月の見えない曇った夜空だった。墨汁のような雲が温い風に流されて次々と形を変え、二人の法衣の裾をはためかせた。マンションの階段を降りながら、妙子が禄郎に手を差し出した。

「スマホ貸して。私が持ってる」

 禄郎からスマホを受け取った妙子は、法衣の懐に仕舞った。

 駐車場に人の姿はなかった。隠形咒を誦して自らに閾の気を纏わせた二人は、ミラにも隠形と結界護身法の咒を施した。車体に梵字の光を鈍く浮き上がらせたミラの運転席に禄郎が座り、妙子が助手席に座った。

 車中の二人は無言だった。妙子の横顔を窺った禄郎は、妙子が既に覚悟を決めていることを察した。懐かしい表情だった。

 フロントガラス越しの視界が、徐々に翳り始めた。やがて、細かい飛礫つぶてが当たったような、何かがガラスにぴちぴちと跳ねる音が響き始めた。この世に漏れた禍の残滓が、ミラに施した結界に弾かれて立てる音だった。

 平然とフロントガラスを眺めていた妙子は、突如助手席から響いた、手で窓を叩いたようなばんという大きな音に、弾かれたように振り被った。見ると助手席の窓ガラスに、くっきりと人の手形が張り付いていた。

 しきりに響くぴちぴちという小さな音に、ガラスを掌で叩いたような音が加わり、四方のガラスが張り付いた手形で一杯になった。べっとりと血糊が付いた手形を見た禄郎は、ワイパーを作動させた。ワイパーで血が薄く引き延ばされたガラスの表面に、人のものとは到底思えない、指の長過ぎる手形などが加わった。

 ミラはばんばんと掌で車体を叩いたような激しい音に覆われ、車体が揺れ始めたが、二人は無言だった。

 麻衣たちの住む団地に着く前に、胎の中に潜り込んでいた。いつの間にかこの世にしか留まれない人や車の姿が消え、暗灰色だった夜空に鈍く赤い光が差し始めた。

 禄郎はミラを見付けるなり飛びかかってきた初老の男の禍津軍を、躊躇なくき飛ばした。ミラが衝突の衝撃で大きく揺れ、轢かれた禍津軍はボウリングのピンのように高々と宙を舞い、護符の炎に焼かれて空中に四散した。

 それが合図だったかのように、路上に佇んでいた禍津軍が、次々とミラに飛びかかってきた。ミラは塊になった禍津軍に正面から突っ込み、路側帯に乗り上げかけたところをどうにか車道に引き戻した。

 頭から突っ込んだ肥った女性の禍津軍がフロントガラスに衝突して、柘榴ざくろのように弾けた顔面から炎を噴きながら、右下に滑り落ちた。その女を踏んだミラが、がくんと大きな縦揺れを起こした。

 ハンドルを取られて左に滑ったミラは、棒のような長身の禍津軍を、数メートル先の生垣に吹っ飛ばした。

「降りる!」

 老婆を轢いたミラが右にスリップする中、叫んだ妙子が太刀を手に飛び出した。妙子が先に降りたのは、最も隙のできる降車時に禄郎を援護する為だ。

 ミラを降りるなり抜刀した妙子が、男の禍津軍の首を瞬時に跳ね飛ばした。妙子の太刀筋たちすじは速過ぎて、禄郎の目には橙色の刀身が宙に尾を引く残像しか映らなかった。高々と宙に舞った首と、首を失った身体が同時に炎を噴いた頃には、妙子は団地に疾走しながら左の禍津軍を袈裟けさに斬って、左腕を丸ごと跳ね飛ばした。

 地を滑るように駆ける妙子の背中を視界に収めた禄郎は、妙子の左側に着くように、子供の禍津軍を轢き飛ばしながらハンドルを左に切った。

 ミラの右側面に回り込んだ妙子は、摑みかかってきた中年男の禍津軍の右足首を、地面すれすれに太刀を振るう追薙おいなぎで断ち斬った。急に足首を失ってつんのめった男の首を、斜め上に斬り返した太刀で宙に飛ばした。

