第8章 『戦い』 【3】
最後の一キロぐらいだろうか。ふいに吹雪が止んだ。
それにも助けられたが、道を迷わずに『ねむ』を目指すのは、やはり困難だった。ランドマークが何もないのだ。平べったい街だった。
「こっちの方なんだけどな……」
つぶやいた恭司に、もうひとつの奇跡が訪れた。
歩いている途中に、逝川高校の図書館の時計塔があったのだ。
この街で、そこより高い建物は、他にない。
だが恭司は、森本先生の安否を確かめようとはしなかった。それより先に、やらねばならないことがある。
学校の校庭には、誰かが倒れていた。『誰か』は、恭司にはすぐ分かった。
季里に再会できた喜びと、倒れて動かない季里を見た焦りが、残りの百メートルほどを歩かせた。
「季里!」
のどを振りしぼって声をかけると、季里はゆっくりとこちらを見た。
「恭司」
季里は、うっすらとほほえんだ。
「しっかりしろ!」
ようやく季里にたどり着いた恭司は、その小さな体を抱き起こした。
「森本先生は?」
「分からない。図書館がもう、埋もれそうなんだ」
「そう……くやしいけれど、私にはもう、何もできそうにないの」
「いいんだ。もう、いいんだ」
恭司は季里の体を揺さぶった。
「今、うちへ連れて行くからな」
「ううん。私は、もうどこへもいかないよ。恭司のいるところが、私にとっての『家』なんだから」
「何言ってるんだ」
「ずっと考えていたの。どうして恭司といっしょにいたいのか。考えても、考えても、わからなかった。でも、いま、わかったよ。わけなんてないんだね。私、ただ恭司といっしょにいたかっただけなんだね」
季里は、恭司を見つめた。
「おねがい、恭司」
「なんだ?」
「私、もうすぐ死ぬけれど、そうしたら、私のこと、忘れてね」
「そんなこと、できないよ」
「どうして?」
「だって、俺にとって季里は――第一、あの世で会わせる顔がないじゃないか」
自分は何を言っているのだろうと思いながら、恭司は答えていた。
「だいじょうぶ」
季里は、いっしょうけんめい、ほほえもうとしているようだった。
「死んだあとの世界なんて、ないんだから」
違う。そういうことが聴きたいんじゃない――恭司は言いたかった。
けれど季里は、ぽつぽつ、と言うのだった。
「ほんとうに、何もないんだよ。だから、約束して」
「……ああ、わかった」
それを聞いて、季里は安心したような顔をした。
生まれて初めて安心したようだった。
そして、言った。
「――さようなら」
目を閉じた季里の体が、恭司の腕の中で重くなった。
恭司に何ができただろう。もちろん、更紗との戦いなど知りはしない。ただ、その体を抱いているしかなかったのだ。
……いつの間にか、あれだけ降っていた雪が、止んでいることにも、恭司は気づいていなかった。
ただ、最後のときが来るのを、待っているだけだった。その意識も薄れて来た、そのとき――。
降り積もった雪に、軽々と足音を立てて、ひとりの男が現われた。中年で、地味なオーバーを着ている。片手に、何か革らしいものを丸めて持っていた。
季里が見たら、男が何者なのか、すぐに分かっただろう。だが恭司は、男に会うのは、初めてなのだ。
「別れはすんだかね」
男が微笑んで、言った。
「あなたは……誰です」
「神、と言ったら、信じるかな」
「信じます」
恭司は即答した。
季里と過ごした日々の中で、恭司はさまざまな霊異を目の当たりにしてきた。神だけを否定する理由は、ない。
「よろしい」
男は微笑んだままで、
「水淵季里に免じて、最後の――いや、最初の選択を、君にゆだねよう。即ち、季里の再生だ」
「季里は、生き返るんですか」
意識を失いかけていた恭司は、襟から雪でも入れられたように、『目が醒める』のを感じた。うずくまっていたのが背を伸ばし、男を見据えた。
男は、手にした革を、パラリと広げた。そこには絵と文字が描かれていた。びっしりと、恭司には読めない、どこのものかも分からない、ことば。そして中央には、いくつかの、季里の肖像画。
「触れてみるがいい」
男は恭司の手を取って、季里の絵に触れさせた。
「想像してみたまえ、再生した季里を。だが、元のとおりというわけには、いかん。水淵季里は、お前が望んだ形で生まれ変わり、世界は、それに沿って、造り直される」
「どうして俺なんかが?」
「別に、お前である必要はない。だが、お前でいけないということもない。……お前は、自分がとんでもなくすぐれた人間だと思うかね?」
「いいや」
「けっこう。それなら、かまうまい。多かれ少なかれ、人間は、自分の世界を選んでいるのだ。その一つにすぎんよ。たとえば、誰か、たいへんにりっぱな人間が現われて、この世界を破滅から救ってくれる。そう思っていたかね? ちがうよ。誰でもいい。誰かが、自分にとって本当に必要な選択をしたとき、それが世界を動かすのだ」
恭司はきょうまで、答を避けようとしてきた。だが、今、それは試されている。
考えていると、ふたつの選択肢が浮かんで来た。どちらもむずかしい選択だった。革の上で肖像画が踊り、次々に消えていって、最後にふたつの季里が残った。
考えに考えた末、恭司はひとつの季里を指差した。
「よろしい。後悔しても、かまわんよ。もう取り返しはつかんのだからな」
声と共に、男の姿は雪の中に、溶けるように消えた。
恭司は、季里を抱いて、何かが起こるのを待った。
やがて、猛烈な眠気が襲ってきた。
逆らおうとしても、もう、まぶたを開けていられない。
恭司は、最後の希望を願いながら、ゆっくりと、目を閉じた。
「恭司! 恭司?」
季里の声だ。生き返ったのか。そう言おうとしたが――。
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