傷を治療して普段着に着替え、深夜の公園でミラを洗った禄郎たちは、山梨の西桂の駅周辺の東横インに連泊した。

 今後のことは何も思い付かなかったし、誰もが休憩を必要としていた。特に奈緒の受けた衝撃は深かった。

 妙子の口から、麻衣が助からなかったことを聞いた奈緒は、「やあだあ、やあだあ!」と泣き喚いた。

 奈緒を慰めながら苦しげな顔をした妙子は、認可を求めるような眼差しを禄郎に向けてきた。その瞬間、自分が麻衣を斬ったことを告げようとしているのを察した禄郎は、静かに首を振った。目を潤ませた妙子は、きつく唇を噤んだ。

 奈緒は二歳の頃に止めていた、親指を咥える癖が戻ってしまった。奈緒は一人になると泣き喚いたので、必ず禄郎か妙子が室内に付き添った。

 奈緒が眠りに就いた二日目の深夜、禄郎と妙子は部屋の隅の二人掛けのテーブルに座っていた。妙子は意を決したような、重い眼差しを禄郎に向けてきた。

「どうしたの?」

 そう尋ねた禄郎に、奈緒に聞かれないように小声で妙子が囁いた。

「私、やっぱり」

「止めた方がいい」

 禄郎は即答した。

「でも」

 言葉を継ごうとした妙子に、禄郎は被りを振った。

「気持ちは痛いほど分かるけど、それは止めた方がいいって思うよ」

「どうして?」

「奈緒のことを最優先に考えようよ」

 そう言いながら、禄郎はベッドに眠る奈緒を顎で示した。妙子が奈緒に振り返った。

「今、一番苦しいのはあの子だよ。そのことを話してこれ以上苦しめても、何にもならないよ」

 禄郎が言うと、妙子は俯いてしまった。

「あの時、俺にママは言ったよね? あれはもう麻衣ちゃんじゃない、って」

 禄郎の言葉に、妙子は額に手を当てながら頷いた。禄郎は続けた。

「その通りだよ。麻衣ちゃんは、もう禍津軍になってたんだから。殺したのはママじゃない。あいつらだよ。だから、告げようとしてること自体が、違ってる」

 妙子が涙の滲んだ瞳を禄郎に向けながら、静かに口を開いた。

「本当にそうかな?」

「どういうこと?」

「鏡開きで見えないようにしたのに、でも家を辿られたよね? それ、麻衣ちゃんが辿って、そこに道ができたんだと思う」

 妙子が言うと、禄郎は怪訝そうな表情を浮かべて訊き返した。

「麻衣ちゃんが? 何で?」

「理由までは分からないけど。麻衣ちゃん、うちを知ってたでしょ? 禍津軍になって、もう意志がなければまだしも、本当はまだ何処かしらに麻衣ちゃんの部分が残ってて、奈緒に何か伝えたかったのかも」

 妙子の言葉に、禄郎はしばらく言葉を返せなかった。それは決して分かることのない疑問だった。

「それは、何処まで行っても、推測の域を出ないよ」

 禄郎に言えるのはそのくらいだった。額に手を当てた妙子の瞳は、溜まった涙で濡れ光っていた。妙子は溜息と共に口を開いた。

「私の中で、その可能性が消えないの」

 禄郎が無言でいると、震える声で妙子が囁いた。

「私の手が覚えてる。麻衣ちゃんの首を跳ねた時のあの、ぶつんって感触を。その感触が掌に残ってる限り、私の中から、麻衣ちゃんを斬った事実は決して消えない、って」

「違うよ」

 禄郎は呟いたが、その声は弱々しかった。

 窓外に拡がる西桂の街に霧雨が降り募る三日目の朝、ベッドの淵に腰かけた奈緒は、気遣わしげに窺う二人に向かって自らの考えを伝えた。

 奈緒の長い話を聞き終えた二人は、互いの顔を見合わせた。二人の表情には全てが徒労に終わったとでもいうような、虚脱の色が滲んでいた。


 鹿沼町の西の外れには、殆ど車の走らない山道が伸び、その行き止まりには急勾配の山肌を貫く石段が伸びていた。

 運転席からフロントガラス越しに覗く、その石段に目をやった禄郎が感じたのは、殆ど既視感めいた過去の記憶の数々だった。

「奈緒、一度この石段を潜ったら、もう後戻りできないんだよ。本当にそれでいいの?」

 助手席の妙子が、後部座席の奈緒に振り返りながら尋ねた。奈緒が頷くと、妙子が溜息を零した。

「麻衣ちゃんを殺すなんて、絶対赦せない。強くなって、絶対奈緒がやっつける」

 挑むような目で奈緒に睨まれた妙子が怯むのを感じた禄郎は、一体何故、何の罪もないこの二人が苦しまなければならないのかと思った。

 奈緒は両手を禄郎と妙子に繋がれながら、長い石段を上り詰めた。石段の先には漆塗りの重厚な木製の黒門があり、その門の先に黒い法衣を纏った、日に焼けて猿のような初老の小男が佇んでいた。禄郎は男に頭を下げると声をかけた。

「ご無沙汰してます、鳴滝さん」

 鳴滝と呼ばれた男は、目を細めて禄郎を見ながら甲高い声で答えた。

「ここから見送った時は、もう会うことはないと思ってたが」

 そう言いながら、鳴滝は視線を妙子と奈緒に移した。見知らぬ大人に威圧を感じ易い奈緒は、普段なら妙子の陰に隠れるところを、留まって鳴滝の視線に耐えていた。

 自らを叱咤するように踏み留まるその小さな姿は、ただひたすらに痛々しかった。

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撤退戦 江川太洋 @WorrdBeans

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