 四つん這いで飛びかかってきた女の顔を、妙子が突きで貫いて空隙が生じた瞬間、禄郎は抜刀しながらミラから飛び降りた。

「ナウマク、サンバラギャテイビヤク、センダ、マカロシャナ」

 忿怒火焔咒を誦しながら禄郎が、妙子に顔を貫かれた女の首を横薙よこなぎに跳ね飛ばすと、妙子の太刀に貫かれた女の首が火球のように燃え盛った。

 黒鉄衆の剣術は、二人一組を基調としていた。人間と違って死を恐れない禍津軍は、斬られてもしがみ付いてくるので、二人で交互に斬って距離を保つ連携を取った。

 禄郎と妙子が最北端のA棟の生垣に差しかかると、前方と左右から三人の禍津軍が疾走してきた。禄郎が即座に、右の禿頭の禍津軍の腕を下から跳ね飛ばすと、妙子がその禿頭を袈裟で斜めに切断した。

 禄郎は正面から突っ込んできた女の禍津軍の左手首を小手で飛ばし、妙子が返薙かえしなぎで女の左足首を飛ばした。つんのめった女の頭部を、禄郎が上段から一文字に振り下ろして縦に両断させた。

 女の左右に捲れた頭部が炎に包まれる前に、妙子が左から飛びかかってきた若い男の大きく開かれた口を、刃で横薙ぎに受け止めた。口から上の頭部を宙に飛ばした男の身体は、蛙のように四肢を折り曲げたまま空中で炎を噴いた。

 二人は即座にミラの付近を制圧したが、二人目がけて次々と禍津軍が殺到してきた。路上だけではなく、生垣越しに覗くA棟の方々の窓からずるりと這い出てきた群れが、四つん這いで壁を伝って流れに加わってきた。既に住人の大半が魂を吸い尽くされ、禍津軍に変じたと見て間違いなかった。

 団地は北から南へ縦に並ぶ四つの棟が、左右二列に並行していた。二人のいるA棟から見ると、麻衣たちの住むG棟は、左隣の団地の列の、手前から三つ目にあった。駐車場を斜め左に突っ切るのが一番の近道だが、駐車場は切り拓けないほど禍津軍が密集していた。

 二人は瞬時にA棟の右脇を疾走して、B棟との間を目指した。疾走する禄郎は忿怒火焔咒を誦しながら、前方に立ちはだかる巨漢の禍津軍の首を、左から右に横に薙ぐ逆風ぎゃくふうで宙に跳ね飛ばした。

 A棟の裏口から、二人の禍津軍が飛びかかってきた。妙子が右の男の禍津軍の右肘を袈裟で斬り下ろすと、禄郎が即座に左斜め下から太刀を跳ね上げる車斬くるまぎりで男を斬った。右の男の上半身が炎に包まれた瞬間、妙子は左の若い男の喉を突きで貫いた。禄郎がその男を袈裟で斬った隙に、妙子が太刀を引き抜いた。

 A棟の角を左折して、B棟に挟まれた駐車場に踏み出した禄郎の足が止まった。B棟の二階の一室から、背中に羽根を生やした子供が、ぶぶぶぶと羽音を立てながら一直線に飛びかかり、前方と背後から同時に二人の禍津軍が疾走してきた。

 背後を振り被りながら振り下ろした妙子の太刀が、若い女の頭を縦に両断した。禄郎が飛んできた子供の首を車斬りで跳ね飛ばすと、今度は妙子が前から突進してきた中年男を袈裟で斬った。

