夕方にかけて、激しい死者が

下村アンダーソン

夕方にかけて、激しい死者が

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 死者は夜遅くに屍に変わり、翌朝までにはやむだろう。


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 詳細に記す。死者は空から降る固形物で明確に人の形状を伴ったもの、屍は形を失って視認できなくなったものを指す。死者であれ屍であれ、地面なり屋根なり窓硝子なりに触れるなり跡形もなく消失してしまうため、どれだけ激しく降ったところで実害はないというのが、一般的な見解である。しかし視覚的な衝撃は絶大で、死者の日に気分を悪くしたり、頭痛に見舞われたりする人間は少なからず存在する。


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 死者の降る頻度は一年に数回ほどで、まったく降らない年も珍しくはない。いま降りはじめたのは今年最初の死者で、私はあらゆる予定を取りやめて自室でこれを書いている。死者の日を体験するのはこれで……たぶん二十回目かそのあたりだろう。正確に記録しているわけではない。私も昔から死者の日が苦手な口だ。

     

     *

 曾祖母がまだ若かった頃、三日三晩降りつづいた年があったというが、それが真実なのかは私には分からない。消えるのが追い付かずに街が埋め尽くされてしまうのではないかと怯えて逃げ出した者も数多くいた、近所の人間が軒並みいなくなったからこのあたりの土地はみんな私のものになったのだ、と続くのが定番で、この段になると私は完全に信じる気を失ってしまう。陽気な彼女のことは好きだが、こうも大法螺吹きだとさすがに付いていけない。


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 一階に降りると、曾祖母は椅子に揺られながら死者の降る庭先を眺めていた。これが私の最後の死者の日かもしれないね、と彼女は言うが、毎度のことなので私はまるで本気にしていない。死者の日には窓辺から決して離れようとせず、カーテンを閉めようとすると烈火のごとく怒る。普段はぼんやりしている癖に、死者だけは熱心に眺めたがる心情が、私にはまったく理解できない。


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 これがきっと最後の死者の日だからね、と例によって曾祖母が語り出す。そんなことないよ、大お祖母ちゃん、と宥めようとするが、素直に聞き入れたことは一度たりともない。曾祖母の法螺話に耳を傾けるのはいつも私の役目だ。だから今日も諦め半分で、私は彼女の傍らに腰を下ろす。曾祖母は満足げに笑う。


     *

 これが死者と呼ばれるようになった理由を知っているかい、と曾祖母は言う。私は深く皺の刻まれた顔を見返してかぶりを振る。じゃあ話してやろうかね、と彼女はまた笑う。


     ***


 最初は稀人と呼ばれていた。天使と言う奴も悪魔と言う奴もいたが、いちばん広く使われていた呼び名は稀人だった。故郷に帰ってきた者ではなく、来訪者だと思われていたんだね。まあ無理もない。ただ人の形をしているって以外のことは、ほとんどなにも分かっていなかったから。みな気味悪がって、あれをまともに観察しようとはしなかったんだ。だけどなかには例外もいて――私たちは物心ついたときからずっと、あれを見つめつづけていたんだ。私とシエナはね。

 シエナのことを話すのは、お前が初めてだ。本当は向こうまで持っていくつもりだったんだけど、やっぱり気持ちは変わるものだね。お前はいつでも私の話を聞いてくれた。だからこれは、私からの最後の贈り物だと思ってほしい。誰かに話しても構わないが――まあ、そのあたりのことはお前に任せるよ。私がいなくなったらもう、この物語はお前のものにしていい。好きに決めることだね。

 お母さんだった、とシエナが言い出したのが始まりだった。私たちは手製の望遠鏡で死者を――当時は稀人だ――観察していた。目の前を落ちていった一体の顔が亡くなった母親のものだったと、あの子が言うのはそういうことだった。お母さんお母さん、と叫びながらあの子が屋根から降りていくのを、ぼんやり眺めていた自分を覚えているよ。

 もちろん、もうとっくに消えた後だった。今さら確かめるすべなんかありはしない。後から後から降ってくる稀人を見つめつづけたけれど、あの子の母親らしきものを見つけることはできなかった。望遠鏡と言ったってたいした性能ではなかったしね。それでもシエナは譲らなくて、あれは絶対に母親だったと言い張った。私は半信半疑だったけど、とりあえずあの子に合わせて頷いておいた。うん、そうかもしれないね、と。お母さんはきっと、シエナに会いたかったんだよ、と。

 親友の私がその調子だったのに、街のみなはシエナの話を信じた。面白かったのは葬式の在り方がまるっきり変わってしまったことで、死体の足には分厚い靴を履かせ、胸元には派手な花を抱えさせるようになった。靴は高いところから落ちても平気なように、花は地べたで帰りを待ってる私たちがすぐに見分けられるように、というのが理由だ。今では単なる慣習と見做されているけどね。物事の始まりには必ず、理由があるものだってことだ。

