天神橋の逢引

きょうじゅ

本文

 箕作みつくりじまと本土の陸地を渡すこの天神橋が架けられたのは、今から百八十年も前のことである。流されぬ橋を造る法は一つ。人が誰も知るように、橋を守る天神に若い娘を捧げてこれをはしひめとすれば良い橋を架けることができる。

 ただ、橋姫とは誰しもが成れるものではない。捧げられた娘が天神の意に添わなければ、橋はやはり流れ、そして民に災いが降ることととなる。

 百八十年前、託宣によって橋姫と選ばれたのは、当時のしまおさの末の妹であった。まだほんのあどけない十といくつかの娘が、託宣によって橋姫とされた。

「にいに。あたし、立派な橋姫になるよ。にいには、立派に島を守ってね」

 そう言って少女はその身を捧げ、橋は架けられた。以来、いちどの嵐にも負けることはなく、橋姫の宿る天神橋は箕作島のひとびとをおかへと運び、そして箕作島に富をもたらした。古くより巡礼の地として知られる箕作島は、旅人によってよく潤った。

 だが橋姫となった者は、常にその橋に留まり続けなければならない。月に一度ひとたび、満月の夜にのみ姿を現してひとびとと言葉を交わすことはできるが、橋から離れることを許されるのはただ六十年に一度、つまり暦が一回りするたび。この橋姫にとっては、かのえうまの中秋すなわち陰暦八月十五日の折のみであった。

 彼女が橋姫となって最初の六十年目、その兄である島長はまだ老いて健在であった。二人は島を巡り、ゆっくりと旧懐を温めた。

 だが、その身がただびとであった頃から百年を越える頃になれば、人間であった頃の橋姫を知る者などはもはや一人もなくなる。二度目の還暦に、橋姫はしかし自分の故郷の島を訪れることはなかった。ただ、近くを散歩しただけで、その一夜を終えた。歳月は、またさらに流れてゆく。

 やがて、時代さえもが変わっていった。夜の闇はエレキテルの力で照らされるようになり、島の近くには鉄道の駅が出来た。世は文明の開化を謳歌し、小さな巡礼島にもその影響は訪れようとしていた。

 満月の夜に橋姫にうやうやしく挨拶を向けるようなものは、もう古い年寄りでさえもいない。橋姫がそれをどう思っていたのか、それは誰にも分からない。

 やがて。天神橋は取り壊され、大きな別の橋が建てられることが決まった。コンクリイトというもので作られる橋は嵐などに負けることはなく、人間の娘を橋姫に立てる必要などももうなくなるのだという。

 橋姫がそれをどう思っていたのか。それは誰にも分からない。

 ただ、ある満月の夜。久方ぶりの気まぐれを起こした橋姫が橋の上に姿を現し、ただぼんやりと欄干から海を眺めていると、犬を連れた一人の青年がそこを通りかかった。散歩のようであった。

「にいに?」

 と、思わず橋姫は声をかけた。兄であるはずなどはなかったが、その姿は、あまりにもかつての兄と瓜二つであった。


「はて。お嬢さん、こんな夜中にひとりで橋の上で、何をしていらっしゃるのか」

「お嬢さんじゃない。わたしは天神橋の橋姫」

「……まさか。あなたが我が家の言い伝えの、あの橋姫なのか」

「島長の子ですか」

「はい。言い伝えが確かなら、あなたの兄の七代のそんに当たります」

「そう。家は健在なのですね。それはよかった」

 その時は、ただそれだけであった。

 ただ、次の名月の夜。青年はまた犬を連れてやってきた。そして、橋姫を呼ばわる。超常の身である。姿を見せていなくても、橋の上の出来事を覚知することはできる。大儀そうに、その身を現す。

 そして、ただ何ということもなく、青年と橋姫は言葉を交わす。

 橋姫は満月の夜に呼ばわれてあえて現れないということはなかった。ただ、その顔に感情の起伏は無かった。だから、橋姫が何をどう思っていたのか、誰にも分からない。

 そうして、橋姫にとって三度目の還暦、橋が建てられて百八十年目の十五夜がやってきた。そしてそれは、橋姫が見る最後の満月でもあった。橋の取り壊しは、半月の後と既に決められていた。

 橋姫は、その日をどう過ごすというつもりもなかった。ただ、青年はやはりやってきた。互いに、これが最後の機会であることを知っている。なんとなく、島の方には足が向かなかった。なれば、橋なのであるから行く先はもう片方しかない。おかへと向かうのだ。

 二人はどちらからともなしに、手を繋いで歩いた。

「にいに」

「はい、なんですか、橋姫」

 青年はいつからか、橋姫に兄と呼ばれるようになっていた。そしてそれをいとうこともなかった。

「あたしは、立派な橋姫だったかな」

「ええ、立派な橋姫でしたよ。百と八十年、よくお勤めになられました」

「にいに」

「はい」

「おんぶ、して。いつかみたいに」

 青年は子守唄を歌う。橋姫はその背中でまどろむ。

「にいに。にいに……」

「はい。ここにおりますよ」

 やがて。月は傾き、夜が終わろうとしていた。

 二人は浜辺に立ち、月の浮かぶ島影を並んで眺めた。島はただ美しかった。時は移り変わろうとも、島はただかつての彼女の故郷がそうであったのと変わることなく、美しかった。

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天神橋の逢引 きょうじゅ @Fake_Proffesor

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