「あっち!」

 左の団地の列に続く駐車場ではなく、前方のB棟の右脇を妙子が太刀で示して叫んだ。駐車場から十人近い禍津軍が、二人目がけて殺到してきたからだ。

 先陣を切ってB棟の脇を駆け出した禄郎は、過ぎざまに四つん這いの禍津軍の首を逆風で跳ね飛ばした。

 B棟を囲う生垣から突然飛び出した女にしがみ付かれた禄郎が、女の首に刃を当てて一気に引く隙に、疾走してきた男が禄郎の首目がけて飛びかかってきた。瞬時に首に翳した左の小手に噛み付いた男は、小手の護符で口腔をぼこぼこと泡立たせると、炸裂音と共に頭部を四散させた。

 飛び散った頭部と火花で視界を塞がれた禄郎は、男の鋭利な爪で左肩を斬られた。筋肉が収縮するように輪が凝縮した帷子の力を以てしても、鎖骨の下を斬られるのを防げなかった。痛みより火を当てられたような熱を感じながら、禄郎は次に繰り出された腕を斜め上に斬り飛ばし、返す横雷刀よこらいとうで男の首を宙に飛ばした。

 手を伝う血でつかが滑り、斬る速度が鈍り始めた。斬る度に瞬き一つか二つ分の遅れが生じ、その蓄積が禍津軍の接近を許し始めた。妙子が突きを多用し出したのは、それだけ間合いを詰められた証拠だった。斬りからさばきに太刀が費やされ始め、たまらず二人は生垣で隔てられた道路まで撤退した。

 両手が羽根になった禍津軍に空中から飛びかかられた妙子は、咄嗟に腹を突きで貫いた。勢いで身体が鍔まで貫かれた禍津軍の全体重が圧し掛かった妙子が、大きく後ろによろめいた。禄郎は立ち塞がった二人の禍津軍の四肢を次々と斬り飛ばしたが、妙子の援護に回れなかった。

 妙子の両手が塞がった隙に、肥った男が妙子の首に噛み付こうと口を開けて突進してきた。妙子は左手で小太刀を抜いたが、左手首を肥った男に噛まれて悲鳴を放った。妙子は右手に持ち替えた小太刀で肥った男の首を掻き斬ったが、さらに突進してきた女の爪で右肩を抉られた。目に焼き付いたその鮮血の赤さに、禄郎の頭が沸騰した。

 揉み合っていた禍津軍に左肩で体当たりしながら、強引に袈裟で斬った禄郎は、妙子との間にひしめく数人の禍津軍に頭から突っ込んだ。袈裟と一文字の力業で、二人の禍津軍を斬り捨てた禄郎は、三人目の女の禍津軍の胴を突きで貫いた。女の禍津軍は胴と口から炎を噴き上げながら、両手で太刀にしがみ付いた。禄郎は太刀をさらに押し込みながら、忿怒火焔咒を誦した。

「ナウマク、サンバラギャテイビヤク、センダ、マカロシャナ」

 咒を誦す度に炎の勢いが増し、禄郎はさらに突っ込んできた痩せた男を、女ごと突きで貫いた。串刺しにされた二人の禍津軍を押しながら咒を誦すと、二人の禍津軍が内から爆発して肉片を宙に四散させた。

 禄郎は次の禍津軍の塊に突っ込んだ。方々を噛まれるのも構わず太刀を振るい、周囲の禍津軍の首や四肢を次々と宙に跳ね上げた。

「パパ出過ぎてる!」

 妙子の叫びも禄郎の耳には届かなかった。禄郎の頭にあるのは、眼前の禍津軍を屠ることだけだった。

 強引に三人の禍津軍を斬った隙に、禄郎は幼女に太腿を噛み付かれた。幼女の頭頂を太刀で突き刺した隙に、別の男に右の上腕筋を噛まれた。右腕全体を激痛が貫き、禄郎は気力が萎えかけた。禄郎は幼女の頭頂から引き抜いた太刀で男の首を掻き斬り、左手に握り直した太刀で飛びかかってきた女を逆風に斬った。