 それ以来、人々は死者の降る日には必ず表に出て待ち受けるようになった。どこに誰が落ちてくるか予想しようとしたり、大きな布を広げて受け止めようとしたり、いろんなことをやったもんだったよ。馬鹿みたい? 私の目にだって馬鹿騒ぎに見えた。こっちに笑いかけただの、手を振っただの、お前は一族の誇りだと伝えてきただの……そんなことが起きるわけないと思うだろう? 私もそうだった。街じゅうみんな大馬鹿者で、シエナの大法螺に騙されているんだという気に、私はなっていた。早くこの熱が冷めればいいと、私は願っていたね。

 願いは、そう遠くないうちに叶った。熱狂が薄れたのは、本当に思いがけない形でだった。言い出しっぺだったシエナが死んだんだ。

 まったく唐突なことでね――さよならを言う暇もなかった。私が死んだらあなたが拵えた靴を履かせて、あなたが選んだ花を持たせてね、と頼まれていたけど、こんなにも早く死んでしまうなんて思ってなかったからね、どっちも用意していなかった。ただぼんやり葬儀に出て、柩に収められたあの子が埋められるのをただぼんやり見ていただけだった。後悔したよ――心の底からね。こんなことなら真面目に聞いておいてやるべきだった、と。だけどどうしようもなかった。想像さえできなかったからね。またね、と言って別れた友達が、次の日には向こう側に渡っているなんてさ。

 なにがまたね、だ。いかに大法螺吹きとはいえ、吐いていい嘘とよくない嘘ってものがあるだろ?

 葬儀が終わって外に出ると、「死者が来たぞ」とみんなが騒ぎはじめた。最初のうちはぽつり、ぽつりだったけれど、すぐに本降りになった。私は傘を広げて死者を防ぎながら、ひとりで家を目指して歩いた。別に傘なんか差さなくたって平気には決まっていたんだけど、そういう気分じゃなかった。誰の顔も見たくなかったし、誰にも触れられたくなかった。私はただ俯いて、真っ直ぐに歩いていった。

 家に帰りつくと、死者の日はいつもそうしていたように、私は屋根に上がった。どうして隣にシエナがいないんだろうと思いながら、いつまでも屋根の上に留まっていた。

 夕方ごろになると死者は激しくなって、空じゅうが死者に覆われているみたいな有様になった。シエナがこれを見たら喜ぶだろうとか、この中からならお母さんが見つかるかもしれないとか、いろいろなことを考えた。このときになってやっと、みんながシエナの話を信じたがった理由に思い至れたような気がした。気がしただけだけどね。

 不思議だったのはそのあとだ。部屋に戻ろうとしたとき、誰かが私を呼んだ。振り返るとそこにはシエナがいて、いつもみたいに悪戯っぽく笑っていた。設置したままだった望遠鏡の傍らから、私を見つめていた。

 信じていないね。私だって信じられなかったんだから無理もない。でも本当に、シエナはそこに立っていたんだ。

 帰ってきたの、と私は訊いた。すると彼女はかぶりを振って、これから行くとこ、と答えた。今から出発するの。少し遅くなっちゃうけど、どうしても時間が欲しくて。

 それはそうだ。今日死んだばかりの人間が、今日帰ってくるわけはない。すぐさま駆け寄って抱き締めてやりたかったけど、私は一歩もそこを動けなかった。触れたら消えてしまうんじゃないかって、それが怖ろしくてね。

 お願いを聞いてあげられなくてごめんね、と私は言った。シエナは頬を膨らませて、ほんとだよ、と怒った。でもそれからすぐに表情を緩めて、こう続けた。今度こそお願い聞いてくれたら、許してあげる。だけど大変なお願いだからね。守れる?

 一も二もなく、私は頷いた。シエナは満足そうに微笑んで、私に近づいてきた。

 出発が遅くなったから、到着も遅くなる。帰ってくるのも遅くなる。いつここに戻ってこられるか、私にも分からない。でも死者の日は必ず窓辺にいて、私を待っていて。どんなに遅くなったって、必ず帰ってくるから。そのときは絶対に絶対に、私を見つけてよね。分かった?

 分かった、と唇だけ動かして応じると、シエナはいつもみたいに軽く手を振って寄越して、そしてくるりと私に背を向けた。じゃあ、またね――そう彼女は言って、屋根から飛んだ。ぴょん、と身軽にね。羽が生えて浮かんでいったりはしなかったよ、私の見た限りではね。

 それきりだ。シエナはそうやって去り、今度こそなんの痕跡も残しはしなかった。

 あれから百回、私は死者の日を経験した。百回も、とお前は思うかもしれない。でも私からしたら、たった百回で、という気持ちなんだよ。強がっているわけじゃない。だってがらくたの望遠鏡で死者を観察しつづけていたあの頃から、私は本当に本当に我慢強かったんだ。お前もそれは、分かってくれるだろう?

     

     ***


 曾祖母の話が終わると、そうだね、と私は応じて、彼女の椅子を少し動かして窓辺に近づけた。彼女の耳に唇を寄せて、私はゆっくりと、「夕方から死者が激しくなるんだって、大お祖母ちゃん」

「そうか。じゃあ今度こそ、見つけてやれるかもしれないね。お前も私の隣で、立ち会ってくれるかい?」

 やむまでずっとここにいるよ、と私は答える。庭先に落下しては消える死者たちを、私たちはいつまでも見つめつづける。

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