んでいた涙を拭いつつ記憶を辿ると、確かに、思い出せる記憶があった。

休憩所でカモメやアデリーペンギンと話している時、売店で買ったものだろうか、大きなオットセイが苺のアイスを食べていた。あんまり美味しそうだったから、よく憶えている。成程、確かにもしかすると、あんなに大きい生き物が苺なんて可愛いものを好んで、とでも言われた可能性もあったのかもしれない。

それから、後者は……カモメの事だろうか。

「心当たりはあるようだな。与えられた見た目に反する事をしていても、誰も変だと言ったり、笑ったりする生き物は居なかっただろう。それは、あいつらが、この町で認められているからなんだ」


「認められて、いる?」

「そうさ。何も実力をというわけじゃない。あいつらはそれを好きなんだという事をだ」


私は心の中で、その言葉を噛み砕き、時間をかけて飲み込んだ。

あのオットセイの好みも、カモメの仕事も、彼らが好きな事で、それはきっと、言ってみれば彼らの個性なのだ。

それがこの町では、そういうものだ、と認められているから、誰にも何も言われない。

「……」

私の顔つきは、変わっていたのだろうか。

「そういうことだ」と、コウテイペンギンは静かに言った。「勿論、僕がそれを知って、こうして今お前さんに伝えることが出来ているのも、そういった空気が僕にそうだと理解させてくれたからなんだぞ」


「……それが、理想。私の理想……誰も、自分の個性や生き方を、迷わなくていいのが」

「ああ」

「でも、私達人間の社会は、それがまだ出来ないんだ。この町みたいな考え方が、私達は」

「それを知っているお前さんは、大人だ」

「……それに、私も皆と違う側なんだと思うから、苦しい」

「そうだとしても、それを変えたいとまだお前さんの中で思っているから、さっき僕に教えてくれたんだろう」


すっと胸のつかえが落ちた気がした。固まっていた何かが、ほろほろと崩れて落ちてゆく。

この町でも人間の世界でも、今までどこかの誰かが頑張って来たから、色々なものが変化して、今がある。何も考えないで生きている奴らより、苦しむ事で何かを考えているお前さんは、絶対に、一歩前に進んでいるよ。立ち向かう事が怖いなら、今この町を思い出せばいい。こんな経験した人間、お前さん以外にきっと居ないよ。


「それでもまだ、何も出来ないと思うかい」

私は、自分でも解るくらいにおずおずと、ゆっくりとした動きで首を横に振る。

「それを伝えるための旅だったんだ、全部。あの時とは違う顔をしている。

だから、これが理解出来たのなら、お前さんはもうここに居なくても生きていけるよ」



――至極簡単な事だった。

打ち明ける事さえ怖かった私は、やっぱり、まずは自分の叫びを正面から聞いてくれる誰かが欲しかったのだ。


「帰れそうかい」

私は首を縦に、そして横に振る。

「どっちだ」

「帰れる。……でもちょっと、寂しいな」






*


南極駅のプラットホームから、私だけが乗車した。

帰りにも、駅長のコウテイペンギンは、特別な切符を用意してくれた。


宿を営むアザラシにもアデリーペンギンにも配達員のカモメにも、ちゃんとした別れの挨拶は出来なかった。

「心配要らない。南極に来た人間のことを忘れちまった奴らは、今まで一匹も居ない」


信頼出来る存在の一部となった駅長のコウテイペンギンはそう言って、私に一本の棒のような物を差し出した。

「なにこれ」

「忘れちまったのかい」

顔に近付けると、生魚の匂いがした。

「鰺スティックじゃん」

「餞別だ」


えへへ、と、思わず笑顔が浮かんだ。

「きっとお前さん自身も忘れないよ。こんな体験なんて滅多にないぞ。だから目標を見失うこともきっとない。さあ、今度は悩まずに、ちゃんと遊びに来るんだ。帰ったら満月が待ってるぞ」


あの日と同じように降りて来た車掌のオットセイに、私は切符を見せた。

そして駅舎に近い窓際のシートに座ると、窓に顔を寄せる。


汽笛が鳴った。

ずっと、長く、長く鳴った。





そして列車が見えなくなってから、駅長のコウテイペンギンは駅長室へと歩いて行った。

一冊のノートを開いて、ぱらぱらと捲る。

今まで乗客の傾向の記録をするために作られたものだ。長く使われて、古ぼけている。

アザラシ。オットセイ。クラゲは種類別、ペンギンも種類別。

そして、新しいマーカー二つを、たった今初めて作った。

そこには、招待客、の文字。

そしてもうひとつのマーカーには、人間、の二文字。

たった今出発したあの少女は、

この駅長が正真正銘初めて招待した、特別な人間の乗客だった。

*


ふと気が付くと、見慣れた物置小屋だった。

夜だろう。薄暗くて狭い所に押し込められていて、私は一瞬戸惑った。

ここはどこだろう。

ここは、――そうだ、冷蔵庫だ。


形容し難かった息苦しさに押し潰されそうになった時、私がいつも逃げ込んできた、

物置小屋の冷蔵庫。

そこまで気が付いて、胎児のように丸く収まっていた私は勢いよく顔を上げた。

一体どれくらいの時間が経ったのか。

記憶ははっきりしている。信じられない嘘のようだが、何もかもの記憶はある。


――南極。

夢から醒めたような心地の中に居るのに、その言葉だけが、余程特別な魔法の一言のように頭から離れない。こびりついて離れない。

はっとして目を見開いた。何もかも憶えている。

あそこに私は、随分と長く居たはずだ。

今こうして物事を考えている私はどうなっているんだろう。

物置小屋の冷蔵庫で、変死体になって意思だけが生きているとかは、ありえない、か。


日付を確認しようとして、手元にあったスマートフォンの画面を表示させると、

現れた日付は随分前のままだった。

アプリでつけていた日記の画面を呼び出すと、日々綴り続けてきていた後ろ向きな言葉の羅列と共に、正しい日付が確認出来た。

一日も経っていない。物置小屋に来た時間から、ほんの数時間経っているだけのようだ。

それを実感すると、いよいよ夢だったのではないかと思える。


と、そろそろ一度冷蔵庫から出ようと身動きした私の腕に、何か柔らかいものが触れた。

手元を見下ろしてみるも、閉塞空間の中で唯一の灯りであるスマートフォンの画面が消えると何も見えない。


落ち着いてもう一度画面の光を当ててみると、私の両腕の中には、ふわふわとした毛が指に馴染む、一匹の小さなペンギンのぬいぐるみが鎮座していた。

黒い毛に埋もれるような愛らしい顔つきの、アデリーペンギン。

息を呑む。

あと少しで涙が出るかと思った。記憶が残っていたのはこのためか、とさえ思った。


恐る恐る、アデリーペンギンを模したぬいぐるみの背中を撫でる。

そっと抱きしめたら、潮の香りがした。

頬ずりをしたら、本物の羽毛のように滑らかだった。

おまけだと言わんばかりに、苺色のリボンが結ばれていた。


――皆が、ここに居る。


冷蔵庫の取っ手を開けて、外に出た。

南極の町へ行く前にここに飛び込んだ時の泣き出しそうな気持ちは、

嘘のように晴れていた。


潮の匂いはまだ消えない。

私は日記帳のアプリをタッチして、削除した。


空を見上げると、南極に似た冷たい空気の中で、薄らと白い満月が光を放っていた。

















了.



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

南極町へ ヒラノ @inu11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る