 斬られた女が四散させた炎の向こうに、飛びかかってくる中年女を見た禄郎は死を覚悟した。身を挺して飛び込んだ妙子が、中年女の首を跳ねながら喚いた。

「何してるの! 頭冷やせ!」

 その叱責で禄郎は我に返った。状況を把握した途端、禄郎は胸が抉られるような悔恨に襲われた。

 いつの間にか、禄郎はB棟とC棟を挟む駐車場の中央まで戦線を押し上げていた。四方から包囲されるこの場所は、最悪の位置だった。B棟からもC棟からも、禍津軍の群れが押し寄せてきた。

 二人は再びB棟に駆け戻った。その途中で突然、妙子が裏口から真っ直ぐ伸びた、B棟一階の廊下に飛び込みながら叫んだ。

「電話鳴ってる! 入口塞いで!」

 裏口に立ちはだかった禄郎は、通路に遮られて一人ずつしか入れない禍津軍を次々と屠った。振り返る余裕はなかった。切迫した妙子の怒鳴り声が切れ切れに響いてきた。

 猿のような顔の禍津軍を禄郎が袈裟で斬ると、背後から妙子の怒鳴り声が飛んできた。

「車出して! 奈緒が危ない!」

 禄郎は瞬時に踏み出して右の女に斬りかかると、左の隙間から滑り出た妙子が、一文字で男の頭蓋を縦に割った。

 禄郎は生垣に頭から突っ込んだ。反対側の道路に突き抜けるなり、左の女を横雷刀で斬り、右の老人を袈裟で斬った。

 妙子が続いて生垣から飛び出た瞬間、禄郎は一直線にミラに疾走した。右から四つん這いで飛びかかった中年女の首を、下から跳ね上げた太刀で宙に飛ばした。

 一瞬背後を振り返ると、禍津軍を懐に入るのを許した妙子が、鍔迫り合いの不利な形で男の首に刃を押し当てている最中だった。禄郎は妙子の背後から突進してきた、豚面の禍津軍の首を一刀で薙ぎ飛ばした。

 妙子が男の首筋を刃で薙ぐのを見届けた禄郎は、再びミラに疾走した。四つ脚で追い縋る禍津軍を袈裟で斬った禄郎は、ミラの運転席に飛び乗ってキーを捻った。

 ミラをバックで急発進させながら、禄郎はハンドルを右に切って後部を妙子に向けた。速度を減じずに左に回った妙子が助手席に飛び込むと、ドアを閉める前に禄郎はアクセルを踏み込んだ。ノブを両手で握った妙子は、一気にドアを閉めた。

「駄目だ、助けられなかった」

 ハンドルを繰りながら禄郎が叫ぶと、妙子が即座に怒鳴り返した。

「仕方ないの、奈緒が先」

 妙子が言い返した瞬間、ミラが老人を轢き潰して車体が縦に跳ね上がった。轟音を立てながら着地した途端に、全裸の男がバンパーに衝突して今度は激しく左に揺れた。

 車体を立て直しながら禄郎がバックミラーに目をやると、生垣の切れ目から禍津軍が次々と路上に溢れ出てきたが、ミラに離されてみるみる小さくなっていった。

「奈緒は何て?」

「囲まれたって。窓も顔だらけで、パパだから開けろって、玄関のドアをばんばん叩かれてるって」

「まずいぞ!」

 禄郎は叫んだ。禍津軍の圧に押し負けて、結界が焼き切れる可能性があった。ミラの結界が持つかも危なかった。

「何で家に殺到してる?」

 禄郎が尋ねた。家を出た時には周囲に禍津軍はいなかったし、気配を辿られた感覚もなかった。

「分かんない。前に家まで来られた時に、筋道を付けられたのかも」

 禍津軍には、一度付いた筋道を辿り易い習性があった。その筋道がある地方では、ナメラ筋などと称された。魔の這う道筋だった。正面を見据えた妙子が言った。

「このまま胎の中を突っ切って」

「分かってる」

 禄郎は反射的に答えた。地脈を辿って道を何度も曲がる筋違えを行っている猶予などなかった。それに自宅に禍津軍が殺到しているなら、胎の中で決着を付ける以外になかった。

 時折突進してくる禍津軍を轢きながら、家に面した通りへミラを右折させた禄郎は、家屋の稜線越しに覗く白いマンションを注視した。マンションの周辺には、虫のようにひしめく禍津軍の気配と、固形物のように凝縮した瘴気が充満していた。

