第22話 最終話

 駆けながら、万智子はくすくす笑い出した。

 悠がようやく足を止めた。

 万智子は胸を押さえて笑っていたが、しまいに涙が出てきた。

「ああ、やだ。完璧な失恋ね」

 万智子は袂を口に押し当てた。衝撃は受けたが、胸は痛まなかったと思ったのに、涙があとからあとから出てきて止まらなくなってしまった。

 悠の手が動いた。両手が回され、引き寄せられる。自分が悠の懐にすっぽりと納まってしまったことに仰天して、万智子は涙が引っ込んだ。胸がどきどきしていた。さっき泣いたときよりも鼓動が早い気がする。

 万智子は慌てて身を起こした。悠の手はさらりと離れた。

「ごめんなさい、もうだいじょうぶだから」

 悠は何も云わない。ただ、万智子の隣にいた。

 唐突に悠は頭を下げた。

「謝る。あんなことになるとは思わなかったんだ。黙ってて悪かった」

 悠は例の女性のことを知っていたと云った。だが、万智子怒る気にはなれなかった。知っていて黙っていたことやぎりぎりで駆けつけてくれたことは悠のやさしさだと思う。それよりも万智子は殊勝になっている悠が珍しく、ちょっと意地悪をしたい気になった。

「知っていてどうして黙っていたの?」

「それは、こんなことは知らずに済んだほうがいいだろう? 結婚前には話をするって健さんも云っていたし」

「気を使ってくれたの?」

 悠は云いにくそうに顔をしかめた。

 万智子はついに笑い出した。

「もう、いいわ」

「本当に?」

 万智子はきっぱり頷いた。

 自分でも意外なほどすっきりしていた。健には恋に恋をしていたのかと思う。共に生活をしていくという結婚について考えてきたようで覚悟すらしていなかった。一週間、桐嶋家で生活してみて、どうしてもしっくりこなかったこと。世間ではそれを乗り越えて生活をしていくのかもしれないとも思う。だが、他の道も試してみてもいいのじゃないか?

 隣で、悠が肩をほぐすように伸びをした。

「やっぱり文興堂には万智子さんがいないとね」

 思わず万智子は云いかえした。

「ちょっと、そんなことでどうするの? 後継ぎでしょう?」

 すると、悠は心底驚いた表情で万智子に振り返った。

「それ、どういう意味?」

 万智子は戸惑ってそっぽを向いた。自分でもどうしてそんなことを云ったのかわからない。そしてこれはなんとなくまずい展開である。

「俺が真田家に入ることを認めてくれるんだ」

「まあ、調子に乗って!」

 悠が長い一足で万智子の前に立った。歩みが遮られ、否応なし悠を見上げることになる。悠は真面目な眼で万智子を見つめた。

「保証するよ。俺は健兄さんよりいい男になるぜ?」

「なんですって!」といおうと思ったのに、声にでなかった。そんな万智子の耳元まで悠はかがみ込んだ。

「だから俺にしなよ」

 万智子はとっさに身をもぎ離した。これはまずい。本当におかしなことになっている。心臓がどうにかなってしまいそう。

万智子は猛然と歩き出した。

「云っておきますけど、わたしはこれから新婦人になることにしましたので、勉強に復帰します」

 だが悠には彼女の薄い耳たぶが紅色に染まっているのが見えた。

「らしくなってきた」


 まだ恋ではないけれど、なんとなく目の前が開けていくような感覚に万智子は包まれていた。

 

 文興堂浪漫はここに生まれたばかり。                  完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浪漫文興堂 sumIF @getasan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