終章 花咲く道で
ハッ、として恭司は飛び起きた。
国立の学園通り。広い歩道にシートを敷いて、恭司と季里だけが座っている。
「陣内たちはどうした?」
言ったあとで、つい辺りを見回したが、陣内は現われなかった。
いや、たしか、陣内と美砂は、飲み物の補充に行っているはずだ。
「どうしたの? 恭司」
季里が、心配そうに訊いた。
「いや、なんでもない。……あれは、夢だったのかな……」
恭司のつぶやきに、季里は小さく首を振った。
「夢じゃないよ。それに、これも夢じゃない」
「分かるのか、季里」
「うん。何が起きたのか、みんな覚えているよ。ありがとう、恭司」
こくん、と季里は頭を下げた。何を考えているのか、その表情からは見て取れなかった。
「でもね、ひとつだけちがうことがあるの。……私たちは、もう、大学生なんだよ」
恭司は、高二の冬の、あの雪の日からきょうまでの日々を思い出そうとしたが、思い出せなかった。何ひとつ。
「じゃあ何か。俺たちは、受験生を一気に越えて、大学生になっちまったって言うのか?」
「そうだよ」
「俺の決断って、いったい何だったんだ? あの時、俺は必死だったんだ。それがなんにもなしか」
「そう。私たちがなくさなければいけなかったものは、それだったんだよ」
「楽して大学へ入るのが、か?」
「考えてみて、恭司。私たちの、飛ばされてしまったものがなんなのか」
恭司は考え込んだ。
ふたりは一度、ばらばらになって、雪を迎えた。そして恭司は、季里に再会するため、必死で『自分の家』へ向かい、季里の死に立ち会い、そして――。
「俺は、季里が自分らしいと思う自分で、目覚めて欲しかった。それはどうやら、かなえられたみたいだな」
「うん。ありがとう」
季里は微笑んだ。
「でもね、恭司。それは、とてもたいへんなことだったんだよ。私も、考えないといけなかったんだから。――どういう私に生まれ直すか、って」
恭司は改めて、季里を見つめ直した。
ああ……これは確かに、恭司の知っている季里だ。神に祈った通りの季里だ。
「私、更紗がどうしてああなってしまったのか、分かるような気がする。あの人には、人間としての時間がすくなすぎたんだね、きっと」
「じゃあ、俺たちも、あんな風になる可能性があるってことか」
「いや?」
「いやだね、俺は」
「じゃあ、きっと大丈夫だよ。そう思わなくちゃ。だって、――」
季里が何を言いたいのか、分かる気がする。
神さまの苦労は、何も知らない事にあるのだ。
恭司は一度だけ、神さまになった。季里の再生をかなえた。
それは、苦しい決断だった。恭司が知っている、病弱で、控えめで、けれど『力』を持っている季里のまま目を醒まさせるか、『普通の女の子』の季里になれるか……そして恭司は決めた。
季里自身が望むような季里で、目覚めるように。
それがこれならば、なんの問題もない。
季里は、頭の上を見上げた。
「桜だね」
柔らかな白に花はかすみ、どこまでも続くかと思われた。
「更紗にも、見せて上げたかった……」
季里は、うつむいて、つぶやいた。
「更紗、かわいそう。もっと、しあわせに……ふつうに生きていられたらよかったのにね……」
季里の頬を、涙が伝った。
「覚えているのか? 何があったのか」
恭司がきくと、季里は、微笑んだ。
「うん。知っているよ。私が知らないことまで。みんな、桜が教えてくれた」
降りしきる花びらの中で、季里は静かに話していた。
「たいせつな人のことは、忘れないよ、絶対に。恭司のこと、美砂たちのこと、……更紗のことも。――更紗がここにいられたらよかったのにね」
「更紗は幸せじゃない、ってことか?」
「わからない。ここは、作りなおされた世界だもの。私はこうしているし、恭司もいる。でも、更紗はどこにいるのかわからない。どんな子になっているのか、しあわせなのかも……。私たちだって、分からないね。しあわせなのかどうか」
「そうだな」
「私は、むかしの私じゃないような気がするの。『力』が消えていくみたい……ほんとうの自分じゃないような。でも、人間はきっとみんな、そう思っているんだから、しかたがないね」
季里が変わった、と感じているのは、ひとつと半分、歳をとったからなのか、それとも作り直されたからなのか、それは恭司にはわからなかった。そして、自分自身も――。
「人間は、悲しいね。自分のことも、ひとのことも、ほんとうの中身は分からないもの。それでも、生きていくしかないんだね、人間の中で」
季里は、淋しげに微笑むのだった。
「でも、私は覚えているよ。鏡魔や加野さん、幻水局の人たち、更紗のことも……。私はいま、あのときの私じゃなくって、変わってしまった私。でも、忘れてはいないよ。――私、恭司のそばにいていい? 変わってしまっていても」
「いいよ」
恭司は微笑み返した。
「俺にもよく分からない。先のことも、昔のことも。でも、今は、季里といっしょにいるさ。俺はたぶん……変わっていくところじゃなくて、季里の本当の中身みたいなものが分かるような気がするんだ。それは、変わらないものなんだと思ってる。だから、そう思ってるうちは、いっしょにいるよ。それでいいだろう?」
「うん。――ありがとう」
季里は、うれしそうにうなずいた。
恭司は心の中で、つぶやいていた。
(ちょっと、淋しいけどな)
これからも、何度でも思い出すだろう。あのとき恭司は、神に願った。『季里が、自分のなりたい自分に生まれ変われるように』と。
それはかなえられたらしい。
けれど恭司にとっては、あの季里――体が弱く、引っ込み思案の季里、自分の『力』をもて余している季里、それでも誰かのためになろうと懸命な季里……それが、とてもいとおしいように思えるのだった。
それでも、しばらくは、このまま季里を見守っていよう、と恭司は決めた。自分が見つけたように思う、季里の「本当の中身」――それを見失わないかぎりは、なんの問題もない。
それが、人の一生のある時期にしか現われないものだとしても、恭司の記憶には、すべてが残されているのだった……。
「恭司、どうしたの?」
季里が不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもない。……陣内たち、遅いな。迎えに行こうか」
「うん」
恭司と季里は、立ち上がり、歩き出した。
花の季節、通りには人がこみあっている。その列の中に、いつかふたりの姿は隠されてしまう。
そして、降る花びらは薄く曇った空に溶け、すべての目に見えるものを、白く覆い隠してしまうのだった。
あたかも、雪のように。
この物語は、1988年の冬から90年の春にかけて起こったできごとである。
その88年の冬、東京を記録外れの豪雪が襲ったことは、どんな記録にも、誰の記憶にも残ってはいない。
世界が造り直されたためである。
造り直された世界に、季里と恭司は生きている。そして、私たちもまた――。
あなたは夢の中で、もうひとつの世界に生きたことはないだろうか。目覚めたとき、今の世界にかすかな違和感を感じることはないか。
それは、世界が造り直されたからなのだ。もとの世界と寸分かわらない、それでいて微妙に違う世界。
いつかあなたは、水淵季里と、すれ違うかもしれない。どこかの街の、どこかの『道』(ROAD,WAY,AVENUE)で。
けれど、あなたは彼女だと気づくことはない。世界の終わりに立ち会った少女だと知ることもない。
彼女は、かつて自分が望み、恭司が願ったように、ごく当り前の、小柄で控え目な女の子なのだから。
水淵季里、十八歳。大学一年生。
(1991・3)
水淵季里最後の事件「神の冬、花の春〔アヴェニュー〕」 早見慎司 @lao_suu
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