 禄郎が狭い駐車場に乗り入れる間際に、ミラから妙子が飛び降りながら抜刀した。梵字から放たれる赤い光芒が宙に軌跡を描き、二人の禍津軍の四肢や首を次々と跳ね飛ばした。

 妙子が運転席の援護に回った。エンジンを付けたままミラから禄郎が飛び出す間に、突っ込んできた肥った男を妙子が逆袈裟に斬ると、斜めにずれた男の上体が路面に落ちながら火を噴いた。

 妙子の右脇をすり抜けた禄郎は、階段に疾走しながらすれ違った老婆を一文字に断ち斬り、階段を駆け下りてきた若い女の腹を貫いた。禄郎が刺さった刀ごと女を路上に引き摺り出すと妙子の太刀が一閃し、女の首を数メートル先の植え込みに跳ね飛ばした。

 妙子が狭い階段を駆け上がり始めた。禄郎はすぐ後ろに続いたが、妙子に遮られて助太刀を振るえなかった。

 階段は下の側に不利な空間だった。禍津軍に階下目がけて飛びかかられると、突いても全体重を受け止めることになった。

 妙子は追薙ぎと返薙ぎで足首を狙ったが、それでも頭から禍津軍に突っ込まれて、階段から転げ落ちかけた。妙子が慌てて後ろ向きに階段を降りると、今度は長髪の女が頭から飛び込んできた。妙子はその眉間を突きで貫いたが、女に飛び込まれて階下の床に一緒に転がった。

 禄郎は一階の通路を駆けてきた短髪の女を袈裟で斬った。その間に立ち上がった妙子は、燃える女の顔を足で踏んで太刀を引き抜きながら叫んだ。

「下からだと、どうしようもないよ!」

 二階に行くには、その階段を上る以外に道がなかった。

「俺が行く」

 禄郎は階段に駆けながら、太刀を鞘に収めて小太刀を抜いた。階段の折り返しを女の禍津軍が曲がってきた時には、二段抜かしで駆け上がって折り返しに達した。禄郎は小太刀で女の喉を掻き斬ると、階下に投げ捨てた。

 その途端、二階の通路から四つん這いの禍津軍が頭から飛び込んできたが、身を屈めた禄郎が下から投げ、禍津軍は頭から折り返しの壁に激突した。首が九十度曲がって床に仰向けに倒れた禍津軍の喉を、禄郎は小太刀で貫いた。

 次に飛びかかろうとした若い男の右手首を摑むと、肘を極めて逆に折り曲げながら右の壁に顔面を叩き付けた。折り返しに頭から転がったその禍津軍の首を、駆け上がってきた妙子が小太刀で掻き斬った。

 折り返しから二階に駆け上がった禄郎は、あと数段で通路に達する辺りで、小太刀から太刀に持ち変えた。

 二階の通路に達した瞬間、摑みかかってきた男の右手首を下から跳ね飛ばし、返す袈裟で男の首を斜めに跳ね飛ばした。

 自宅のある右の通路から、初老の男が両手をかざして襲いかかってきた。追薙ぎで男の右足首を断ち、右足が消えて身体が傾いだ男の頭蓋を斜めに断ち割ると、切断面から燃える脳髄が床に零れ落ちた。

