翌日の七時前、普段通りに妙子が奈緒を起こした。眠そうに目を瞬かせて食卓に着いたパジャマ姿の奈緒は、卓上の一人分しかない目玉焼きとトーストを眺めて妙子に尋ねた。

「あれ、ママとパパの分は?」

「パパとママはね、今日は一日ご飯抜きじゃなきゃ駄目なの。奈緒はいつも通り、好きなだけ食べていいからね」

 禄郎が体調不良で休むと会社に電話すると、妙子も奈緒を休ませると幼稚園に電話した。常に貴重品や着替えやなどを詰めている登山用リュックの中身を、妙子はもう一度確認した。

 密教の行に従って、順番に丁子ちょうじ風呂に入って身体を清めた二人は、寝室で結跏趺坐けっかふざをして、神会印しんえいんを結びながら冥合満願咒めいごうまんがんじゅを三百遍誦した。

 奈緒にビーフシチューを作り置きするのに、一端行を中断した。再び寝室に籠ると、二人は懐抜きで指先を薄く切り、全ての武具に血を吸わせながら、八幡神を鋼に宿らせる降火界咒こうかかいじゅを誦し続けた。

 行で観ずる力が増した禄郎の目には、降火界咒を誦する度に、黒くくすんだ表面の内から橙色に輝く鋼の気の流れが映った。それが鼓動のように脈打ち、刻まれた梵字を炎の色に浮かび上がらせた。

 夜も二人は、奈緒の夕食の準備で行を中断した他は、ずっと寝室で六縛印ろくばくいんを結んで結界護身法けっかいごしんほうを誦し続けた。

 午前零時過ぎ、静かに肩を揺すられて眠りから覚めた奈緒は、ベッドの淵に立つ二人を見て飛び起きた。

 禄郎と妙子は黒鉄衆の戦装束を纏っていた。手を小手で覆い、足首に脚絆を巻き、纏った黒い法衣の襟から銀の鱗に見える帷子を覗かせ、太刀と小太刀をいていた。

「ゲームのキャラみたい!」

 目を輝かせた奈緒は大声を上げた。妙子は屈んで奈緒の顔を覗き込むと、奈緒の肩に手を置いて言った。

「いい? 奈緒、これからパパとママ、家を出るから。パパかママが開けてって合図するまで、何があっても絶対に家のドアを開けちゃ駄目。悪いものが入ってくるかも知れないから」

 奈緒はかつてない妙子の真剣な口調に飲まれたらしかった。目線が泳ぎ、眼前の妙子と禄郎の間を頻繁に行き来した。

「合図って?」

「とんとん、とんとん、とんとんとんって、二、二、三でノックするから、ドアを開ける前に必ず、誰って訊いて。したらパパかママが、田中先生って答えるから。そしたらドアを開けて、パパとママを入れて」

「えっ、パパかママって答えた場合は?」

「それはパパでもママでもないから、絶対開けちゃ駄目。田中先生って答えた時だけ開けて。これは、奈緒だけが知ってる合言葉だから」

 奈緒が頷くと、妙子は自分のスマホを奈緒に渡した。

「それと、パパとママが外に出てる間、もし何かが入ってきそうになったら、すぐ電話して。したら、すぐパパとママが戻るから」

 奈緒が強張った顔で玄関まで着いてきた。二人を見上げる奈緒の瞳に滲む涙を見て、禄郎は奈緒の傍にいたいという激しい思いに捕われた。奈緒が妙子の手を引っ張ったので、妙子は屈んで奈緒を覗き込んだ。奈緒は気丈に涙を堪えながら言った。

「絶対に絶対に帰って来て」

 一瞬瞳を潤ませた妙子は、奈緒の頭を撫でながら答えた。

「約束する。パパもママも、麻衣ちゃんたちを連れて必ず帰ってくるから」

 頷いた奈緒は、禄郎に向かって手を伸ばした。禄郎は掌にすっぽりと覆われるほど小さなその手を握り締めた。奈緒が禄郎を見上げながら言った。

「パパも」

「分かった。パパたちが出たら、鍵閉めて」

 禄郎が言うと、奈緒が頷いた。見守る奈緒を残して禄郎が静かにドアを閉めると、中から鍵をかける音が響いた。


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