 あと一部屋まで迫った。自宅のドア前に四体の禍津軍がひしめいていた。

 一番手前の骸骨じみた男は、袈裟に斬り捨てた。その右隣の小男は返す逆風で、手摺りの向こうに首を跳ね飛ばした。驚いたように目を剥いた男の首が、炎に包まれながら落下していった。首のない身体が異様な緩慢さで膝から崩れ、その身体を超えて、口腔に牙を生やした禍津軍が飛びかかってきた。禄郎は左下に上体を沈めながら右上に太刀を跳ね上げ、下から禍津軍の鼻面を薄く削ぎ飛ばした。顔全体を切断面にした禍津軍は炎を噴きながら禄郎を飛び越え、妙子の太刀に縦に両断されて燃え尽きた。

 結界に弾かれるので、突き出した両手を忌々しそうに扉の前で止めた子供の禍津軍が、禄郎に気付いて振り返った。

 黒い瘴気を纏ったその顔を見た禄郎は、時間が遅延した感覚に捕われて、頭から血の気が引くのを感じた。

 振り返ったその幼女は、麻衣だった。

 温和そうな麻衣の狸顔は、黄色く濁った目で禄郎を睨んで歯を剥く、獣じみた凶相と化していた。

「なんて」

 それ以上言葉が続かなかった。禄郎は麻衣から後退り始めた。右手の太刀が急に重く感じられ、持ち上げるどころか取り落としそうになった。

 背後から妙子が、後退る禄郎の肩に手をかけた。禄郎が振り返ると、顔面を返り血に染めた妙子が禄郎を押し退けて麻衣の前に立った。呆然とする禄郎の前で、妙子は手にした太刀で躊躇なく麻衣の首を跳ね飛ばした。

 ボールみたいに通路に弾んだ麻衣の頭部が炎に包まれる光景が、禄郎の目にはっきりと焼き付いた。殆ど働かなくなった頭で、俺はこの先何年もこの光景を悪夢で見ることになる、と禄郎は思った。

 通路に殺到してきた禍津軍に妙子が応戦し始めても、禄郎はドア前の通路で硬直していた。モニターの映像のような遠さを感じながら眼前の光景を眺めていた禄郎の耳に、妙子の叫び声がようやく入ってきた。

「あれはもう、麻衣ちゃんじゃなかった」

「えっ?」

 そう呟いて絶句した禄郎に、飛びかかった男を一文字に両断しながら妙子が叫び返した。

「私は奈緒を護る為なら、何だって斬る。早く、危ないんだよ! 突っ立ってないで、さっさとドア開けて!」

 その金切り声で我に返った禄郎は、二、二、三の拍子でドアをノックした。即座に奈緒の叫び声が返ってきた。

「誰ッ?」

「田中先生だよ、開けて!」

 禄郎が叫ぶと、すぐに鍵が外されて泣き腫らした奈緒がドアを開けた。飛び付いてきた奈緒を家の中に戻しながら、ドアから上半身を突き出した禄郎が叫んだ。

「妙子!」

 弾かれたように背後を振り返った妙子が、口の端を吊り上げて一瞬笑みを浮かべた。その隙に前から飛びかかってきた老人を、振り返りながら逆袈裟にほふった妙子は、再び反転してドアに駆け出した。

 左手でドアを開けながら、駆けてくる妙子の顔のすぐ右脇に太刀を突き出した禄郎が、追ってきた猿のような禍津軍の右目を貫くと同時に、妙子が頭からドアに突っ込んできた。次の瞬間、歯を剥いて飛びかかってきた女の眼前で禄郎がドアを閉めると、途端に女が衝突したドアが、だんという大音量を発して震えた。

「ママ!」

 血塗れの妙子に、泣きながら奈緒が飛び付いた。妙子は太刀を左手に持ち、右手で奈緒の頭を撫でた。

「ママ大丈夫? いっぱい血が出てるよ!」

「大丈夫。奈緒、すぐ逃げるよ」

 妙子は答えると、妙子の身体をすぐに離した。妙子は土足で家に踏み入ると、一番奥の夫婦部屋の前で足を止めた。窓はカーテンで覆われていたが、禄郎は窓に張り付いた禍津軍の存在と、圧に押された結界が切れる寸前までたわんでいるのを感じ取った。

「パパ、ヤバいよ! 結界がぱんぱんに張ってる!」

「どう奈緒を連れてく?」

 禄郎の質問に、妙子が即答した。

「おんぶ紐あるでしょ。パパが背負って。私はリュック背負うから」

 妙子は答えながら、部屋の隅の登山用リュックを慌てて背負った。

 禄郎は妙子に教わったおんぶ紐の使い方を、今も覚えていた。子供部屋の収納から出した藍色のおんぶ紐を床に拡げた禄郎は、奈緒に声をかけた。

「奈緒、靴履いてこっちおいで」

 玄関でスニーカーを履いた奈緒が、禄郎の元に駆け寄ってきた。屈んだ禄郎は奈緒の頭を撫でながら言った。

「奈緒、よく一人で頑張った。偉いぞ。あと少しだから、もうちょっと辛抱してくれ」

 奈緒が唇をきつく結んで頷いた。禄郎はおんぶ紐の上に寝かせた奈緒を左右から布で包むと、紐の根っ子を摑んで奈緒を背負い、紐を腹部に巻き付けて蝶結びで結んだ。禄郎が背負っていた頃より、遥かに奈緒は重くなっていた。

「きつい?」

「平気」

 禄郎の背に密着した奈緒の返事はくぐもっていた。具合を確かめるように軽く何度か跳ねた禄郎は、寝室に向かって言った。

「おんぶしたぞ」

 即座に妙子の声が飛んできた。

「なら行って! ここは護るから」

 奈緒を背負った禄郎が子供部屋を出ると、視界を確保しようと妙子が、閉ざされたベージュのカーテンを左右に引き開けた。その途端、禄郎の背中から奈緒が耳をつんざく悲鳴を発した。

 窓一面に、明らかに生きた人間の顔色ではない無数の顔が敷き詰められていた。どの顔もガラスにへばり付いて、歯をがちがちと鳴らしていた。ガラスの表面が液体のように波打ち、地鳴りのように家全体が鳴動した。禄郎は背中の奈緒に叫んだ。

「奈緒、何があっても背中から離れないで! 全力でしがみ付いて」

「怖いよおッ!」

 叫ぶ奈緒に、禄郎は叫び返した。

「目を閉じて! 背中に顔を伏せて」

 禄郎は言い返すと、一瞬だけ寝室で青眼せいがんに太刀を構えた妙子を振り返った。妙子が忿怒火焔咒を誦す度に、全身に纏った防具と太刀が呼吸をするように淡い橙色の光を明滅させ、禄郎は妙子の体内で練られて膨れ上がる気の循環を感じた。

 禄郎はドアを蹴り開けた。ドアに踏み入った女の首を袈裟で飛ばして廊下に出ると、背後で窓ガラスが大破する大音響が響き、奈緒が悲鳴を上げた。

 禄郎は振り返る暇もなかった。通路から禍津軍が次々と殺到し、太刀を振るう以外のことはできなかった。背後からすさまじい揉み合いの音が響いてきた。

「妙子!」

 眼前の男を斬りながら禄郎が叫ぶと、妙子の悲痛な叫びが返ってきた。

「行って! 行け!」

 奈緒がしがみ付くせいで太刀筋が遅れ、禄郎は間合いを半歩詰められるのを許してしまった。その半歩は、生死をまたぐ半歩だった。禄郎は歩を踏み出せず、逆に足を引いての袈裟が増え、廊下の奥に追い詰められつつあった。

 逆さに壁を伝ってきた蛙じみた禍津軍の口を、上から太刀で貫いた拍子に、がら空きになった胴体目がけて、眼鏡の男が頭から突っ込んできた。振り上げた禄郎の踵に顔から突っ込んだ男の鼻が九十度曲がり、振り下ろされた太刀で縦に頭蓋が両断された。

 左から伸びた女の手が腹部に巻かれたおんぶ紐に引っかかり、禄郎は一瞬動転した。手摺りの隙間に太刀が引っかかった禄郎は頭突きで女の鼻を潰したが、伸びた女の爪で顔を抉られ、額から顎に一気に熱が走った。禄郎は引き戻した太刀で女の目を貫いた。

 顔が生温かい液体に覆われ、傷口から次々と血が滴る感触があった。目を塞がれることが何よりも怖かった。

 柄を握る左手に力が入らない状態で、禄郎はどうにか眼鏡をかけた男を袈裟に斬ったが、右隣から突っ込んでくる、耳まで口が裂けた女の姿を視界に捕えた。

 間に合わない! 

 禄郎は胸の内で絶叫した。次の瞬間、ズタボロになった法衣を纏った妙子が逆風で女の首を跳ね飛ばすと、赤い光芒を煌めかせながら通路に突進した。

 下がりながらの袈裟で背後の敵を屠り続けた禄郎は、妙子が階段まで戦線を押し上げた瞬間に、階段を一挙に駆け下りた。

 下りは上りよりも遥かに楽だった。駆け上ってくる男の顔を突きで貫いてから蹴り落とすと、たちまち折り返しに達した。一階の通路から駆け上がってきた女に、逆に禄郎は飛びかかって一文字で頭蓋を両断しながら通路に着地した。

 一階の左の通路から走ってきた青い顔の男を袈裟で斬り、右の通路から飛びかかった女の左肘を天井に跳ね飛ばし、返す逆袈裟ぎゃくけさで女を斬った禄郎が、階段付近の通路を確保すると、その脇を階段から妙子が駆け抜けていった。

「援護して!」

 妙子の叫びを聞いた禄郎は、ミラに突進した妙子の背後に続いた。妙子が左から襲いかかってきた女の首を跳ね飛ばし、禄郎は右から摑みかかってきた老人の喉を貫いた。

 妙子がエンジンをかけたままの、ミラの運転席に飛び乗った。

「後ろ乗って!」

 突進してきた男の腹を座ったまま太刀で貫いた妙子が叫んだ。ドアを閉めた妙子が、僅かでも乗り易いようにミラをバックさせた。四つん這いで地を滑る全裸の女性に追われながら、引き剥がすように後部座席のドアを開けた禄郎が、奈緒を天井にぶつけないように床すれすれに頭から飛び込むと、妙子がミラを急発車させた。

 座り直した禄郎が、伸ばした右手でドアを閉めると、運転席の妙子が大きな溜息を付いた。

「奈緒、大丈夫か?」

 おんぶ紐を外しながら禄郎が尋ねると、奈緒は大声で泣きながら頷いた。禄郎が背後を振り返ると、路上に禍津軍の群れが溢れ出てきたが、追い付けるはずがなかった。

 掌でガラスを叩いたような、ばんという音が響き、奈緒が身体を竦ませた。涙の滲んだ目で、フロントガラスに張り付いた手形を食い入るように凝視していた奈緒は、車がばんばんと手で叩いたような轟音に包まれ出すと、耳を塞いで嗚咽し始めた。

「もうやだよおッ、怖いよお!」

「大丈夫だから。もう終わったから」

 奈緒を抱きしめた禄郎は、泣きじゃくる奈緒の耳元に何度も囁いた。バックミラーに映った、自分が奈緒を慰めたそうに歪んだ妙子の顔を見た禄郎は、安全なところに出たら運転を変わるから、と妙子に告げた。

 全身の力でしがみ付いてくる奈緒の温もりと身体の震えを感じながら、この命がもし奪われたらとリアルに想像した禄郎は、急に全身が細かく震え出した。

「パパも怖かった。でも安心して。危ない瞬間はもう越えたから」

 禄郎は奈緒の耳元に囁き続けた。妙子が筋違えで赤い空に覆われた胎を脱した。

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